White whale (6)
沟の支配する港湾地域は、先日の収穫祭のような催事でなくとも独特な雰囲気がある。鱶見深々はそう思った。
それは人種の匂いの醸し出すものだろう。
もちろん、現代において明確な血筋のルーツ……というものを実際に保持しているのはそれこそ新市街の人間くらいだ。沟のトップである
だが、それでもここには『血族』の匂いが立ち込めている。
同胞、同志、身内、連れ、知人、どれとも異なる。自らの血をこれと定めてその民族として生きようとの意思を明確に持ち、またそれを相互に共有している地帯。
地縁よりも血縁。『何者であるのか』の定義、他者からの承認をそこに委ねて
他派閥を寄せ付けない南古野の魔窟。
昼日中でどれだけ明るかろうと、深々にとってここは暗い場所だ。
「深々、射線の通る場所は把握しているね」
「問題ない」
師であり育て親、所属組織の前リーダーである十鱒にかけられた声に応じ、彼女は左手を挙げる。傾いだ体の反対側で、右袖が揺れた。
沟との交渉に伴いついてきた十鱒には《目明し》からの情報を伝えてあり、運び屋斡旋の人材業者に慈雨の大曾根から接触があったことも伝えてある。しばし考え込んだ彼は「とにかく補償のため出向くべきだ」と言うので、そのままここに至る次第である。
ビルの陰から二人は港沿いの倉庫街広場へ出た。
端から端が視野角に収まりきらない、だだっ広い港だ。ひび割れたコンクリートがでこぼこと表面を覆っており、その上を傷んだ海藻や岸壁で息絶えた魚の腐る匂いが這う。繋ぎ留められ揺れ動く漁船の下で、赤潮が海面を薄く埋め尽くしているのも見えた。
「また生活排水量を規制値より上げたようだね」
赤潮の原因について十鱒がそのようにぼやいた。
南古野の地下を通る大都鉄道網は水道パイプラインと同時に、新市街からの排水パイプラインも通っている。一応は濾過水槽を通してから港へ放出するきまりだが、結局のところ薄めるための水も不足しているため形ばかりだ。また排水処理業者そのものも中抜きや癒着が横行しているため機能不全に陥っており、結果、こうなる。
沖合ならともかくも、この港で海に落ちると穢れた水で肌が炎症を起こす。そこかしこにいる港湾労働者も、手足や顔に炎症の痕を残すものが多かった。
深々と十鱒は襲撃に遭うことの少ない広い道を選び、倉庫街を右手に見つつ進む。
人工的な海岸線に沿って、いくつもの倉庫と倉庫だったものが連なっている。生産活動プラントに直通の輸入物・輸出物倉庫だけが綺麗さと健全さを保っており、あとは犯罪の温床だ。
たとえば周の現在の右腕・
『
並んでいた者たちとそれを審査する者たちの忠華語での会話が、その叫びで途切れた。流氓のひとりが自分に値をつけてもらうため、挑みかかっている。
流氓は痩せ型の、ランニング姿の中年男だった。腰を落とし、前後の足へ五分ずつ体重をかけている。突き出した両手とも掌にしており、少し指先を曲げた様子は流派によっては鷹爪と呼ばれる姿形だ。
悪くない使い手である。立ち姿を一瞥して深々はそう思った。
が、相手が悪かった。隆々とした筋骨を誇示する、スキンヘッドの男。
《
南古野において彼の流派の者たちは、上から数えた方が早い達人集団である。
「えぁあっ!」
気合一喝、威勢よく突撃する中年男の直突きを捌いた彼は、返す手刀を叩きつけたあと蹴りで易々と吹き飛ばした。
飛ばす方向は、余所者だからと狙っていたのか――深々の方である。
どうやら性格が悪いらしく、狻猊の弟子が笑うのが見えた。歩いていたのは海沿いのため、男に巻き込まれたらそのまま二人ともドボン。全身が爛れてひどいザマになるだろう。
ただ、そこまで想定を巡らしてから動いても、深々の対処は十分に間に合った。
「くだらない……」
