第10話
借り手もつかない雑居ビルの最上階。それが今時分、この地における己の
コンクリート打ちっぱなしのだだっ広い十畳間。元は何かの事務所であったそうだ。
事務机やら書架といった業務用備品は既に撤去され、家具すらろくろく残されてはいなかった。
ただ唯一、黒革のソファだけが部屋の真ん中を占拠している。置き土産、というより運び出し処分する手間を嫌ったのだろう。
己の持ち込んだ硝子テーブルと細々した生活雑貨を除けば、この部屋の全容はそれで仕舞い。
頭上で回る天井扇はせめてもの遊び気であろうか。
「なーんもないッスね」
「引っ越して来たばかりでな」
「いやそれにしたってこれはちょっと……あたしが住んでた廃ビルのがまだ生活感あったッスよ?」
取り壊し予定の建物をまさしく我が物顔で住処に仕立てあげるのもどうかと思うが。まあ言わぬが花よ。
弁は立っても未だに足腰の立たぬ娘子をソファに横たえる。寝入った赤子同然に、娘は座面に身を沈めた。
「……なんか、すんませんッス」
「あん? どうした。ハハハッ、今更しおらしくなっちまってよ」
「今更って言われたらそりゃもう今更ッスけどね! でも、だって……ご迷惑お掛けします」
「さて、俺ぁ拾った猫に餌付けして家まで連れて帰ったまでよ」
「にゃおん」
「ハハハッ!」
実にそれらしい鳴き声である。妙に気の利いた娘っ子だ。
愛想だ媚だの使い方を心得ている。それを世馴れと取ろうか、擦れ根性と厭おうか。
強かだ。見上げたものよ。
「ならばついでに風呂でも入れてやろうか?」
「いやんえっち! やっぱりあたしのカラダが目当てだったッスね!」
「へへへ、じたばたすんじゃあねぇや。おぼこじゃあるめぇし」
「いやー! ケダモノー! スケコマシー! わぷっ」
威勢良く悪い方に乗り良く吼える娘に毛布を放ってやる。もぞもぞと蠢き、毛布の端から二つの耳と頭、そうして小さな顔が出てきた。
「まあ、風呂は明日でよかろう。西側の扉が脱衣所だ。好きな時に使いな」
「……ありがとうございます」
「あいよぅ」
「あれ、そういえば兄貴は何処で寝るんスか? 他の部屋とか?」
寝床の質を気にするほどの繊細さは持ち合わせぬ身ゆえ。今ほど娘が寝転んでいるソファが、己の普段の寝所である。
「ああ、そんなとこだ。少し早いがもう休めよ。今宵はほとほと多事だったからなぁ、随分と疲れたろう」
「あ、はい、まあ……ううん、ホント言うとむっちゃ疲れました」
「一晩眠ればオードも戻ろう。そら、灯りを落とすぞ」
「はい……兄貴!」
壁際のスイッチに手を掛けたところで突如、呼ばわれる。
見やった娘子は、すぐには二の句を継がず。迷い、躊躇い、探しあぐね。
「……おやすみなさいッス」
「ああ、おやすみ」
使い古されて、妙に小馴れた柔らかなソファと、こちらは買ったばかりらしい真新しさの残る毛布。なんだかちぐはぐな感触に挟まれて、それでも暖かな寝床に安堵した。
微睡み、ぼやけた頭の中で、繰り返しに浮かぶ。
変な人間。
「……変な人間」
そう繰り返しに呟く。同じ印象。同じ言葉。
それは、部屋に転がり込んだ今も変わらない。むしろ補強されたような気さえする。
親切にしてくれる人はいた────けれど、肩入れしてくれる人はいなかった。
それはそうだろう。ほんの一時、勢いつけて発揮する仏心とかいうやつと、深入りして終わりの見えない責任を負い続ける覚悟はまったく違う。
どちらがより厄介で、困難かは言うまでもない。
その厄介者であるところの自分を、受け入れてくれる人間はいなかった。それが当然だ。出自の知れない自分のような魔物は、人界では例外なく忌み嫌われる。同じ魔物が相手であっても。いやむしろより一層、女性型の、同じ
自分のような者は、心底疎ましかろう。
不思議とは思わない。人界に来られる魔物は限られている。今でこそ、多くの渡界者で溢れているかのように見えるこの世界だが、魔界は未だに深刻な女魔物余りが続いている。
淫魔や吸血鬼など解りやすい種族もあれば、人間の堕落、悪徳の行為、精神性を得て存在を維持する悪魔のようなケースもある。
けれど、これは極論すれば、魔界の住人全てに当てはまる。
魔なるモノには、それを
感情をくれる誰か。好も悪も色とりどりに、数限りなくその内に宿す、この世界で最も豊かな心を持つ生物。
人間以外にない。
人間が、魔物達の生命線だった。
