第6話
日暮れの裏路地。薄闇の帳。迂闊にも踏み入った男を出迎えたのは、夢か現か地球産古代竜種。
路を、建屋をその巨体で刻一刻壊し崩していく。
どこぞの恐竜をよくよく逃がしがちなテーマパークの映画を思い出す。あるいは、夜の美術館で行われる美術品達による乱痴気の宴模様。
しかし今、相対する光景はそのような夢溢るる冒険活劇とは縁遠い。
あれを為さしめたモノを知っている。その悍ましき、怪しき力を、己は忌々しいまでに思い知っている。
ゆえに。
『清め給え、祓い給え』
我が身は怪滅の武力なり。絶対不破、
水晶の鳴動にも似た音声で、
烏の胸に“孔”が空く。孔は広まり、烏の肉体を飲み込んだ。いやさ、烏そのものが変じたのだ。物理法則を嘲笑う形状変態、物質転換。成型されたのは真円の、底無しの孔と見紛うほどに滑らかな────鏡であった。
研き抜かれ磨き狂った鏡面はさながら虚の如し。それは無垢の極致、
拡大、拡張する。手鏡ほどであった真円は今や己が全容を映すまでに巨大化を果たした。
己が全身を、飲み込んでしまうほどに。
『ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、ここの────』
「にぃぃいやぁぁぁあぁああああッッッ!?」
「『!』」
祝詞は完成を見ず、頭上から降ってきた間抜けな絶叫に遮られた。
廃ビルの瓦礫と粉塵に巻かれ、間もなくその人物は地表に激突……せず、着地した。手足四つを地に付け、重力加速による落下エネルギーを殺し切る。見事に、軽やかに、しなやかに、さながら猫の体捌きで。
「シュタっ! とぉっとととと!?」
埃で薄汚れた浅黒い肌と黒髪、そしてそこに戴く黒い耳。明らかなネコ科のそれ。黒い尻尾がゆらりゆらり宙を泳ぐ様を見れば、それが猫の獣人であることは歴然であった。
黒猫の少女。見当で年の頃十代の初め頃か、もっと低い。幼いと表すが妥当であろう。
騒然としたこの場に文字通り降ってきた珍客に対して、我ら、そして敵方たる彼らすら反応はほぼ同様。水差されと言うか、実に白けていた。
「……あ、あり? お、お呼びでない? こりゃこりゃ失礼いたしましたー! あはは、あはははは……なぁんて……ねぇ?」
古いギャグで場の空気をさらに凍て付かせる憐れ、もとい可哀想な少女。しかし、そもそも空気を読むなどという機能を有しておらぬ傀儡恐竜は、眼前に現れたそれを辺りに散逸する瓦礫と区別しなかった。
つまり、間もなく少女は踏み潰される。
「ぎにゃーー!!? おおおお助けぇ!?」
殺生石を完全に消滅させる為には“神甲”の顕現は絶対不可欠。必定の仕儀。しかして、もはや。
全身を鎧うだけの暇はない。
ならば。
「
『愚鈍な
堅物烏の珍しい悪態に思わず笑む。
笑みながら一歩、踏み締めて、その鏡面へ拳を突き入れた。衝突、衝撃、破砕、ないし指骨の粉砕、発生すべき諸々一切の事象が、起きない。
鏡は拳を受け入れた。するりと、抵抗すらなく。水面が没する何もかもを拒むことがないように。
鏡の内に沈んだ拳、前腕。それが光に変わる。
肘から先が消失した。
「ギッ────」
腕一本分の痛覚神経は欠片の手心なく、その機能を全うした。痛み、痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み。脳髄の許容限界など考慮されない痛みの氾濫、暴走。
白化する視界と意識。刹那の忘失を、しかし許さぬ。
敵は目の前なのだ。
そして、護るべき者が、ここには在るのだ。
鏡が閉じる。収縮し、孔が塞がる。
