第3話

 暮れの茜光しゃこうに染まる天使を見返し、首を捻る。


「おぉ? 急かすもんじゃあねぇと、ほんのつい先刻まで講釈垂れておいでじゃなかったか?」

「勿論その通りさ。ただ、迷えるクラスメイトの相談に乗ることも僕の務めの内だ。なんせ僕はクラス委員長だからね」


 少女は胸に手を当て、瞑目して首を左右する。それが純然含むところのない十割の善意……であるかのような顔を作る。


「天使って奴ぁどいつもお節介焼きでいけねぇ」

「前の学校にも天使が在籍していたのかい」

「ああ、真面目一徹の堅物な娘だったが……いや今思えばなかなか可愛げもあった」

「こぉら、僕には無いと言ってるように聞こえるぞ?」

「滅相もねぇや」

「……ん? どっちの意味だいそれ」

「くっふふふ」


 意地悪く笑んでやると、天使様は御機嫌を損ねてしまわれた。むくれっ面でこちらを睨み、程なく、呆れの色濃い気息を吐く。その形の良い眉尻を下げ、大袈裟に肩を竦めてみせた。

 美人というやつは、どんな所作にも映えを伴う。ほとほと嫌味なほどに。


「君がこの学園に転入してもう三ヶ月だ。そろそろ身を固めてもいい頃じゃない?」

「まだたった三ヶ月よ。あとな、たかだか高坊に固めるほどの身もあるめぇ」

「高校生だからこそ、さ。恋愛経験は若い内に積んでおいた方がいい……ギンジは随分と、そうだけど」

「カッカッ、そいつぁ褒めてくれてんだよな?」

「ああ勿論。そして不思議だとも思ってる。君のように“個”の強い人間は人ならぬモノを惹き寄せる。良くも悪くもね。だから君に熱心にアプローチを掛けてくる娘は多い筈だ」

「ほー、そりゃあ知らなかった。だがよ、たしか例の神話からこっち魔物のおなごはぁ、その、なんだ。性豪だろう?」


 その昔、神代の時、魔界の中枢にて。放蕩の限りを尽くしていた某男神に、とうとうその妻たる女神が怒り狂い、一つの呪いを掛けた。色欲、淫欲に対する封殺の呪威じゅかいである。

 平たく言えば、魂のレベルで不能インポになったそうだ。

 それがただの夫婦喧嘩に終始したなら、面白可笑しな神話として書物を読み飛ばすだけで済んだのだろうが……なんと事は魔界全土へと波及した。なんでも好色な夫を持つ魔物、魔族、竜種等の妻らが婦神魔会なるものを結成し、その呪いを拡張・強化・流布したとか。

 結果、魔界の種族、その全てが呪われた。そこに生息するあらゆる者共の雄のリビドーが。雌雄同体であればその男性機能だけが。

 死んだ。

 ……いや、瀕死と表しておこう。武士の情けだ。

 この下らなくも極大の事変によって、魔物の雄の気性は極めて大人しくなってしまった。

 あるいは、人間種にとってこれは喜ばしい事実であったのかもしれない。人を喰らう魔物を含めその半数近くが弱体化したも同然なのだから。

 変化を強いられたのが、雄だけであったなら。

 唐突だが、世界は均衡を保とうとする。そこに存在する個々の生命体の意向など慮外のさらに外へ押しやって、あるいはそれらの集合された無意識が、自然界の総意が、バランスを求める。

 つまり、魔界中の雄の性欲が弱まった分だけ────魔界中の雌の性欲が超越した。

 ただの笑い話が一転、死活問題となった訳だ。

 今や人界の男は、魔界の雌にとって恰好の生殖相手つがいである。男性機能が健在である点は勿論、魔物の女の側にすれば求愛の対象として強く認識されることが心理的満足へ繋がるとか。夢魔のように生殖行為や物質としての精液だけでなく、精気、淫靡な欲求そのものを糧とする種にとってはまさに生命線。

