White whale (7)
簡易宿を出たあとの加賀田は、すぐに慈雨の方へ行くのかと思いきや新市街のなかをぐるぐるとしばし歩き回った。それも表裏問わずいろんな通りを歩き、ときには無意味にビルに昇っては降りるというよくわからない行動も挟む。
なにをしているのかと思いながら後ろを歩く理逸は、最初のうちこそ横にいるスミレと互いに石鹸の匂いが気になるように感じたが、次第になんとも思わなくなっていた。
袖で汗をぬぐい、衣服が鼻先に近づくときだけ、ふっと香る妙に人工的な甘い匂いによって「やたらと清潔にしたのだった」と思い出す程度だ。
というか、道行くひとからもこの匂いが漂うので、ともすると街全体がこの匂いに包まれているように思われる。
自分の輪郭が徐々に街へ溶け出しているような錯覚を抱いて、薄気味悪い。
「加賀田、いつになったら慈雨の本拠地に乗り込むんだ。於久斗の身の安全も気になるし、俺は早く乗り込みたいんだが」
於久斗を死なせるわけにはいかないのと居心地悪い街に辟易したのとがあり、理逸はそのように言った。
加賀田はふふんと鼻で笑い、片手を挙げながら返してくる。
「救出の可能性を高めるための行動にあまり文句を言わないでほしいものだね」
「逃げるときの道でも覚えてるのか?」
「そんなものはとっくに覚えているさ」
「オクトさんに仕込んだ通信機からのノィズが入るかどぅか、それで本拠地内のどこに彼がぃるかを探ってぃるのでしょぅ。先ほどから、ポケットで耳ざゎりな音を立ててぃます」
スミレがさらりと口にした言葉に、加賀田は「正解」と親指を立てた。
ポケットから、先日理逸も借りた織架製の通信機を取り出す。二個でセットになっている代物で、五十メートルの距離制限はあるが通話できる品だ。
そういえば、これを返すときに加賀田も立ち会っていた。
「なにかに使えるかと思ってくすねてきたのだがね。距離制限があることが逆に、役に立ったな」
「……うろうろしてたのは五十メートル圏内に入ってノイズが走る位置を探してたのか。無駄にビルにのぼってたのも」
「オクトさんが建物の二階や三階にぃた場合を想定してのことでしょぅ」
平地で五十メートル圏内に入ったからと言って、同じく水平方向に居るとは限らない。三次元的に居場所を探るためのビルへの昇降だったのだ。
「複数方向から確認したし、間違いないだろう。本拠地表門から入って二十メートル、二階以上三階以下のスペースだ。外から見たつくりからすると特殊な構造はなさそうだし、まず二階に居ると見ていい」
では行こうか、と加賀田は先導しはじめる。三人は慈雨の会の教祖も居るはずの、本拠地にいよいよ近づいた。
「ところでどう交渉するかは決めてあるのか?」
「訊くということは案があるのかね? あるいは確認? 後者であるなら『キミはなにもせず、黙ってにらみつけていることで戦闘者としてのプレッシャーをかけておいてくれ』これだけだよ」
「いや内容を共有確認したらより良い案が出せるかもしれねぇだろ……」
「キミぃ、キミの戦闘時の機転には私も帽子を脱ぐところだが、そのほかの場面での頭に自信があるというのならいまのうちに認識を改めておきたまえよ。頭脳労働は相棒のお嬢ちゃんに任せた方がいいのだぜ」
「腹立つなこいつ」
「事実でしょぅ」
「ならお前はこいつの策に気付いてるのか? 気づいてなかったら俺と同じってことになるが」
言い返す理逸に、スミレはハァーとため息をついて横目に見やるというあからさまな煽りをしてからつづける。
「気づぃた上で、伏せたまま向かぅのが得策と判断してぃるに決まってぃますが? ぉそらくブラフまで含めて……とぃうょり
「鋭いねぇ。やはりキミとのやりとりはスムーズで無駄がない」
「それはどぅも」
自分だけ気づけていないことへ、微妙に疎外感を覚える理逸だった。
そこから角をふたつ曲がると、目的地にたどり着く。
白が際立つ建物だった。
もともと南古野はどこも汚れているためこういう「純白」というものにお目にかかれないので、余計に印象は強い。あまり角が出ないよう縁を丸められたデザインの、三階建て相当のビルだった。
静かでなにもない場所だった。空間を、もったいない使い方するものだと理逸は思ってしまう。
加賀田が「誰か呼んでくれ」と呼びかけているのを見ながら、二人は周囲をぐるり見渡す。やがてスミレが、とくになんの感慨もなさそうに言った。
「綺麗な場所のょうですね」
「そうだな。綺麗すぎて、場所が広すぎて、俺は苦手だ」
「……そぅいぇば勧誘されたことがぁるのでしたね? 慈雨に」