……まあ、近頃は特に、性欲にこそ、その重きが置かれているけれども。
「ぁ、あたしは違う……違うもん……」
そりゃあまったくの
私を軽々抱きかかえてくれたあの男の力強さが、否応なく脳裏を過る。筋張って、血管の浮いた前腕と、太い二の腕。程よい弾力の胸板に頬を預ける安心感。見上げた男の太い首、そこに隆起した喉仏の存在感。雄の、象徴のような器官。
最近の魔界ではまず見ない、猛々しさを秘めた男性。刈間ギンジ。
その姿を思い起こすと、どうしても、やっぱり、邪なものが胸の奥に擡げてくる。下腹部に、熱を。
「ッッッ! だぁーッ! これじゃあただの痴女じゃないッスか!?」
包まった毛布の中でもぞもぞ悶える。
仕方ない。仕方ないことなのだ。
……誰に対する言い訳なのやら。
「……」
人界に来たのは、別に
孤独だった。気付けば、独りで生きていた。魔界に居た頃も、人界に入り込んだ今も結局ストリートチルドレンの一人。
街の雑踏を歩く度、遠く人の喧騒を聞く度、私は自分が独りであることを思い知る。
でも本当に恐いのは、孤独感に苛まれている時じゃない。恐いのは、私が、怖れて止まないのは。
孤独の辛さを忘れてしまうこと。慣れ切って、独りを寂しいと思えなくなること。
妖精なんて曖昧な自然現象みたいなものだ。ただふらふらと存在して、流れていけば、いずれ土塊みたいに風にさらわれて消えるだけ。
消えてしまう。なくなってしまう。
孤独は辛い、独りは寂しい、そうやって涙を流せるなら、私はまだ私だ。ここに居る。エルって名前の猫妖精だって、言い張れる。
でもそうでなくなったら。そういう当たり前すら忘れて失ってしまったら。
魔界にも人界にも私を覚えていてくれる誰かなんて居ない。私はただ、誰でもない何かとして、この世界から消去される。
それが、堪らなく、こわい。
「…………」
ソファの上で背中を丸め、体を両手で抱き締める。私はここに居る。ここにちゃんと在る。それを確かめる為に。
毎夜毎晩この確認行為をする。止められない。止めたら、朝を迎えられないんじゃないか。本気でそんな不安が胸を、頭の中を一杯にする。こうなったらもう眠れない。私はただ日の出の到来を、息を潜めて待つことしかできない。
誰か。誰か。誰か。
「……兄貴」
刈間ギンジという人が、私にはまだよくわからない。今日、いやついさっき出会ったばかりなのだからわからなくてもそれは当然で。わかった気になる方がおかしい。頭がおかしい。
親切な人だと思った。優しい人でよかった。
────何か裏があるんじゃないか。本当は、とても恐ろしい人なんじゃないか。
疑いは幾らでも想像できた。それでも、こうしてのこのこ付いて来て、与えられた寝床で一時の安堵を噛み締めている。
(やっすいなぁ、あたし……)
優しくされたら、やっぱり嬉しい。まるでなんでもないことみたいに、気負わない衒いのない彼の施しは、暖かだった。
善い人。でも聖人じゃない。覚者なんて柄でもない。
不思議な能力を持っていて、明らかに戦い馴れした態度で、そもそも戦う理由を抱えている……ただの人間じゃないことだけは確かだけど。
でも、私はたぶん今、とんでもなく運命的で、一生涯で一番の幸運に巡り逢っている。
私の孤独を吹き払ってくれる。私が今の今まで孤独だったという事実を思い出させてくれる。
私を助けてくれる。
そんな、都合の良い人に。こんな図々しくて、浅ましくて、烏滸がましい願いを、叶えてくれるかもしれない人。
私に居場所を……私の居場所に、なってくれるかもしれない人。夢にまで見た。夢でしかなかった。こんなこと。
「兄貴……信じて、いいッスか……?」
貴方を利用してもいいですか。貴方に縋り付いても、いいですか。
「!」
物音がする。彼が出て行った扉の向こう。
程なく、それが階段を上がる足音であることがわかった。
ここは最上階の部屋だ。すると彼はその上、屋上に向かったのだろう。こんな夜更けに。
「……」
不信感、なんて持てるほど私は刈間ギンジを知らない。だからこれは間違いなく、不安感だ。
不安に衝き動かされ、未だ重みと怠さの残る体を起こす。それでも、立って歩くくらいなら支障はない。ネコ科の魔物は夜こそ本領。オードの回復も早い。
のろのろとした動きで、努めて足音を殺しながら、私は屋上への階段を登った。
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