 なるほど、魔界側の人界懐柔政策の極まったは、この辺りに起因するのだろう。

 笑うべきか、嘆くべきか。


「笑い話さ。一界を巻き込んだとんだ乱痴気騒ぎ」

「天界に坐すお前さん達にゃ他人事ってぇ訳かい」

「ふふ……そうならよかったんだけど」


 不意に、空白。

 それは半拍にも満たぬ無音の間。会話の、期せずして訪れた言葉の途切れに過ぎぬ。

 それがなにやら只事でないのは、その流し目。依然として美しい少女の顔貌、そこから注がれる二つの瞳。銀の虹彩。

 天使は微笑む。


「ギンジ、僕はね、君を尊敬しているんだ」

「カカッ、突然どうした。前置きのねぇ世辞は後が恐いぜ?」

「前置きならあるさ。三ヶ月、僕は君のことを見ていた。君の善事善行を、ずっと……ずっと」


 事も無げな口ぶりであった。事も無げに……お前を監視していたと告げられた訳だ。


「初めて見た時から、君がただの人間には思えなかった。気が付くと目で追っていたよ。すぐ校内の様子を覗うだけじゃ満足できなくなって後を尾けるようになった。勿論、人間は窃視を嫌うだろうと思って地上は避けた。僕の“眼”は少し特殊でね。雲の上からでも触れてしまえそうなほど間近に見えるんだ。目端が利く君でも、流石に気付けないだろう?」

「ああ、そうらしい」

「たった三ヶ月、そう言ったね? そのたった三ヶ月の内に君は多くの者を救った。多くの迷える仔羊を」

「羊の獣人は覚えがねぇなぁ。ん、いや、そうだ一年にバロメッツがいたな! 人界じゃあ珍しいんで目についた……」

「その後すぐ、淫魔のつがいにされた少年が相談に来て、君は彼に魔具を売った」

「……」


 茶化し誤魔化しも、相手を乗せられないのなら己がただ滑稽に横滑りするばかり。

 サリエリーヌは笑みを深める。より深く、深く。


「不思議だったよ。どうしてこの人間は、他者を救済してまわっているのか。彼は聖人でも司祭でも僧侶でもないというのに」

「今お前さんが言ったろう。こいつぁ商売だよ」

「あの魔具は正規品じゃない。あんな安価で手に入る魔具など存在しないし、あれらは正規品に求められる安全基準まで性能を絞られていない。ハンドメイドだった。けれどその力は限りなく、真物だった。500円だっけ? あははは、ギンジってば値付けが苦手なんだね」

「……おいおい出所を嗅ぎ回るなんざマナー違反ってぇやつだぜ」

「ふふふ、大丈夫。外特や教職員に密告したりはしないよ」


 それもこちらの態度次第……言外の、そんな意図を勘繰らずにおれない。

 あるいはそうやって戦々恐々する己の様をこそ、見たがっているのか。

 この美しい天使の、お清らかなる御嗜好は何処へ向かわれておいでやら。


「ギンジ、僕は君を尊敬してる」

「ちょいとくどいぜ、サリーさんよ」

「何度でも言うよ。僕は、君を、尊敬してるんだ。心から。君は何の見返りも求めず人々を救済する。何の迷いも躊躇もなく、艱難辛苦に喘ぐ誰かに手を差し伸べる。君の中にある、尊い慈愛が見える。感じる。はぁっ……」


 熱い吐息を零し、サリエリーヌは両手を握り合わせてその場に跪いた。


「君の中に、たっとうき愛を感じる。この光を知っている。あぁ君は人を救い、また魔すらも救う。まるで、まるでそう────救世主のように」

「救う救うと気安いな。傲りを知れ、天使」


 娘の表情に変化は見られぬ。欠片ほども。

 だがその大きな瞳、宝珠の如きそれが刹那、揺らぐ。

 たかだか人間風情の発する鬼気。上級天使に取り、それが微風ほどのものであることは間違いない。ないが、まさか、人間からそんなものをぶつけて寄越されるなどと考えもしておらなんだ……そういう虚の衝かれ様。

 次の瞬きで、娘は天使の貌を取り戻していた。


「俺ぁただ手前のやりてぇことをやってる。その末に相手が勝手に助かってるだけだ。その御大層な救済嗜好をなすり付けてくるんじゃあねぇよ」

「……ふふ、そう。そうなんだ。また一つ君を知ることができた。嬉しいよ」

「そうかい」


 睨め見下ろすこちらの目玉を、それでもうっとりと、宝物でも眺めるように見上げてくる。上気した娘の美しい筈のその顔が、なにやら無性におぞましい。


「それでも僕は、貴方の中に、救済の光を見ている。神の愛を」

「……」

「ギンジ、どうか僕をお傍に置いてください」

「御免だね。他を当たりな」


 荷物を手に背を向ける。

 どうやら見込みを盛大に外した。いや、己が未だ天使というモノに対して正しい理解をしていない。そう考えるべきだろう。


「じゃあな委員長」

「大天使サリエルは、いつでも貴方を見ています。この混沌たる地上に降り立った、貴方という光を」

「うるっせぇ覗き魔! 助平! 変態!」


 情けない捨て台詞を置いて、乱暴に扉を閉めた。

 閉まる扉のその向こうで、なおもサリエリーヌは跪き、握った両手を押し戴いていた。







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