「まぁな。あのとき勧誘されて慈雨を訪れて、入信せず南古野に戻ったのは俺と、あとひとりだけだった。そいつはかっぱらいやって生きてたが、その報復で
「ご愁傷様です」
「いや、どうだろうな」
思わず、という感じで理逸の口をついて出た。スミレは怪訝な顔をする。
だが詳細な説明を加えようとする前に両脇から白装束の男が現れて、加賀田を見ると一礼した。にこやかな表情だった。
どうやら、案内役が来たらしい。理逸は目配せしてスミレとの話を切り上げる。
「加賀田様ですね。支部長がお待ちです」
「ああ、よろしく。教祖の大曾根氏はいないのかね?」
「あいにくと教祖は重要なご用事で出払っております」
「それはそれは。結構なことだ」
軽い態度で追従する加賀田のあとにつづいて、理逸とスミレはフロア最奥の部屋に通された。
先のだだっ広いフロアと異なり部屋の広さこそ普通だったので、ほっとする。けれど調度品やその配置が「どこを向いてもひとつは高級さが目に入る」ような雰囲気を漂わせており、またすぐに落ち着かない気分になった。
どことなく執務室らしい印象の部屋ではあるがその用途はないのか、来客の応接用のローテーブルとソファが目立つ。
ただ、片隅に祭壇がつくられておりいつでも祈りを捧げられるのが、ある意味で部屋の主にとっては執務なのか。
やや待っていると、先の二人組が戻ってきた。お茶を淹れてくれたらしく、三人の前に置かれる。
「どうぞ。お茶を淹れましたので」
「あ、どうも」
二人組がソファの横に応接椅子を出してきて、茶をすすっている。
遣う急須は同じ、器もランダムにとった。毒はないな……と判断し手を伸ばして、理逸も一杯いただく。すっきりとした甘みで雑味はなく、いい茶葉なのだろうなと理逸は思った。
ただ、礼儀として口をつけただけだったので、それきり手を出さない。まだ支部長とやらは来ないのか、それから茶がすっかり冷めるほどの時間が過ぎた。
二人組は柔らかな笑みを浮かべたまま、思い出したように言う。
「そうです。ちょうど、食事の時間にするところだったのですが。ご一緒されませんか?」
「……いえ、用事が済んだらすぐに辞するつもりですので。俺たちにお構いなく」
理逸がさらりと断るが、二人は粘った。
「そうですか? ただ支部長も、いらっしゃるのにまだかかりそうで。みなさまをお待たせするのもしのびないのです」
「とはいえ食事中にいらっしゃったら、来客の我々としても気まずいものがあるんですが」
「支部長は気になさいませんよ」
「ですが我々、支部長と面識があるわけでもないですし」
「そのようなことはお気になさらず。なんなら、支部長も食事はご一緒なさると思います」
「……」
「我々、お昼がまだでしたので。ぜひご一緒していただけたら、うれしいのですが」
断りきれない空気になり、理逸はスミレと加賀田の方をちらっと見た。加賀田は気にした風でもなく視線を外し、スミレはなんとも言えない顔になる。
だが話が進まないよりはいい、と判断して。理逸は仕方なく提案を受けた。
二人組はにこやかな顔のまま、がらがらとワゴンに載せた食事を運んできた。食事は、麦粥に塩もみの千変艸、なんらかの魚の出汁をつかった汁物、味付けした干豆腐と根菜類を炒めたもの。
豪勢ではないが、食べやすい食事だった。量もそれなりにある。
箸を伸ばす理逸たちを見てから、二人組も食事に手をつけた。
だが箸は理逸たちが三口進めるあいだにやっとひと口、というペースで、「お昼がまだ」という言葉がでたらめであることは明白だった。
理逸の箸が重くなる。
……そうだ、ここのこういう空気が嫌だったのだ、と、思い出していた。
無論彼らに悪意はない。むしろ善意しかないだろう。
『貧しい区域からやってきた哀れな人物には、素性が不明であろうと敵かもしれなかろうとまず平等に食事や水を与える』。
教義のひとつとして存在する、慈雨の特徴だ。
そう特徴だ。深い考えはない。深い信仰は、あるかもしれないが。
でもそれは憐れみであって、理逸ともうひとりはあのときこれを受け入れることができなかった。理逸に関して言えば、いまだってそうだ。
これは理逸を、スミレを、加賀田を見て……『個を見て』、おこなわれたことではない。
理逸がプライアホルダーだからと丁重に扱われたときと同じ。相手が貧しいからこうする、という画一的な対処法に則ったにすぎない。
だから平気で、彼らは「昼がまだ」などと言う。理逸たちが遠慮せず済むよう、自分たちの食事のついでに用意したのだというアピールだったのだろうが……そもそも南古野では食うや食わずの者ばかりだ。「昼がまだ」とは、三食足りている人間の物言いである。
