第11話



 携帯端末を取り出し、目当ての名前を一覧から呼び出す。

 風は冷涼だが、そこには生々しい熱気を覚えた。夜はこれからとばかりの、人の、魔の、街の活気。それがビルの狭間から漏れ聞こえ、夜空の疎ら雲に宿りまた降り注ぐ。

 屋上の鉄柵に肘を預け、夜景になにやら耽った。

 呼び出し音が丁度三回。程なく、妙に艶気のある男の声がマイクから耳孔を揺さぶる。


『お前から電話なんて珍しいじゃないか』

「いくら死に損ないの爺でもな、今時スマホぐれぇは使うのよ」

『老人扱いして欲しいならせめてそれらしく振る舞う努力をしろ』

「これでも善処はしてるんだがなぁ、ハハハッ!」


 処置なし。そんな気息が受話口から溢れた。


「無沙汰だな、真柴警部補殿」

『今は警視だ。嫌味か?』

「昔を偲んでんのさ。なんせ昇進秒読みの出世頭様は肩書がころころ変わっていけねぇ」

『まったく……』


 真柴レオン。

 K県警外界事象特殊捜査科所属の元警部補。現在の階級は自己申告の通り、三十の半ばを数えぬ内に警視ときた。日ノ本有数の難関大学卒業後国家公務員採用1種試験を易々と通過し果せた所謂キャリア組。そこに才覚と確かな能力が揃えばなるほど、出世頭とのこちらの評に何程の錯誤もない。

 十年来の腐れ縁は、変わらぬ忌憚のなさで盛大に溜め息を吐いた。


『それで、用件はなんだい』

「なぁに大したことじゃあねぇ。つい先刻よ、仔猫を拾った」

『……続けろ』


 ちくり、針のように鋭く、警戒感が電話口から立ち上る。

 それをしかし、さも素知らぬといった風情で話を続けた。


「家もねぇ行く宛もねぇってんで部屋に連れ帰ってきたなぁいいが、それではい仕舞いという訳にもいかねぇ。住まわせるにしてもいろいろと手続きが要るだろう。この國に限った話じゃあねぇが」

『まあな……』

「その辺りを諸々踏まえて、差し当たり後見人になってだな」

『待て』

「たしか以前己が使っていた別口の名義がぁ、あったろう、ほれ、そっちに厄介になってた折の、嘱託の特務警官だかパート警官だか騙ったあれよ。いや成人の身分証明になりゃモノはなんでも構わねぇんだがな」