ため息をつく深々。飛んできた男に、身を震わすようにして右腕――中ほどまでしか肉が残っておらず、肘から先は空の袖だ――を振るった。
男物のワイシャツを着ているため、長く余った袖がしなり伸びる。さながら、鞭のように速く・鎖のように重くといったところだ。
ヒュパ、と音を立てて瞬間的に中年男の腕を絡め捕り、腰を切る動作だけで力を加えた。
飛んできた男はそれだけで勢いを失い、深々の横に落ちると軽く二転して仰向けになると海に落ちる寸前で止まった。『威』を完全に殺しきったのだ。
唖然とする、狻猊の弟子と中年男。深々は足を止めることなくその場を進む。飛んできた小石をはたき落とした程度、という態度だった。十鱒は、これを見て笑った。
「袖技、ずいぶんと冴えたものだ」
「飛んでくる矢を袖ではたき落とせなどという常軌を逸した鍛錬のおかげだよ」
「僕はそこまで厳しい鍛錬を課したかな? とんと覚えがないけれどね」
「飛んでくる矢をつかみ取れるひとからしたら、『そこまで』なのだろうが。私からしたら死を覚悟する日々だったよ、アレは」
今度は辟易とした感情を込めて、ため息をついた。
おそらくいまの深々の力量は、南古野で上から数えて……まあ、十指に入るかどうかだろう。
その程度には強くなったからこそ、彼女にはわかる。十鱒の力量がどれだけ自分と隔たっていたのか。十鱒という存在がどれだけ磨き上げられているか。
深々もこれくらいの芸当はできるようになったし、行路流の打撃もまぁ威力だけなら十鱒の拳闘に引けを取らなくなったと思うが……だからといって十鱒に勝てるのかと言われたらまったく自信はない。
そんな人間に後継と選ばれた重圧と、期待されているということへの誇り。どちらも胸に抱いて、深々は日々を送っている。
やがて二人は、倉庫街のなかにひと際目を引く建築物の前に立つ。塀が長くつづくここは、周の邸宅だ。
華国のくせの強さが現れている、
いま深々たちが立つのは南にある大きな門扉の前であり、ここから入ることとなる。
『南古野安全組合、組合長の鱶見深々だ。部下の十鱒を伴っている、周氏にお会いしたい』
それなりな発音の忠華語で言えば、守衛は道を譲ってくれた。
南側の建物を通り、石畳が整然と並ぶ中庭を抜け、北に位置する周の居住家に踏み込む。
奥の間で待ち受けていた周は、黒檀の丸机の向こうで籐の
『かけるといい。組合の二人よ』
目礼して、深々と十鱒は腰を下ろした。
薄暗い室内には香の匂いが立ち込めており、甘ったるくてあまり気分が良くない。運ばれてきた華国の茶の香りの方が、好ましかった。
周はとくに断ることもなく葉巻に火をつける。気のない顔で――こちらを苛立たせようとの策だろうが――あさっての方を向いて煙を噴き上げた。
『それで? 要件はなんだったか』
『子どもの人身売買についての補償だ。組合傘下からの誘拐人数は九。頭数に掛ける数字まで言わなければならないほど耄碌しているか?』
深々が煽り文句を浴びせかけると、たっぷりと煙を吸う間をとって、周は手元の呼び鈴を鳴らした。ややあって部屋に来た侍従の男が、方盆に載せて袱紗をかけた金の束を机に置く。周はその額を見もせずに言う。
『足りるであろう。話は終わりか?』
『茶が冷めるくらいの時間は付き合っていただきたいものだ。来客が席についてすぐ帰路につくよう促すなど、程度が知れるぞ』
『言うようになったな、小娘。番犬が横に居れば強気に出られるものと見える』
『そちらは逆に、不出来な飼い犬を今日は退けておいたのかい? 賢明な判断だね
十鱒が返す刀で切った。
王辰が先日、笹倉組の安東のブラフにひっかかった件は深々も十鱒から聞いている。己の右腕の失態というのはさすがに擦られると不愉快になるらしく、周の薄い目がさらに細く尖った。
『先日は僕のことを深々の走狗だと言ったが、僕からすれば水道局の走狗に成り下がったきみのほうがよほど残念な存在だと思われるよ』
