第4話


 初めて君を見付けたのは、こんな夕暮れの緋色の街で。

 美しい空とそれを映す硝子細工のような、墓標のようなビルヂングの狭間。人と人と、人でないモノ共の夥しい営みの氾濫が地上を塗り潰す光景の中に。

 貴方を。



 その少年は黒妖犬ブラックドッグに追われていた。

 盛りのついた半獣人の雌犬である。涎を垂らして未だ幼い人の子を追い回す様は、いみじくも半人を名乗ることさえ烏滸がましい。なんて醜悪なのだろう。

 そして追われる彼、パンテオン学園指定のブレザー。ネクタイの色を見るに級友ではなく下級生のようだ。ああ。

 ────なんて迂闊な、と思った。昼と夜の境界はけだし魔物、異形共の時間。いくら人界の、繁華街の中とはいえ若い男が一人不用心に出歩いて無事で済むと考える、その浅はかさ。平和に呆けた人の子は実に愚かだ。

 しかし、愚かでこそ人。

 愚かで、脆弱で、儚い。なればこそ。

 その祈りは尊い。その祈りは真に迫る。信心を呼ぶ。信仰の道を拓く。

 だからこそ、人間あなた達は愛おしい。

 愚かであれ。愚かなれ。

 ビルの上から、愛しい子を見下ろしながら、さてもどうしようかと悩む。

 あの犬を殺すのは容易い。

 木っ端な邪妖精など、人界の生態系に貢献すらできぬという点では羽虫にもその存在価値は劣る。

 存在ごと消し去る。尚更に可能だ。で済む。

 しかし、あるいはこれは、彼に主が与え給うた試練。そうは考えられないだろうか。

 このままあと数分もすれば彼は駄犬に捕まるだろう。雑魚妖精とて魔物。単純な肉体の性能だけならば、人間を遥かに超えている。膂力、瞬発力、持久力、動体視力。獣に生身の人間は敵わない。極々、極々一部の例外、超人や英雄と呼ばれる異常者を除けば、人間が人外の者共に敵う道理はない。

 彼は犯されるだろう。肉欲の限りに、蹂躙され尽くすだろう。

 盛りのついた、それはなにも侮蔑の意味ばかりでなく。あの犬は現に、人間の雄に発情している。

 精も根も搾り尽くされ、襤褸切れのようにされた彼はきっと後悔するだろう。どうして一人で、こんな時刻に、こんなところを出歩いてしまったのか。自分はなんて愚かなことをしたのか、と。

 自身の愚を、覚る。

 それが、それは────見たいな。

 恐怖に咽び泣きながら、改心を誓う。誰に? 勿論、当然に、天へ。

 彼は天上の、未だ見ぬ主へ誓うだろう。

 素晴らしい。

 それはとてもとても素敵だ。

 そうだ。襤褸雑巾のようになってしまった少年をこの身で以て清めてもいい。

 そうすれば彼の心は悔い、改められる。完全に、完璧に。

 確信して、決心。

 僕は少年を見守ることにした。

 けれど、その後すぐ、少年に与えられた試練は道半ば頓挫した。


 刈間ギンジの手で。


『お座り!』


 路地から現れた刈間ギンジは開口一番そう叫んだ。

 なにを馬鹿な。そう思ったのも束の間。

 急停止するや否や、なんと黒妖犬は言われた通りにその場に座り込んだのだ。両手と両足を揃え、行儀よく。強か躾けられた犬同然に。


『おぉよぉしよしよしよしよしよしぐっぼーいぐっぼーい』

『あ、あの、あたしメス……くぅ~んっ』


 先程までの色欲に支配された熱情はどこへやら。雌犬は従順に男の諫めに鎮まった。


『ど、どうして……』

『なぁに、細やかな暗示の手妻よ。恰好つけて言やぁ、しゅをかけるってぇやつだな。大丈夫か?』

『は、はい……』

『ハッ、ハッ、ハッ! きゅ~ん、きゅ~ん』

『あん? なに? ほっほう、このワン公、お前さんに惚れ込んじまったそうだぜ』

『えぇー!?』

『え? なんだ? 通学路でよく会う? だそうだが』

『い、いやいやいや俺知らないですってこんな人! ……あ、この前、黒い犬に餌あげました』

『ワン!』

『それ! だとよ』


 彼はその後も奇妙な通訳を続け、俄かに興奮しかける犬を躾け鎮め、逃げ腰の少年を宥めて賺し。

 とうとう少年と雌犬の仲を取り持ってしまった。


『奇縁だが、幸いにこいつぁ良縁だ。ちっとばかし気が急いてつんのめっちまったが……ここは一つ、お前さんの度量でこのワン公を許してやれぬか』


 からからと軽妙に笑い、彼は言う。

 優しげな……慈悲に溢れた笑み。

 少年は怖々と黒妖犬に手を伸ばした。黒く豊かな髪、しな垂れた耳の合間に、そっと這わせ。

 少年は、つい先刻自分を凌辱しようとした魔物を撫で慈しんだ。

 人が魔を許す。その光景。



 貴方はまるで架け橋だ。渡れぬ筈の彼岸と此岸を、交わらぬ筈の相異を、結んでしまう。

 どこにでもある話。魔物の雌が人間の男性を手籠めに、あるいは性の道具にする。そこに愛などない。愛はない。全て唾棄すべき淫欲。罪。穢らわしい。


「嘆かわしい世界」


 この融け合い混じり合い坩堝と化した世界が、僕は心底おぞましいのだ。どうして、天高きに坐す御方はこの不浄の世を大水によって押し流してしまわれないのか。終末の喇叭は何処いずこ。アポカリプスは今、今ぞ。

