第12話


 黒い仔猫が我があばら家に寝床を拵え、早数日。

 いやはや馴染んだもの、などと気安くは言い難い。それこそ猫は家に居着く獣なれば。

 この身に全幅の信を置いてくれるなどとまさか思うまい。己がかの娘子より得るべきは信頼ではなく、信用である。この現世で、利用価値を見出されることである。


「兄貴は……」

「おう、なんだい」

「い、いや、その……なんでもないッス」


 そう広くもないビルの一室。

 顔を合わせる度、遠慮がちに薄ら笑いを浮かべる娘に、さてどう踏み込んだものかと、悩む。

 こういう時はこの粗忽な性質が恨めしい。いやさ、時ばかりは無駄に長く、それは長くがあったのだ。その無用の長々とした時間の中でこの悪性を正すということせなんだ我が身の不徳と言えよう。

 幼い子供を相手にひどく往生している。大の男がまったく、無様なもの。

 レオン辺りに笑われそうだ。




 日の出の早まりを覚える春日和。白んだ街並みを窓から望み、朝焼け露に濡れるアスファルトの匂いを嗅いだ。

 早朝、元は給湯室だった炊事場に赴くと、どうしたことかそこは、煙で充満していた。


「おぉ!? おいおいおい」

「ぁ、兄貴ぃ~……」


 煙の中に黒く小さな人影。猫娘のエルは、ガスコンロを前になんとも情けない声を上げた。

 兎にも角にも窓という窓全てを開け放ち煙を追い出す。依然、閑静な早朝の街へ、朦々と焦げついた臭気を解き放った。火災報知器がガラクタ同然であったのが幸い、もとい危なっかしいことこの上ない。


「あ、朝ごはん作ろうと思って……」

「ほぉ、それで、こりゃなんだい」

「……卵焼きッス」


 フライパンの中心で黒煙を上げる黒い物体は卵だったか。食材の買い置きなどなかった筈だ。おそらく昨夜のコンビニでこの娘が調達しておいたのだろう。

 その気遣いの行き届きに比して、実践はまだ不得手と見える。

 恥ずかしげに下を向く娘子の頭の上で、しゅんと両耳が萎れている。


「次に火を使う時ゃ、己を呼びなよ。慣れるまでは危ねぇから。いいかい?」

「あ……は、はいッス! ごめんなさいッス……」


 小振りな頭に軽く触れ、撫でる。柔らかな毛並みの下、耳が頻りに揺れ、微かな震えを感じた。


「ハハハッ、なんだなんだこのくれぇで。随分としょげ返っちまって」

「だ、だって、その……拾ってもらってから今まで、一宿一飯どころじゃない恩義がありますから! なにかでお返ししないとって、思って、思ったのに……」

「ほほう、そらまた殊勝な心掛けだな」

「そ、そんなそんな。当然のことッスよ当然の! はは、はははは……」


 なにやら言い訳染みた物言いで、娘は取り繕うように笑みを作る。

 さてさてなにを気負うておるのやら。無為徒食の輩は厄介払いされるとでも恐れてか。

 はたまた、この聡い耳が、なんぞ聞き取ったのやもしれぬ。


「そう気を張らずともな、掌返して追ん出したりしねぇから安心しろ」

「……」

「流石に、信頼をしろとまでは言わんさ。なんせ行きずりで偶さか出会うた怪しげな男だ。だがそれだけに、怪しげな手管と伝手に通じておってな。お前さんが一人立ち出来るように計らう程度、こう言っちゃなんだが造作もねぇんだぜ?」


 お道化て肩を竦めて見せる。

 娘は、伏し目がちにそれを見上げて来た。それは、実に怖々とした────

 娘が自分自身に対し、厳に禁じ続けてきた心根。


「……ホントに?」

「おう。請け負うとも。無論、お前さんにその気があればの話だがな」


 娘は、先夜の成り行きを聴き知っている。別段、隠し立てするようなことではなかった。盗み聞きとて、咎められるようなことでもない。

 なにより自身の与り知らぬところで勝手に決められた仕儀。あるいはこの娘が気に染まぬと言うなら己は手出しを控えるだけだ。

 おのれの生き様はおのれで決めるもの。可能不可能を論ずるは後も後。決意あって、全ては始まる。

 望みあって、その進む道を決める。

 では、この娘子は。娘の望みとは。

 暫時、黙って俯いていた娘は、ゆっくりと顎を上げ、己を見上げた。

 揺れる瞳にあるのは、不安。そして抑えようと抑えきれず、隠そうとも隠しきれぬそれは────期待であった。

 この娘は過度な期待だの希望だのが往々にして裏切られ易く、また失望がどれ程に苦み辛いかをよくよく心得ている。

 それを臆病などとは言うまい。ほとほと賢しき心積もりである。


「お前さんのその堅ぇ気組は見上げたもんだが、しかしどうだい、今少しばかり」

「……優しい人はいました」


 ぽつりと娘は言った。感情の色味も薄い、ひどく虚しい響きで。


「親切にしてくれる人は、いました。逆に親の仇みたいに心底嫌われることもありました。殴られたり蹴られたりはしょっちゅうで、血のオシッコが何日も止まらない時だってありました。でもそんなのは、平気です。痛いのも、苦しいのも、耐えればいずれ消えますから……」


