第7話

 ゆっくりと、眼前を横切っていく皿とその上に揃って並ぶ乾いた玉子を見送る。ゆっくりと、その後を追従していく皿と色とりどりのネタを見送る。

 どれも一様に鮮度は悪い。乾き、腐って、いずれ廃棄される。食品ロスの増加は飽食の現代に付きまとう由々しき問題だ。

 生産者や料理人に畏敬を持てだの他の貧しき者らを慮れだの、口はばったいことを言うつもりはない。というか、言う資格もない。

 が、それはそれとして物を食うに困らず済んでいる。この今を、素朴に有り難がるくらいが相応であろう。


「んにゃうみゃっ、うみゃあうみゃあ!」

「わぁかったから、も少し静かに食えねぇのかい」


 その意味で、心底旨そうに寿司を頬張るこの娘子の様は真っ正直だ。てらいがない。


「回転寿司でそこまで喜べっちまうんだから、お前さんは安上がりな娘だよ」

「んぐっ、むちゃくちゃ美味しいッスよ? 兄貴はもう食べないんスか?」

「ああ。ほれ、こいつも食え」

「わーい! マグロはやっぱ赤身ッスよ!」

「カッカッ、生意気言いやがる」


 黒い猫の耳がぴくぴくと頻りに動く。

 腹を空かせた娘子を連れ、帰り道の回転寿司チェーンに入って小一時間。デザートのアイスまで平らげて、娘はぽっこり膨らんだ小腹を擦った。


「満足したかい」

「はいー、もう食べらんにゃいッス……人界は食べ物美味しいッスよね~。この国は特に」

「その分、値は張るが」

「あははは、家無しにはキツい事実ッス」

「今まではどうしてたんだぃ?」

「ま~、そこは、ね? わたくし猫でありますから、小鳥とか魚とか捕まえたり。飲食店の裏のゴミ箱なんかは漁り甲斐があっておススメッスよ?」

「ハッ、そりゃ、今後の参考に覚えとこう」

「にへへへ」


 路頭に迷う準備ならいつでもできている。猫ほど軽やかに生きることなどできまいが。


「ふぃ~……ではでは、そろそろ行きましょっか兄貴!」

「あいよ」

「そのぉ、それでですね。お代の方にゃんですがぁ……」

「野暮ってぇこと言うんじゃねぇや。素直にごちそうさんでいい」

「うみゃおん! さっすが兄貴太っ腹! ごっちそうさまッス!」

「へいへい」

「よっイケメン! 御大尽! さすあに!」


 おべっかも堂に入ったもの。調子の良い囃しっぷりの娘の猫額を小突く。

 店を出ると、冴えた夜気が頬を撫でた。春先なれば夜は冷えような。


「寒かねぇかぃ、その恰好は」


 裾の短いカットソー、丈の短いホットパンツ。早くも中身を消化したらしい小腹がほぼ丸出しの娘子を見やる。

 娘は妙に気取った所作で人差し指を振りつ、舌先を鳴らした。


「兄貴、それこそ野暮ってもんッスよ。女子のオシャレは根性ッス!」

左様さいで」

「まあちょびっとだけ寒いッスけどぁっくちゅん!」


 ブレザーの上着を脱ぎ、細い肩に掛ける。これぞまさに御仕着せというやつだ。

 きょとんとこちらを見上げた猫目が、笑みをこぼす。


「にへへへ~……兄貴はなかなかの女誑しっぽいッスねぇ」

「戯け」

「……でも実際、その……どうしてッスか?」

「ん?」

「や……どうしてこんな、よくしてくれるのかなぁって」

「飯奢ってやったくれぇで大仰だなおい」

「そういうんじゃなくて! いやゴハンはマジで感謝ッスよ? わりと心の底から切実に。懐事情が、その、そろそろあれで……」


 照れ隠しに大笑いして、娘はまた不可思議そうな顔に戻った。


「見返りを求めねぇ親切は不気味か?」

「ぶ、不気味とまで言わないッスけど……正直、相当ヘンな人間ッスよ、兄貴って。人界の人間種は基本魔界の住人のこと恐がるでしょ。いや兄貴にしたら、あたしみたいな猫妖精くらい簡単にぶっ飛ばせるんでしょうけど」