『待て!』


 怒声が耳を貫いた。端末を耳から離しても、大音量の御小言が過不足なく聞こえてくる。


『お前なぁ……軽々しく魔物を拾って、いや拾うだけならまだいい。良くはないがまだマシだ。生活の面倒を見るのも匿うのも勝手だ。だが、せめてもう少し段階を踏め!』

「踏んでおるだろう、今」

『スタート地点がおかしいと言ってるんだ』

「カッカッ」


 至極真っ当な苦言であった。

 なればこそ、この男に電話を寄越したのだ。


「まあ、思い立ったがと、よく言うだろう」

『……本人はなんと言ってるんだ。お前に在留の口利きをして欲しい、そう願い出てきたのか』

「いいや、あの娘が望んだのは今日の一宿一飯だけだ。他に期するものはねぇ、そう腹ぁ括った面してやがった」

『……』

「身の程を知っている。媚を売り、愛想振り撒き、時に図々しいふりしてお道化てみせもするが、全て承知の上でのこと。そういう救われねぇ賢しさが、どうにも気に入った」


 孤独を恐れ、誰かを求めながら、孤独であることに納得している。それは諦めに近しいが、冷徹な思索を尽くした覚悟だった。

 そういう者が、俺は好きなのだ。


「気に入ったんで、ちょいとばかり節介を焼いてやるのさ。頼まれもしねぇ恩着せよ」

『性質が悪いな』

「まったくだ。可哀想に」

『はぁあ……』


 他人事に宣う己にとうとう呆れ果ててレオンは五臓六腑から吐息した。


『その様子じゃビザどころかその子、無戸籍だな?』

「そうなる。ま、身の証が立つ程度に体裁整えるなぁ難しかねぇ。政所うえに掛け合うなり、裏に買い求めるなり……二つ目は冗談だぜ」

『当たり前だ。外特ぼくらに部屋へ乗り込まれたくないなら、今後そのジョークは控えてくれ』

「ククッ、気を付けよう」

『しかし、それならこの電話は何の為だい。聞く限り、お前がその仔猫を引き取るだけなら問題はないように思えるが』

「ああ、それがな……学校にな、通わせてやろうかと思ったのよ」


 おそらく、あの娘は学び舎と呼ばわるものを一切知らぬまま育ってきている。地頭の良さが災いして、それで支障来たすこともなく今の今まで生きてこられたのだろうが。


「当人の意思次第だが、行っておいて損もあるめぇ」

『それこそ、お前が指南してやれ。なにせ今まさに学生生活の真っ最中なんだろう?』


 意趣返しとばかり、実に皮肉気な口ぶりで、実に痛いところを突いてくる。


「そうさ、そうとも。老い耄れの糞爺がどの面下げてか子供らに混じって高校生活に勤しんでるよぅ」

『ふふふ、宮仕えは辛いな』

「私兵だ。遣いっ走り。いや鉄砲玉ってぇ方がしっくりくる。フトダマめの卜占がとち狂った所為で、とんだ暴発だぜ」

『……殺生石か』

「それ以外にあるめぇよ。己が未だ無様な生を晒す理由なんざ」

『……』


 殺生石は神出鬼没の権化。あれは次元境界にいとも容易く穴を開け、あらゆる場所に移動する。ゆえに、その存在を、影響が及ぼされるより前に感知することはほぼ不可能に近い。

 唯一、アメノフトダマノミコトの執り行う正占ますらの祭祀を除いて。


「通わされっちまってんなぁこの際仕方ねぇ。だがどうも、何分今の学校ってもんに不案内でな。入学の準備だの手続きだの、経験者殿に御教示願おうと思ったのよ」

『あぁ……なるほど』


 子持ちの知り合いは、生憎と少ない。その数少ない内の一人がこの男である。


「妻子は元気か?」

『元気だよ。アキがお前のことを心配していた。「ちゃんと食べてますか」だそうだよ』

「ハハハッ、なんだすっかりおっ母さんだな。アリアちゃんは今年幾つだ?」

『十一。もう五年生だ』

「早いもんだなぁ」

『ああ、本当にな……』

「しっかし、顔を合わせりゃ喧嘩喧嘩だったアキ坊とお前さんがまさか夫婦めおとんなって、おまけに可愛い娘までこさえるたぁ。世の巡り合わせってなぁほとほとわからねぇもんだ」

『なんだよ、改まって』

「感慨に浸ってんのさ。巫女とインキュバスなんて取り合わせ前代未聞だったが、案の定というか反目の根深ぇこと根深ぇこと。手前らの間を取り持つなぁ心っ底苦労したぜ」

『えぇいっ、十年も昔の話を蒸し返さないでくれ』

「カッカッカッ!」


 十年など、己にとってはつい昨日の事だ。老いさらばえ、ただ風化していくばかりのこの魂に、それでもまだ鮮やかに残ってくれている記憶。細やかな、思い出。

 この真面目堅気なインキュバスを昔話で困らせてやるのが、なんとも楽しくて仕様がないのだ。

 その後も、役所の手続きだの学校案内だの所帯染みた話を二、三、そうして取り留めもない思い出話を幾らか。電話の向こうに居る青年が変わりなく、そしてこの十年で立派な父親に変わっていたことを知った。