飲み下された前腕にそれは吸い付くように閉じ切った。そうして密着した鏡は既に鏡に非ず。失くした腕は、もはや変わった。変わり果てた。
銀の手甲。
鎧われた右腕。
巌の如き武骨。守護を謳いながら、攻撃性の権化の如き
「────“烈風”」
手甲に埋まる深緑の
神鏡を打突、装甲を為すまま、そうして留まらぬ。
「ぬぅうおぉあああッ!!」
鎧われた拳をそのまま打ち出す。
何を打つ。敵は遥か前方。拳打の間合には程遠い。届く筈などないその突きが────ティラノサウルスの頭を潰した。
上下に圧潰したアルミ缶めいて拉げ、首の支えすら千切れ飛ぶ。骨格標本は学術的にも深刻な欠損を晒した。
「ひぃいっ……ひえ?」
「伏せていろ!」
「はいぃい!!」
手足ならばまだしも、骸骨が首を失おうと構うものか。それは未だ行動能力を失っていない。
そして、首無し竜の背後にはさらにもう一体、重戦車級の三角竜が控えている。
真っ正直に、真正面から相手をする手間を惜しんだ。
銀鎧の掌を返す。甲を地に、平を天に。掌に架空の物体を乗せるかのように。
その途端、風が逆巻く。大量の瓦礫と塵芥を巻き添えに、立ち昇る。ぐるりぐるりと渦を回して、五つ。
竜巻である。
細く縊れて高速回転する旋風が一時に五つ発生している。自然現象にありえざる光景。紛れもない異能の齎す顕現。
掌を握り、押し包む。
五条の竜巻は連動する。二体の恐竜を囲み、押しやり、包み込み。その骨格を触れる端から削ぎ上げた。
砕けた白い骨片が、鑢に掛けられるようにして白い粉末に、塵に返ってゆく。
「風と共に削れ去れ、
五つの竜巻が合流し、その中心にある二体の恐竜骨格を飲み込んだ。それは破砕機の攪拌と同等の結果を生む。
風が止んだ時、辺り一面には白い粉塵だけが残された。
頭上、夜空の彼方を見やる。
白い骨の翼竜の姿は夜行迷彩として最悪の色彩であったが、今のこちらには絶好、これ以上ない僥倖である。
「飛ぶぞ!」
『急げ、石の妖力が高まっている』
右拳で地面を殴り付ける。直に地面に触れる前に、拳はその僅かな空間と激しく反発した。強圧縮された風の塊である。
まるで固いゴムを打ったかの手応え。そうして強化されたこの右腕は、矮小な人体を弾き飛ばすに十分な威力を発揮した。
飛び上がる。
夜天へ。
翼竜とそれに乗る下手人、その後塵に追い縋って。
「逃すかぁ!」
背面に突風を形成し、自身を薙ぎ払う。苛烈な加速によって身体を大気の壁が阻んだ。眼球の防御反応との我慢比べ。とはいえお蔭を以て推力は十二分。
一撃で落とせる。一撃、届けば、届きさえすれば。
速度は優っている。圧倒的に、こちらが速い。
右拳で、翼竜の背骨を叩き折────その背が突如、消え失せた。
「! 転移か!?」
『……否、跳躍だ。魔術ではなく、石の力で空間を越えたのだ』
空振りのまま、推力を失った体は重力の手に引かれる。落下する。
手近なビルの屋上目掛け、風を手繰って降り立った。
魔術による転移ならば構成する式を解析することで行く先の特定が叶うが、殺生石はそんな行儀を嘲笑う。煩雑な工程など無視して、その怪力で空間に直接穴を穿つのだ。
追跡は不可能であった。
路地へ戻る。見るだに酷い有様の、崩れた路に崩れたビル、その他諸々の瓦礫と土砂の山。
遠くサイレンの音がする。誰ぞが通報してくれたようだ。
残って警察の到着を待ち、事の顛末を歌ってもいい。あるいは上政所、己の上役連中にその辺りの事後処理を丸投げしてもまた良し。そもそもそれがあやつらの仕事なのだから。
とはいえ、今回の不始末については滔々小言を食わされそうだ。
独り内心で辟易とする。その時。
「兄貴!」
「ん?」
背後からの呼ばわりに振り返る。
そこには先程の猫娘、黒長の髪は整えたのか夜闇の中ですら光沢を放っている。丈の短い黒いカットソー、ローライズの黒いホットパンツ、形の良いヘソがこちらを向いている。春めいてきたとはいえ、逆にこちらは体を冷やしそうだ。
「ようお嬢ちゃん、災難だったな。怪我はねぇかい」
「はいな! 危ういとこでしたけど、兄貴のお蔭でこの通りぴんぴんしてまス!」
「そりゃ重畳だ。あぁ、ん? 兄貴ってな俺のことか?」
「もちろんッスよ!」
路地の薄闇でキトンブルーの猫目が輝く。諸手を上げて娘は満面の笑みを湛えた。
「いやいやいやホント死ぬかと思ったッス。故郷の海が走馬灯でリフレインで。先立つ不孝を天国のお父さんに謝るとこまで済んでましたからね。あなたは命の恩人様ッス! 感謝感激リコリスキャンディって感じで! ありがてぇありがてぇ」
「へいへいわかったわかった。ハッ、よく喋る奴だなお前さん」
「紛れもない本心が漏れ出ちゃうんでスよぅ。それにしても、さっきのはすごかったッスねぇ! あんなでっかいゴーレムを一発でぶっ飛ばしちゃうんスから。並のマジックアイテムじゃできない芸当ッスよ。どこで手に入れたんスか、あんなすんごいの!」
「なぁに、一昨日ネット通販でたまたま見掛けてな。いや我ながら掘り出しもんだったぜ」
「えぇ……近頃の通販やべぇッスね」
「おぉやべぇやべぇ。やべぇのなんのってなもんで、俺ぁトンズラこかしてもらおうかね。そろそろ警察が着いちまう」
踵を返して、サイレンの響く方向とは逆の道を行く。
「じゃあな、嬢ちゃん。警察には聞かれたことを素直に話せばいい。下手に隠し立てると要らねぇ勘繰りをされっちまうからな」
「待った待った待った!」
ぐいっとシャツの裾を引っ張られる。猫娘は背中に取り縋って、なおもぐいぐいとシャツを押し引きした。
「そりゃねぇッスよ兄貴! ここで会ったのも何かの縁。不肖このケット・シー、兄貴にお供いたしまッス!」
「ほー、お供ね」
「はいな! 舎弟として身の回りのお世話とかめっちゃがんばるッスよ! パシリなら任してください! そんじょそこらのお遣いとは比べ物にならない速さ叩き出しまスから! 世界狙えるッスたぶん! 他にも、えーとえーと、か、肩叩きとか朝刊の新聞枕元に置いといたりとか……よ、よ、よ、夜のお供などもいかがでせう!!?」
暗がりでもはっきりと見て取れるほど顔を真っ赤にして、猫の娘は叫んだ。裏返った声で実に外聞の悪いこと悪いこと。そうしておいて、視線の泳ぎ方が尋常ではない。
必死である。それはそれは、必死な様で。
その場に屈む。直立した娘をやや見上げるような格好で、じ、とその瞳を覗き込む。
視線を逸らすことはなかったが、途端に瞬きの回数と速度が増した。長い睫毛がばっさばっさと。
その細い背中に、さてなんぞ後ろ暗いものを負うているらしい。
「どうやら、警察の世話にはなれぬと見える」
「なななななんのことでせうか……」
「ふむん」
先程この娘はどこから降ってきた。
倒壊した廃ビルの上からだ。
ビルの瓦礫の山には、解体予定物件と表題された看板の切れ端が刺さっている。
住人でもない。そして、空きテナントを借用する為に内見に来た客、という薄い可能性も消えた。
とすれば。
にやりと笑みを刻んで、汗みずくの娘の顔を仰ぐ。
「お前さん、不法入界だな?」
「ぎくぅ」
ノリが良いと笑おうか、悪びれもせんと謗ろうか。
あるいは一巡して殊勝に罪を認めて、娘は図星に呻き声を上げた。
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