「くくっ、まあできねぇとは言わねぇが」

「お見逃しありがたく! ……それはともかく、最近は落ち着いたみたいッスけど、何年か前にもほら、未成年の男の子を攫ったとかいうのも」

「発情期に入った剣牙虎サーベルタイガーだったな、ありゃ。古代種の純血で、身体能力も並の獣人を二回りは凌ぐってんで外特も随分手を焼いたらしい」

「それッス。その後からッスよ、獣から人化した魔界人種の渡界条件増えちゃったんスから。同じネコ科ってだけで……やんなっちゃうッスよ」

「気苦労だな、そいつぁ」

「ホントはもっと、ちゃんとしたやり方で……この国に来たかったッス。言い訳みたい、ってかもろ言い訳ッスけど……憧れてたんスよ。人界に、この国に」

「……」


 照れ臭そうに鼻を掻く。娘の、やはり衒いのない笑顔。


「……ま、それぞれ事情があろうさ」

「……」


 我ながら軽々しく宣ったという自覚はある。

 無言で己を見上げる娘の視線は、納得というものから遥か遠い。

 それでもどうにかこうにか、この猜疑の瞳を安堵させ得る答えをり出すなら。


「そうさなぁ」

「……」

「この國に、そういう無茶を踏んでまで行きてぇと思ってくれた。その心持ちが、嬉しかった……ってぇのはどうだい?」

「えぇ……」


 益々もって疑わしげに目を細めて娘は呻いた。


「ぶっちゃけ余計に胡散臭いッス」

「信じる者は掬われるらしいぜ」

「絶対字違うでしょそれ。違っちゃダメなやつッスそれ」

「おぉそうそう、実は俺ぁ無類の猫好きでな」

「せめて最初に言ってくださいよ、嘘でも。いや嘘ならなおのこと……」

「カッカッカッ、そうかい。そら気付かなかった。次からは気ぃ付けるよぅ」


 御評判通り、胡散臭い笑声で人の悪い笑みを向けてやる。

 娘は長い長い溜息を吐いた。


「変な人間ッスね、兄貴は」


 繰り返す娘の顔は、変わらぬ呆れと諦めと、そして……どこか安堵しているように見えた。

 隣り合い、道を歩く。ふと、間合いが四半歩ほど縮まっている。付かず離れず、触れず掠らず。どうやらそれが、己がこの娘子に許された距離、であるらしい。


「……」

「? どうした?」

「や、あの……根性とか言っておいてなんなんスけど……」

「あ? ……あぁ、はばかりかい」

「はば?」

「便所に行きてぇんだろ?」

「や、まあ、そうッスけど。兄貴はデリカシーない方の人ッスか」

「横文字にゃとんと弱くてなぁ」

「意地悪な人でしたか……」

「くくく、すまんすまん。待っててやっから、そこのコンビニで済ましてきな」


 丁度差し掛かったコンビニエンスストアを親指で差す。煌々とした店内の照明が、夜闇の中にあってはその存在感がなにやら非現実的だ。時間の感覚を狂わせられる、とでも言おうか。