 してはならぬ。疑ってはならぬ。試してはならぬ。

 悍ましいこの厭世と救世への希求は、僕を苦しめた。葛藤など、あの頃にはなかった。迷いなど、知る由とてなかった。

 悍ましいこの融界に────けれど遂に、貴方は現れてくださいました。


「君を通して見える世界が、僕は欲しい」


 不浄で淫らで穢らわしい世界に、聖なる愛の実在を知らしめてくれる人。

 刈間ギンジ。慈悲の御方。粗略を演じて、深遠な思慮を抱く人。

 僕には見える。貴方の中にある、不可視の光。遠大なる愛の実在が。


「……いいや、そう、そうだね。君が好む言葉を遣うよ」


 雲よりも高く、風すらも軽く薄い、星々の煌めきを翼に受けて、今夜も君を見ていた。


「一目惚れだったんだ、ギンジ」


 その矢先であった。

 大教会よりその“聖務”を任ぜられたのは。

 間違いない。これは運命だ。主の思し召したる縁。

 君と僕の。

 だから


「もっと、見せてよ。君を、隠さずに、余さず全て」












 繁華街に向かって歩道を行く。行き過ぎていく車両、無遠慮に騒音を巻き散らすバイク、そうして人とそうでない者らと幾度も擦れ違う。ここはN県S市内人魔共学の学区。異種個体数は国内二位の規模を誇る。

 石を投げれば五分以上の公算で魔物に当たるだろう。

 無論、身の安全を保障されたいならやらぬ方がいい。覚悟すべきなのは暴力沙汰ではなく、もう少しばかり生々しい事態であるが。

 日暮れを遠く、ビルの狭間に見送った。横切った街灯が指折り示し合わせたかのように点っていく。

 逢魔ヶ刻。暗闇が最も、異界に近付く頃。夜闇の立ち込め始めた空よりなお漆黒の翼が降ってくる。

 烏が三本足で己の肩を掴み、止まった。


『厄介なものに目を付けられたな』

「カッカッ、他人事に言いやがって。お前さんの見落としでもあるんだぜ? とはいえ、無論……我が身の油断よ」

『神甲状態でなければ我らは全能を行使できない。あの上級天使は私の索敵限界の外からこちらを監視していた。況して人間がその生身の五感で、隠形に徹する天使あれらの存在を気取るなど不可能だ』

「人外の面目躍如ってところか? こいつは小回りが利かねぇのがどうもな」

『気安く行使するものではない。だというのに……お前はこの地で既に一度、神威を開いた』

「見られたと思うか?」

『天空三十里を超える高高度に陣取り、物理的障壁すら無視して地表の物体を目視能うほどの眼力……邪視。それがかの大天使の異能。だが、一度合一を果たさば────確実に神力が勝る』


 静謐を音に固めたかの沈着冷静な声に、力が張る。気迫が滲む。それは自負であり、絶対の、絶大の信頼。

 賜りし“神威”に対する信仰……そして、踏み越えてきた戦いがある。闘争の果てに、今の俺達が在る。

 堅物の烏はそれを信じていた。信じてくれていた。


「ほほう、さしもの七大天使とて神威を纏った俺達を捉えることまではできんか」

『然り』

「どうだい恐れ入ったかストーカー天使!」


 諸手を上げて夕空へ向け景気よくハッタリをかます一方で、得心するところもあった。


 ────僕をお傍に


 千里まで見透かしそうな覗き魔が、妙にしおらしいことをのたまった理由は十中八九これだ。片時とて眼を離さずつぶさに観察を続けていた物珍しい種類の猿、もとい人間がしかし、その見えぬものなどない筈の監視の眼をしてただ一点、不可視の領域を有していた。

 さぞや気が気でなかろうよ。


「ハッ、かかずらってやる義理もねぇ。こちとら抱えてる厄介事の年季が違ぇんだ」

『……自慢にもならんが』

「まったくだ! カッハハハハ」


 我らの使命。たった一つ、その為だけに生きてきた。

 この甲斐もない生命が、今なお存続する理由。死に損ないの、最後の夢。

 約束が。


『……』

「さてさて晩飯の算段でもつけるか。しかしお前さんの言う通りならあの変態め、家ん中まで覗いてやがるんだろ。カァッ、これ見よがしに陰膳でも置いてやろうかね……いや、逆に喜びそうだな。まさか食う為に乗り込んでくるなんてこたぁ流石に……あれならやりかねんな」


 阿呆な懸念を烏に聞き流されながら、家路をぷらぷらと辿る。

 夜が、その黒い軍勢で天と地とを覆い尽くした。街灯と家々の灯を頼りに、また一つ路地を横切った。


「────」

『……ギンジ?』


 項を撫で……刺し貫く、その気配。


「出やがった……」

『なに』

「出やがったぞ!」


 烏の反問にも取り合わず、アスファルトを蹴りつけ疾駆する。


「“殺生石”の香気においだ……!」








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