『話が見えんな。水道局と私が手を組むメリットがない。南古野での権勢に、奴らの存在は関係しないではないか』
『たしかに関係しないし、水道局側もきみたち相手では取引してもさしたるメリットがないだろう。奴らは南古野全体が存続してプラント労働力を確保できることが第一であり、べつに各組織のどれが勢力を増そうと大差ないと思っているのだから』
『自分の組織力が我らと並ぶと思っていたいようだな』
『いや? 僕らの組織の方が精鋭は少なく、結束力も薄く、稼ぎ出せる金もきみらに劣っているとの自覚はある。ただ、それでも新市街からすれば大差ないという事実を述べているだけだがね』
暗に、煽りと事実指摘のちがいも理解できていないのか? と言い立てて反応を見る隙間を挟む。組織評の話を個人評にすり替えて、揺さぶりをかけていた。こういった手管が自分にはまだないな、と深々は思う。
周は動じず、また葉巻をくわえてひと吸いしてからつづけた。
『茶飲み話とはいえ単なる事実列挙と妄言ばかり。時間稼ぎじみた真似はやめよ、十鱒。私は頭目を下りたお前と異なり忙しい』
『忙しい忙しいと主張するのなら今後仕事を邪魔されないよう、こんな訪問を受けてしまうミスをした自分をもっと反省すべきだね。身から出た錆をひとのせいにしているようではなにも成せはしない』
『お前もこのような小銭稼ぎに執心していてはなにも成せはせんぞ、十鱒』
『組織の優劣は稼ぐ額で決まるわけじゃないよ』
『ではなにで決まる?』
『存続力かな』
『……ははは。笑うべきところか?』
憐れむように、自分たちと比べ組織力で劣る組合を嘲る周。
そこに混ざった優越の色を、深々は感じ取った。挑発し合うなかで互いに不愉快をぶつけ合うやり取りに似つかわしくない、それは『持たざる者への優越』だった。
「我々は存続できないと思っている……いや、自分たちは生き残れるという確信、そこから滲んだ優越か」
十鱒に聞かせるように、日邦語で口にした。
存続、という言葉について滲む優越。子どもを売り払う所業。水道局との共謀。慈雨を介した輸送。
これらを勘案して推論は確信に至ったか、十鱒はうなずく。
「よくやった深々。十分だ」
「……その言い方。最初からこの確証を得るのが目的で、最後に『存続』というワードを持ってきたというわけだね」
「そうだよ。水道局と組むメリット、水道局が組むメリットそのどちらも少ない。であれば組む方法や組んでから起きることにこそ要点がある」
どうやら十鱒には、慈雨の関りがあると話した時点で最初からだいたい見通せており、あとは深々がそれに気づけるか試す意味合いでここに同道したらしかった。
「つくづく、実地で無茶な鍛錬しかさせない師だ。あんたは」
「育てるのが苦手でね。深々以外はこのやり方でついてこれなかったよ、正直言うと」
「だろうね。私自身、ついていけたのが不思議に思っているよ」
「才能の為せる業だよ」
「べつに嬉しくもない言葉だ」
日邦語でやり取りする二人を見ながら、周は眼を鋭くする。
おそらく今度は向こうが、深々たちに滲む優越に気付いた。けれどその出どころが自分の発言から見つからないのだろう。
迂闊な発言ができなくなったと、動きを止めている。ならばもう、その疑いの亀裂を広げてやるだけだ。深々は頭の中で考えをまとめる。
『
深々は声をかけ、振り上げた手を強く机に打ち付けて立ち上がった。
『与したことで得た
本日、もっとも強い不快を示す顔が周に宿る。だがそれは意図せず出してしまった、ものではない。
『……貴様ら、どこまでつかんだ?』
撃滅の意思がそうさせた表情だった。
周が葉巻を押し消して、指を打ち鳴らす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます