第5話
どうして。
ベッドに横たわる貴方は、震える小鳥のように愛らしかった。
「別れよう」
組み敷かれ、為す術なく、暴流のような快楽に身を捩ることしかできない貴方は、ただ、ただただひたすらに愛おしかった。いっそ私が狂ってしまいそうなほど。
違う。とっくに狂っていた。もう遅い。私は貴方に狂い切ってる。
涙を啜る。貴方から分泌される全てを身に受けて、穴に注ぎ入れて、淫口で飲み下す。どうして溢してしまうなんてことができるだろう。それらは貴方の媒介物。貴方の構成物質。貴方そのもの。
私が貴方を欠片でも取り逃すなどありえない。あってはならない。
だのに。
どうして。
「僕らは、やっぱり住む世界が違ったんだ」
幸せだった。貴方を見付けたその日から、私の幸福は始まった。
あるいは初めて、本当の幸福を知った。
貴方が好き。心から愛してる。貴方と共にいたい。一緒に生きたい。
貴方を幸せにしたい。貴方と、幸せになりたい。
貴方さえいれば、それでよかった。よかったの。
それなのに。
どうして。
「ごめん……さよなら」
どうして!!
七十余年も昔の話だ。
魔界のモノ共を手引きし、人界の権力者を傀儡として操りながら、両世界のさらなる融合を、地獄の如き、至極の混沌を願った女がいた。
世界の存続を徹頭徹尾脅かす最大最悪の
────憐れよのう。憐れな男よのう
せせら笑う声がする。それは憐憫と侮蔑、そして。
────さぞ重かろう。
血に塗れ、地に跪いて、それでもなお、美麗。滴るまでの美しさ、艶然と笑み。
悍ましき女怪は俺を笑う。女神の如き慈愛さえ滲ませて
────あぁ、可愛いギンジ。私のギンジ
白魚のようにしなやかな手が伸びる。乞い、求めるかの必死さで。己に、この身に、触れるを望んで。
哀切な瞳が肉と皮と骨を貫き、ひた魂を撫でた。柔らかに、
────ぬしを殺してやれぬのが残念じゃ。のう、憐れなギンジ……アハッ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハ
天を衝く憎悪の哄笑は、女の望む場所へ確と届いたことだろう。
その悪しみごと、この拳は女を粉砕した。
しかし、打ち砕かれた化物の骸は、その膨大な妖力が引き起こした爆轟によって世界中へ散逸した。血と肉と骨と魂と、心。それら全ての混合物。
白面金毛九尾狐。かの者の憎悪の結晶は“殺生石”と忌み名付けられた。
無際限の妖力を垂れ流し、触れ寄る者、恐れ逃がれんとする者、それら一切の区別なく人魔悉くを惑わせる悪性。無辜の國民を脅かす、怪しき力。
災禍は続いている。七十余年を経た、今もなお。
一本の路地を駆け抜ける。飲食店の大振りなポリバケツを避け、道を横切った黒い野良猫を跳び越えた。
「フギャー!?」
「おぉっとととごめんよ」
鋭い抗議の鳴き声をやり過ごしながら、疾走疾走また疾走。
薄暗い小路のさらに深みへ。見通し絶無の直角道を右へ折れた時、それが見えた。
壁際にもたれ掛かるスーツ姿の男。二手二足、角も獣の耳も羽も尾もない人間の男である。
刹那、周辺に視線を這わせるが不審な者も物もモノもない。男に駆け寄って、様子を検めた。
「おい、おい兄さん。聞こえるか! おい!」
『オードが枯渇している』
「なに?」
追随して地上に降り立った烏が言った。
なるほど、見れば確かに。ぐったりと壁に体重を預けた男の体は、そこに当然に流れているべき“力”の脈がひどく希薄であった。
「オードだけを吸って肉は放置したってのか……? 身体情況は如何に」
『急激なオードの喪失によって昏倒しただけだ。命に別状はない』
「よし。兄さんすまねぇが、救急車はも少し待ってくんな」
言い置いて、立ち上がる。
道の先に意識を差し向ければ……その端緒は、まだそう遠くはない。
「お前さんは空から行け。この対手はわりに
『承知』
夜空に飛び上がった孤影を見送り、再び走り出す。
香気などと表したが、己は何も鼻で臭いを嗅ぎ取っている訳ではない。第六感と呼ばれるそれより幾分程度の低い感覚。勘働き、あるいは経験則に近い受容器。記憶させられた。この感覚、項を針で執拗に刺突されるかの不快。
あれを打ち殺した日から、この痛みが俺に付き纏っている。
殺生石の残り香が残光のように道に、壁に、宙に尾を引いていた。
「いっそ罠を疑うほどよ。この逃げ方は杜撰が過ぎるぜ」
『捕捉した。人型が一つのみ。脚力の外的強化を認む』
声ならぬ念が、空間的距離を無為として脳髄に言葉を打ち込む。
我らの間には煩雑な通信機器は勿論、それに類する術の起動すら必要としない。
「追い立てる。挟み撃ちだ」
簡易な魔術による身体強化は、今時分の高等学校を卒業した者であれば誰しも使うことができる。当然、
街中、それもこの時刻、見咎められればまず以て強制連行を免れまい。しかし今宵この手合いに対して、公僕に出る幕は与えぬ。
走り、地を蹴る足に力を込める。魔的な、異能による、怪力ではなく、ただ単純な筋力。速筋を瞬発させ、より速く。
我が身は術を恃む必要性を失くして久しい。
100メートルを五秒弱で走破しながら、もう100メートル跨ぎ越す。追い駆けっこも終わりが見えた。
その背中が、見えた。
夜闇に紛れる暗い色味。黒よりくすみ、青みを帯びたコート。
「近頃すっかり春めいてきやがったってぇのに、そいつぁちと暑苦しかねぇかい?」
「!?」
走行しながらに背中が跳ねる。
追跡者の存在に、なんと今更気付いたらしい。
驚きか警戒か、いずれにせよ対手の駆け足の運びが淀む。その瞬間、その前方に大烏が降り立ち、行く手を阻んだ。
コート姿が
「用件は皆まで言わずとも解ろうが、まあ聞け。なにやら怪態な石を持っているだろう? そいつをこちらに引き渡し、ついでに出所を教えてもらいたい。さすれば貴公の身柄の無事は約束する。返答や如何に」
可能な限り端的に発した問いは過不足なく先方へ伝わったろう。
対する背中が発する沈黙に不理解の色は見られず、異種特有の言語的な不通もまた確実にないと断ずる。
何故ならその
次の瞬間、奴は懐に手を入れた。
間合いを詰める。何かを取り出す間を与えてはならない。
もう半歩でその肩を掴める。
その手は、未だ懐中。こちらの方が先に、届く────
『下だギンジ!』
「なに!?」
念と羽撃、二種の叫びが己の脚を踏み止まらせた。その瞬間、もう半歩先にあった地面が────地面ではなくなった。踏み、乗り、通行する路としての体裁を失った。
アスファルトに亀裂が走る。盛り上がり、直下から押し上げられている。
何に?
その問いの答えは即座に姿を現した。先に二本ばかり突き出てきたのだ。やや遅れて、中央から三本目が貫通した。
白い柱の如くに屹立する、角が。
鼻面に一角、そして眼窩上部よりそれぞれ二角を戴く巨大な頭部は、後頭へ向かって波打つようなフリルが広がる。
その姿、見間違うことがあろうか。古生物学に対して格別の造詣も持ち合わせぬ己でさえ、その名を諳んずることは容易であった。
トリケラトプスである。トリケラトプスの巨大な骨格が、地中より這い出してきたのだ。
「おいおいおい!」
地盤を盛大に沈下させながら、それでも巨体は地上に全貌を晒した。
原寸大の骨格標本がそのまま動き出したかの光景に度肝を抜かれつつ、未だ崩れ続ける地面から跳び退がる。
「こいつぁ死霊術か」
『否、これは生体の骨ではない。術を刻んだ模造物を巨大化させた式神、ないし傀儡回しの法』
「この狂った出力は石を使った為か。道理よ」
原物に何を用いたかは知らんが、少なくとも懐に忍ばせられる程度の小物であろう。だが相対する恐竜の体長は見当で10メートルを凌ぐ。
この狭い小路に、よくぞ収まっていられるものだと感心すら湧く。
一体までならば。
二体目はないと、どうして考えられる。
烏の警告よりも早く、我が身は瞬発していた。
さらに、さらに後ろへ。今在る空間を全速力で脱する。
それは、つい一瞬前に己が身を置いていた場所に、躍り出てきた。横合いの、廃ビルの壁を突き破って。
砕けて散ったコンクリート、引き千切れた鉄筋が宙を舞う。その只中でまたしても、この狭苦しい空間を巨体が席巻した。
巨大な
ティラノサウルスである。
「男の子は好きだろうなぁ」
『ギンジ!』
「ああ見えてるよ」
暢気を気取る阿呆に、烏から至極当然の叱咤が飛ぶ。
二体の巨躯の後ろに隠れ、当の術者様はいそいそとなにやら準備に入っている。
三度、現れたのは翼竜であった。プテラどうのとケツァルどうのとそれはどうでもいい。問題なのは、巨大な骨格標本でしかない三体の恐竜の中で唯一、それは翼膜を張られていた。
飛翔するのだ。あれは。
飛翔して、この場を逃れる肚なのだ。
「させぬ」
もとより交渉の決裂は明白。
対手は武力によってこちらを退ける意志を見せた。
ならばこちらも応報いたす。
「神威を使う。
『承知』
人を、魔を、國民を惑わせる怪しき力を滅ぼし尽くす。
それが、我が宿命なれば。
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