第8話
娘子がコンビニから出てくる。ビニール袋片手にこちらに手を振って駆け寄ってきた。
「お待たせしたッス! 食後の午後茶しばきましょう。ミルクティーでよかったッスかね?」
「おう、ありがとよ。丁度いい、腹ごなしに飲みながら待っておれ。すまねぇがちっとばかし小用ができた」
「へ?」
「すぐに戻る」
言い置いて、通りを跨ぐ。人混みをかわし縫うように駆け抜け、つい先刻三者の入り込んでいった路地へ。
薄暗がりにバーの看板が朧な光を放つ。立ちんぼ、もといキャッチの為に客を待ち構える魔物の姿もちらほら。
先程の取り合わせ。魔物二人に少年一人、目立つことは請け合いだ。
人が三人肩を並べるのも難しかろう狭い小路に踏み入る。途端に、客引きなのだろう女が一人……
この手の誘い女には珍しく、肌を晒すどころか足先手先に至るまでゆったりとした黒いローブで身を包んでいる。レース編みのフードの中、女の白い顔が浮かび上がるようだった。それもその筈、袖口や裾から覗くのは手でも足でもない。
触手であった。
ローブの内より限りを知らず伸び踊り現れ、こちらの体中を取り巻いていく。
「はぁい、お兄さん。遊んでかない?」
「悪ぃな。
「えぇ~、そうなの~」
いかにも残念な風合いに顔を作り、女は切なげな溜息を吐く。
吐息するまま、口を開いた。粘り、口唇に幾重にも粘性の糸を引き、赤い口腔を外気へ晒す。そこから溢れ出る。舌、舌、舌、舌の形状をした触手ら。
くちゃりくちゃり、口内を蠢かせ、女は瑞と艶で濡れた笑みを浮かべる。
「んふふ……お代はお金じゃなくてもいいのよ?」
「そいつぁ色っぺぇな。眩んじまいそうだ」
笑みを向けると、虹彩を持たぬ青い眼球をとろりと蕩かせて女は応えた。魅了の魔眼などは吸血鬼や高位の魔族の専売である。ゆえにこれは、この女の
舌先が、つ、と頬を舐めた。客引きが客に直に触れるのは御法度だ。少なくとも人界の、この国では。
無論この程度、御愛嬌の一言で済むが。
「気を付けなよ、近頃は外特が五月蠅いぜ」
「……もう、萎えることお言いでないよ。野暮よねぇ人間って」
「フハハッ、まったくだ。野暮ついでに訊ねてぇんだが、さっきここいらを三人連れが通らなかったかぃ。一人は魔族、一人は
「通ったよ。馬鹿な魔物二匹が子供を引き摺ってた」
「何処かに入ったかい」
「たぶん、その先のアビスってホテル。受付通らず連れ込めるのあそこだけだから」
「ありがとよ」
宙を這い回っていた触手がローブの中へ一挙に引き込まれた。
片手を上げて、女の前を歩き去る。
「お兄さん、警察?」
「カッ、まさか。そう見えるかい?」
「ぜーんぜん……あの子を助けるの?」
「さあて」
肯も否も口にはすまい。色に
もし、そうでなかったなら。
「上手く行ったら店においで。祝杯、奢ったげる。上手く行かなかったら……優しく慰めたげる。フフフフフ……」
好奇の視線に背中を撫でられながら、道をほんの数分も歩けば青黒いサイケデリックな看板が現れた。
『Abyss』。五階建ての妙に黒々としたビルだった。
頭上、夜空を旋回する烏に思念を送る。
「見えるか」
『四階、西の角部屋だ』
「わかった」
自動のガラス扉を潜り、エレベーターに乗り込む。赤い革張りの、妙に狭苦しい箱だ。四階に到達し、昏い廊下を奥へ進む。最奥、407号と金細工で印字された扉。
ノブを握り、オードを流し込む。開錠の式を起ち上げ、二つと数えず扉は開いた。
部屋の内装も建屋同様に暗い。床は黒い大理石、ガラステーブルやソファ、棚にベッド、全てが黒い。
唯一白いシーツの上に、組み敷かれた少年がいる。
組み敷いているのは、大柄な鱗甲の背中。鋸刃めいた背鰭が長い長い尾の先端まで連なって、中空をゆらゆらと揺れている。半人の丸出しの尻は、これがなかなか良い形をしていた。
その隣では、黒いワイシャツの前を開けた淫魔がベッドに腰を下ろしていた。怪しげな光を放つ目を見開いてこちらを向く。
「はっ、え、誰?」
「あ? んだよ……」
「動くな。20時6分、強制猥褻の現行犯だ」
それらしい文言で言い放つと、少年に覆い被さっていた爬虫人がベッドから飛び起きてこちらを向いた。
しかし、見やった場所に立っていたのは、どう見ても公僕とは言い難い若造。
爬虫人、おそらくはクロコダイル種の女。それは発達した下顎の牙を剥いて、吼える。
「なんだてめぇ! こいつの仲間か」
「いいや、ただの通りすがりだ。狼藉が見えたんで、手遅れになる前に止めてやろうと思ったのよ」
「は、はあ?」
「悪いこたぁ言わねぇ。痛い目見ねぇ内にその子放して帰れ。今回は見逃してやる」