 変わらぬもの、変わりゆくもの。

 一途な想いに包まれながら、子は育つのだ。筋違いな実感を得て、筋違いに、俺はそれをひどく尊いと思った。












「変わらないのはどちらですか!? お母様!」


 魔導式端末による外界通信網の向こう側に在る彼女に、私は絶叫した。


「時代錯誤? 家柄と血筋に拘泥する貴女の口からよくもそんなことが言えますね!?」


 それはある種、規定された事柄だった。私がマスティマ家に生まれたその時から。

 貴族は家の存続の為に、同じ貴い血と結びつかなければいけない。そんなしきたり────糞喰らえだ。


「淫魔がっ、愛する男を貪って何を咎めるって言うの!?」


 色欲に命を尽くすのが我らではないのか。淫蕩に耽り、めくるめく夢に男達を堕さしむのが、至上命題である筈だ。

 ……私は、それがただ一人だった。

 私が貪り喰らいたいのは。私が融かし交わり重なりたいのは。私が、愛欲に沈め、私自身すら溺れたのは。

 私が愛した人は、あの人だけだった。


「お母様!? まだ話は! 私はあの人と……!」


 続く言葉は、携帯端末の無音に黙殺される。母は私の望みを切って捨てた。浅はかで、甘やかで、細やかな夢。

 愛する人と添い遂げたい、そんな小娘らしい我儘。

 わかっていた。何度も何度も、この問答を繰り返して、その度に道理を語って聞かせようとする母はいっそこの上ない誠実さで、厳格さで、私と向き合っていると言えるのかもしれない。

 現実を見ない私は、愚かだ。間違いなく。

 現実を受け入れない私は、いずれ母の指図によって魔界に呼び戻されるだろう。人界での在留許可を出し、資格と身分を保証しているのは誰あろう母なのだ。

 魔界。あの懐かしくも忌々しい世界に召還される。

 人界から、人の世から、あの人の。


「ケンくん……ケンくん……!!」


 それだけは、絶対にイヤ。断じて、認めない。

 私のケンくん。私だけのケンくん。愛してる。愛しています。貴方だけを。貴方だけしか見えない。

 わかってる。貴方が別れを切り出した理由も、それがまったく、どうしようもなく、苦汁の決断だったことも……裏で母が貴方にお金を渡し、脅迫紛いの恫喝をしていたことも全部全部全部。


「許さない」


 私と貴方を引き裂く全ての事象を許さない。

 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない!!

 だから。

 仄暗い洋室の奥。化粧台に鎮座するダークブラウンの小箱。蓋には金属の錠前が埋まっている。そして鍵穴の奥から────怪しい光が漏れ出している。


「ケンくん、待っててね。もうすぐだから。もうすぐ……永遠が手に入るよ。私と、ケンくんだけの……」








 寡男の独り住まい。そんなところに娘子が一人身を寄せるとなれば、なにくれとなく物入りだ。

 寝具を買い、衣服を買い、その他細々と生活雑貨を見繕う。中身の乏しい冷蔵庫に二人分の食料を買い込み詰め込む。

 それはなんとも小忙しい数日間だった。街へ出掛けて、大荷物を抱え、棒のように草臥れた足を叱咤して歩く幾度目かの帰路。


「にゃはは、大量大量♪ いやぁこんにゃ豪勢に買い物したのアタシ生まれて初めてッスよ」

「そうかい」

「……ごめんなさい」

「ん? どうした突然」

「お金、いっぱい使わせて。迷惑かけて」


 夕暮れを背に、突如娘の顔は翳った。影の中には変わらず爛漫な笑顔がある。しかし。

 時折、娘はこんな表情カオをした。それは、言葉通り金を浪費することへの後ろめたさであるのだろうが、それだけではない。

 それはおそらく。

 戒めている。己を。今の自分の立場を。

 いや、言い聞かせているのだ。

 こんなことは長くは続かぬ。調子に乗るな。終わりは来る。きっと来る。きっと、今に。

 捨てられる。


 ────希望を持つな


 必死に、執拗に心中で繰り返している。それはそんな顔だった。

 慣れているのだ。他人の親切に、仏心に。そしてそれが、そう長続きするような代物ではないと、知っているのだ。


「……や、にゃははは! さ、行きましょっか。日が暮れちゃうッスよ、兄貴」


 空元気を振り撒いて娘が駆け出す。

 それを健気と取るか、憐れと取るか。あるいは、そういった感情を対手より引き出す目論見が娘にはあり、己はまんまとそれに嵌められている。なるほど、あり得ることだ。もしそうなら、己は潔く負けを認め精々都合の良い銭袋役を務め上げよう。

 そうならいい。その方がいい。

 そのくらいの強かさあらば、あの娘は何処であろうと生きて行けよう。刈間ギンジなどという出自怪しき男を頼るまでもない。なんとなれば利用し、使い途を終えたなら見限ってしまえばよいのだ。

 そうであったなら、よかったのだが。


「儘ならぬものよな」


 異界と現世。

 著しく融け合い、混ざり合ってしまった今でさえ、彼の地と此の地は存外に遠い。


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