スミレも、あまりおいしくなさそうな顔で箸を置いた。おそらくは理逸が先ほど言いかけた、「いや、どうだろうな」という言葉の意味がわかったのだろう。
たしかにあのとき理逸と共に戻った男は、褒められない生き方の末に死んだ。
だが愁傷、憐れみを、無分別にかけられることを望まなかったからこその死だ。
勝手に彼の死について意を見出すことは、ちがうように思われた。
けれど。
それをするのがここなのだろう。
それが宗なる教えに沿うということなのだろう。
生も死も共同体の共有物として、共に喜び共に悼む。配慮をし慰撫しいつしか溶融する。
……これを拒否できたのは、単に理逸がプライアを持ち生きる手立てがあったから、というだけなのかもしれない。食うや食わずをまず救う、そこに不善との誹りはできない。
だがそれでも、理逸はこの場に染まることはできないと、あらためてそう思った。
「お待たせをいたしました」
張りのある声が入口から届く。とっくに箸を置いていた二人組だが、つまみ食いがバレたときの子どものようにびくりとして立ち上がった。その所作で、やってきたのが立場も上の人間だと察する。
支部長はうりざね顔の、青白い肌の男だった。裾を引きずる、ローブのような白衣装をまとっており細い腕がそこから突き出る。
穏やかな顔つきで、長細い首から下がる泪滴型のアクリルチャームを指先で撫でていた。片手を挙げて、部屋に居た二人組に合図する。二名は一礼して部屋をあとにした。
残る四人でローテーブルを囲む。卓上には、冷めた食事が残る。
「支部長の植田です。どうぞよろしく……お食事はお済みでしたかな?」
「堪能させていただいたよ」
本気か冗談か、それなりに量も食べていた加賀田は平然と言う。
それから早速、「これは土産だが」とスイカの入った麻袋をローテーブルの上に載せた。そのまま喋り出す。
「まだるっこしいのは苦手でね、単刀直入にいかせていただく。キミらの人身売買を知っただの、そういうカドで我々への追及や殺害をつづけるつもりならば――キミらは我が雇い主の『宅島』を敵に回す可能性があるが、構わないのかね?」
加賀田は笑って、眼鏡型機構を外した。
#
「沟のアホどもが南古野捨てようとしてるって、『宅島』が知ればキレるんじゃねーかな、南さんよ」
安東は麦飯の魚フライ丼をかっこみながらつぶやく。
カチコミを終えて安臥小銃を回収し、人身売買リストと共に部下に組へ送らせて、南と共によく行く定食屋を訪れていた。ケツ持ちである笹倉組幹部の彼らがやってくると即座にのれんを下げてほかの客を追い出してくれる、気のいい店主がやっている店だ。もちろん店のなかのことは一切他言しない。デキた奴である。
南は長ドスを提げた右腕を机の下にぶらぶらさせながら、左手の箸でうどんをすすっていた。咀嚼して呑み込んでから、箸で安東の顔を指して言う。
「その名はたしか、新市街のいいとこの一族だったはずだな」
「ああ。
「食事中にはやめてほしいものだな」
「悪い悪い」
ざくり、となんの魚か知らないフライのふたつめをかじる。悪くない味だ。しかし、パンチが足りない。内臓は取り除いてしまっているらしい。ハラワタのほろ苦さがいいんだがな、と思う安東は片手で箸先を振り回しながら、厨房の方に居る女店主へ言う。
「おいねーちゃん、ハラワタはどうした?」
「売ったろ、あんたらに」
「テメエのモツの話じゃねえよ。魚の方だよ」
「排水で増加したプランクトンで港の水腐ってるんだろ、詰まってるクソがヘドロの臭いだったから捨てた」
「はーんなるほど」
「クソの話はもうやめろ」
南が心底不愉快そうに打ち切った。女店主は平気で「じゃ、おかわりいる?」と訊いてくる。胆の座った女だった。
うどんのつゆをすする南は、ネギを噛むしゃくしゃくという音を立てながら話をつづける。
「して、宅島とはどういう一族だったか」
「数字以外なんも見ねえでこの
「なるほど。南古野の維持存続のための一族」
「だから連中が情報乱す組織になるってんなら、容赦はしねえと思うぜ……」
言葉を切って、安東はにやにやと笑う。
その顔を薄緑のレンズの眼鏡へ映しながら、南は問う。
「どのように
「んー? っははっ。いやね、俺思うのよ。血と地を継承したい
がり、とフライの残りをひと口でかじり貪り。安東は口の周りの脂をぬぐうべく舌なめずりした。
「沟も組合もこの機に潰そう。いー加減、南古野はウチが治めた方がイイだろ」
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