「「…………」」
沈黙が室内に満ちた。言葉の意味理解の為、というより、それを言い放った者に対する理解が大層難航した結果として。
たっぷり十秒間かけて思考の整理が済んだ頃に、二人の魔物は大笑した。
「なにそれウケる!」
「いや、いやいやイキんのも大概にしとけよ。人間が……ぷっ、ぶはははははは! あ~あ、まあいいや。イリス、こいつは私んだから」
「いいよ~。もともとあーしショタ狙いだったしぃ。あでもでも、あとでちょっと代わってよ。精子の味比べしたいから」
鰐の女、半獣人としてはまだまだ若い其奴は、無造作にこちらへ手を伸ばした。天然の手甲めいた外皮、長く太く歪曲した爪。人体を容易く解体できるその手掌を、出迎える。
掴んで、止める。
「お、なんだよ。恋人繋ぎ?」
「や~ん可愛い。ダーウル、優しくしたげなよ~」
「私、そういうの得意じゃないんだけど」
少女同士の気安い会話を聞く。
一向、歯牙に掛けられた様子もない。それは獲物に対する傲りでさえない。愛玩物をどう扱おうか、期せずして手に入った玩具でどう遊ぼうか。
いっそ無邪気なほどに、魔物達はこの時間を楽しんでいる。
もう片方の手が伸びてくる。同様にそれを掴み、止める。
手四つ。相対して。
「あぁ? 手押し相撲でもやればいいの……か、っ、あれ? っ! お、おい、この!」
「あっははは、なにそれ。パントマイム? 上手い上手いダーウル!」
「ち、ちがっ、なんで、うごか……!!」
満身の力が加えられている。この手に、腕に。青筋を浮かべる
しかし。
「ぐぅおぉぉぉおおおッッ!!? なんなんだてめぇ!?」
「ダ、ダーウル? な、なにしてんの。え、意味わかんない」
それでは、足りぬ。
握り捕えた手掌ごと、鰐人の体を押しやる。抵抗する余地もなく、対手はこちらの力に従った。
「そら、最後通牒だぜ。その子放して、大人しく帰りな」
「ッッ!!? ッッ!!?」
「!?」
力自慢の相棒が膝を折って崩れる。その様を見てようやく、淫魔の少女は状況を理解したようだ。
しかし残念ながら、往生際の方は見誤ったらしい。
「こっち見ろ!」
言われた通りに目を向ける。そこには先程の、怪しげな光を宿した瞳があった。赤とも桃とも知れず揺らめく色彩、色に乗せた力。
淫魔の魅了の魔眼。女はその専売特許を惜しみなく披露した。
瞳から、こちらの眼球へ。こびり付くようにして色が映り込む。それは視神経を通じ脳へ浸透し魂を侵略する。その深度は魔眼の持ち主のレベルによるが、殊催淫という分野において淫魔は突出した能力を発揮する。
己の眼球、肉体がまともであったなら。
眼球に侵入しようとする力を瞼で受け止めた。ややも丸めて、纏めて、捏ねて、そうして眼前に放る。目の前で必死に力比べを続ける鰐の少女へ。
「へっ? んひっ!? んぁあぁあああ!!?」
「え? は? え?」
「いん、んひゃ、あんっ、にゃにこえ!? にゃんでぇ!? あへぇぁ!?」
手四つも保てず、鰐の少女は床に丸まった。股座へやった手を出鱈目に動かし、秘部を掻き回す。大理石に水溜まりができていた。小水ではない液体が。
「あぁあぁ、ひでぇことしやがる……人界において種族固有の異能は私用を禁じられてるってぇこたぁ、無論承知であろうな?」
「う、あ」
「どうする?」
こちらが問うと、淫魔の少女は肩を跳ねさせ後退る。サイドテーブルに腰を打ち、その上の灰皿やらティッシュ箱やら落としたところで。
踵を返し、部屋を出て行った。開けた前を直すこともせず。
「カッ、連れは置き去りか。薄情だな。なぁ坊主」
「! ……あ、あの」
半裸の少年はベッドで身を起こしたまま凝り固まっていた。
恐ろしい思いをしたのだ。無理もない。無理もないが。
「これに懲りて、私娼紛いからは足を洗うこった。いや、今は魔活と呼ぶんだったか?」
「っ! ……なんで」
先程とは違った意味合いで凝固する少年の面を、鼻で吐息して見返す。
魔物の女相手に、仲立ちを通じず、個人売春を働く者が近頃頓に増えた。需要は確実なのだからそれで小遣いを稼いでやろうという思惑も解らなくはない。だが、浅はかだ。
このような事態を想定しない。想像はしても、鼻先にぶら下がった金銭を追わずにおれない。
事程左様にそれも、人情であろうが。
「ちったぁ後悔覚えたかよ。次に支払う勉強代は、今日ほど安かぁねぇぞ」
「…………」
項垂れる少年に背を向けて部屋を後にする。
欲望は底を知らず、そしてまた恥などなおのこと知らぬ。人も魔も、それは変わらない。
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