 とはいえ、催した娘子にとっては渡りに舟、地獄に仏。

 そそくさと店内へ駈け込もうとする、それを一旦制する。


「な、なんスか。ま、まさか……そ、そそ、そういうプレイを御所望で……?」

「ばぁか。ついでだ、なんぞ入用なもんがあるんなら買っていけ……こいつで足りるか」


 財布から万札を出して手渡す。

 娘はそれを受け取ると、暫し呆けて手の中の札を見下ろしていた。


「……あたしが」

「?」

「あたしが、これ持って逃げるかもって思わないんスか」

「逃げてぇのか? 行きてぇんならお前さんの好きにしな。追い駆けてってとっ掴まえようなんて気はねぇからよ」

「……お人好しッスね」

「ちょいと違う。俺ぁ物好きなのさ。いやぁ? 数寄者と呼んでくれても構わねぇんだぜ? ハハハハッ」


 見得を切ってなど利かせてやると、娘は今度こそ呆れの気息だけを吐き出した。


「さあさあ漏らす前にとっとと行っちまいな」

「ふんだ! このスキ者!」


 笑いながら捨て台詞を置いて娘は店に駆け込んでいった。

 駅前のロータリー近く。幸いに、ガードレールやら花壇の縁やら座れそうな場所には事欠かぬ。コンビニ近くの車両通行止め用の太い鉄柵に腰を預ける。

 夕飯、あるいは酒宴時と言っていい時刻。駅前の飲み屋街からは頻りに酒焼けた喧騒、歓声が響いてくる。

 帰宅の途につく会社員、学生とてもなお多い。賑わいというなら、これ以上ない光景。活気を感じる。それがなにやら……悪くない。

 そうして、然程に物思いに耽る間もなく、烏が肩に舞い降りていた。


『どういうつもりだ』

「藪から棒になんだ」

『あの猫化のことだ』


 茶化した反問にも取り合わず、烏は今日も今日とて単刀直入である。


「なに、袖振り合うも他生の縁と、よく言うであろうが」

『我らの役目、忘れたか』

「忘れられるもんなら、今少し楽だったろうな。この生涯も」

『……』

「フハッ、そう苛々かっかするな。あの娘の仮住まいを粉にしちまったのは己にも少なからず責めを負うところがある。次のねぐらが見付かるまで、屋根を貸してやるくれぇ安いもんだろ」

『だが、あれは不法にこの人界へ侵入した魔物だ。お前が匿って、それを咎められれば面倒になる』

「その為の政所ではないのか。散々方々へ横車を押しておいて、この程度どうにか出来ぬとは言わせん。私兵を動かせる場を用意する。それがぬさ振り役のせめてもの務めだろう」

『私事ならば、その限りではない。あれを助けるのは、お前があれを過度に憐れんでのことではないのか。かつて……かつてお前が、その拳で屠ったモノとあれを、重ねているのではないのか』


 責める声音に迷いを聴く。責務の重みを知るがゆえに、烏は言葉を選ばなかった。否、選び抜いて、己に問うている。

 怒りなど、どうして抱くことがあろう。ただ胸中に満ちるのは幾度目とも知れぬ覚悟だけだ。


國民くにたみを護るが、我が使命」

『……』

「この國を好きだと言ってくれた。ならばあの娘も、俺が護るものの内よ」


 それ以外に理由など、要らぬ。


『……』

「なんだ、まだ文句があるのか。ならもう今の内に全部申せ。思い残すことのないように、ほれ」

『いや、違う』

「ん?」


 烏の視線はこちらではなく、どうやら通りの向こう側、飲み屋街よりも色に富んで繁華な路地を見ている。ホテルや合法違法を問わない風俗店が、表に裏に軒を連ねている。

 そんなところへ足を運ぶのは、余程の性豪か世を儚んだ人間だけだ。なにせ今時分、性風俗は魔物の領分。性的行為そのものを重視する種族がその上金銭まで稼げるとあって、就労を希望する女型魔物は数多い。

 そして、その逆。男娼を商う店が圧倒的に増加した。理由は例の、傍迷惑な神話に由来する訳だが。

 悲しいかな需要は実に、莫大であった。兎角この時勢、人間の男が風俗店に勤めることは紛れもない職業選択の一柱となっている。

 己のように人間には不可思議を禁じ得ぬ時流だ。男娼を珍しいとは言わんが、それにしても、と。

 閑話休題。

 烏がその目で捉えたものは、己の目にも映し出すことができる。

 魔物の女が二人、人型に近しい姿。

 鱗を帯びた手足と、長く太い尻尾。爬虫類の特徴を覗く。

 もう一人は、両の側頭部から歪曲した角を生やし、背中に黒い膜翼を負う。悪魔、夢魔、淫魔いずれかの類。

 格別に珍しい取り合わせという訳ではない。何の種族的接点を持たぬ異種同士が出会い、関わるのが今のこの世界なのだから。

 問題、そう特異な、明らかな事案は。


 ────いいからいいから、はいはい静かにね~

 ────声上げたら腕折るぞ


「っ!? ~っ!!?」


 魔物が二人、一人の少年を路地へ連れ込んでいった。








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