 それは自嘲の笑みだった。苦辛の過去をその目に映しながら、どうしてかかの娘が軽んじるものは自分自身なのだ。


「恐いのは……本当に、耐えられないのは……無視されることです。まるで居ないものみたいに扱われることが、誰にも見られない聞こえない、触れられないものにされるのが……誰かが識ってくれなきゃそれは無いのと同じなんです。この世に存在出来なくなるんです。あたしら妖精なんて、突然現れる自然現象みたいなものです。ある日突然消えてなくなったっておかしくない。それを誰も、何も、気にも留めません。空しいんです。堪らなく恐いんです。恐いんです。恐いんです!!」

「……」


 娘は叫んだ。万感の、全霊の、恐怖を。


ないでください……なんでもします。身の回りのお世話でも……痩せっぽっちだけど、体だって、好きにしてください……だから、あたしを見てください。として、扱ってください。お願いします。お願いします。お願いっ……だから……!」


 シャツの裾に両手で縋る。華奢な、小さな手が、その見た目からは想像外の力で必死に、強く強く。

 見上げる娘子の顔が歪む。苦悶する。鋭痛を堪え、今にも嗚咽し、感情を決壊させるその寸前で忍耐している。

 幾度の裏切りを経たのか。幾度の失望を噛み締めたのか。寒々しい現実に骨肉と心を凍てつかせ、諦めが常態となるまでに果たしてどれ程の時を要したか……そう長くはなかったろう。夢想を抱いて生きるには辛い浮き世だ。

 孤独の生涯に、諦めながらも希望を見ずにおれぬ。そのいたいけなさは痛ましくさえあった。

 現代現世にあってしかし、この懊悩の何が奇異おかしかろう。格段に豊かさを増した資源大量消費社会。昔日よりも恵まれていると余人は軽々にのたまう。一面、それは正しいやもしれぬ。飢餓や疫病は減り、子が七五三を数えることは当然と考えられるようになって久しい。その慶ばしきを疑う余地はない。

 ゆえに、ゆえにこそ。この目の前で、容易に涙すら流せず立ち尽くす一人の娘子を救えぬ世界を疑わねばならぬ。否定せねばならぬ。

 誰あろう、己だけは断じて。


「……」


 義憤を肚のそこで燃やす己の、なんと滑稽なこと。反駁の余地なき無様よ。

 意気を吹き、息巻くは易い。所詮この身に能うのは、この拳の間合にあるものを打つか、護るか。この二肢。高々そればかりなのだ。その事実に幾年、幾星霜打ちのめされてきた? 飽き切るまでに厳然と、この身を切り刻んできたではないか。

 分際を忘れたかよ、刈間ギンジ。

 此度、自嘲を食むのは己であった。我が身の性能を見誤っている。恥ずべきことだ。己に出来ることなど、出来ることなど。

 笑んで、娘を見下ろした。殊更に子供受けする人相でもない。せめて僅かでも和らいでいればいい。

 この娘が僅かでも、安堵出来るなら。


「お前さんの望みを十全に叶えてやれるか、それはわからん。なんせ想い願いの一等深いところの話だ。軽々にうんと吐くこともできようが、それではお前さんも、安心などできまい?」

「……」

「カッカッ、大法螺吹いてやるのも甲斐性! と、そう言われっちまえばそれまでだ……この甲斐性無しにできることとなると、そうさな」


 ポケットに手を入れて、それを取り出す。

 娘の眼前にぶら下げて見せる。


「え……」


 ゆらゆら揺れる小さな銀色。何の変哲もないピンシリンダー型の鍵である。

 娘は半歩後退り、それを両手で受け取った。依然として不可解げに黒々とした目を瞬く。


「これって……」

「ここの鍵だ」

「ここ?」

「ああ、ここ」


 鸚鵡返しに鸚鵡で返す。そうして軽く足で床を打った。

 なんのことはない。このビルのこの階層、この部屋の扉を開ける為の鍵。それだけの木っ端な金属片。


「ここはもうお前さんの家だ。だから、この鍵はお前さんが持ってな」

「…………」


 呆然として娘は鍵を見、己を見上げ、そして今一度鍵に目を落とす。

 手の中にあるその小さなものがなんであるのか、即座には理解できず。しかし、少しずつ。亀裂を満たす石清水の如くに、その意味が娘の中で了解されるのが見て取れた。


「ぁ……」


 ぽたり、一滴。宝珠のように煌めく露。涙が鍵を打った。掌を打った。

 幾たびも幾たびも、涙は流れて落ちた。

 証と呼ぶには些末な、しかし現実の手触りと、意味。

 帰る家。

 おそらくは、この娘が心底から欲する、居場所……それになるやもしれぬ。ここは。


「うぁ、っ、あぁ……!」


 さめざめと泣き始めた娘子の頭を撫でてやると、娘はそのまま己の腹に顔を埋めた。両腕は腰に回され、裾を頑として握る手は相も変らぬ。

 幼子の温さが、身に沁みた。










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