Chapter6:
Warez widgets (1)
鱶見深々にとって新市街へ渡ることはあまり気の進まない行事だった。
「あいかわらず、カルキ臭い街だ」
北遮壁を抜けた先、古めかしいデザインの官公役場で
最初に吸う空気で、いつも深々はそう感じる。
たとえるなら床板と壁紙をすべて替えたばかりの、塗料とワックスの臭いが立ち込める部屋に土足であがりこんでいるような居心地の悪さだ。過剰な清潔さが、深々を排除しようとしていると感じさせる。
喫煙など以ての外だ。ここで煙草に火をつければ、
しばらく紫煙と別れることは覚悟の上だったが、自分以外の意志が自分の肉体に立ち入っているこの感じは自分が排除されている感覚よりもなお不快である。管理責任と自由はトレードオフで、自傷の自由が南古野では許される……と言い換えてもいい。
壁を越えたらすぐさま吸おうと決めて、胸ポケットのマッチとシガレットを一旦忘れる。
目抜き通りに出て、人込みというほどではないにせよ通り抜けるには障害となる程度の人波にため息をつき、遠く望む黒光りしたタワーまで歩き出した。
プライアで空を歩いていければ気楽だが、ここの人間を見下ろすような真似をするとあとからろくなことが起きない。
『要求』を済ませたらすぐ帰ろうと心に誓った。
凪葉良内道水社のタワーについた深々は、アポイントメントがあると受付で告げた。受付の人間は目を合わせることすらなく「地下です」と返した。目的の階以外は止まらないタイプのエレベータであるため支障はないが、極力言葉を削って応対してくるその態度にも新市街の人間が南古野に対してひそやかに向けている棘を感じる。
地下で停止した箱から降り、入れ違いに乗った人間がわざとらしく後ろでせき込む音と共に扉が閉まる。
天井の低い灰色の廊下を、圧迫感に押し込められながら歩く。やがてたどり着いた扉には、水道警備課とプレートが下がっていた。
ノックを強めに一度。
返事はないが二秒置いて、扉を開ける。
絨毯の敷き詰められた部屋の中、空調のファンが三枚の羽をゆっくりと回転させている天井が、廊下よりもいくらか高い位置で地の底を支えていた。
広々とした室内には調度品が少なく、楕円をつぶしたような形状のデスクだけが奥に鎮座している。
壁にかかったちいさな抽象画の額縁を背に、デスクに向いている男が居る。楕円の天板に食い込むよう、丸く切り取られた席の定位置。そこで周囲へ放射状に広げた資料に黙々と目を通している。
あまり肉付きが良くないと見て取れる体躯にジャケットは着ておらず、上着と思しきジャンパーがチェアの背もたれにかかっている。ベストのボタンはすべて留めているが、シャツの襟が汚れてだらしない。サイズも微妙に合っていないのか袖は手首のところでだぶついていた。
前髪が幾筋か広めの額に垂れ落ちて、全体が整いきらないさまを示している。短く細い両眉の根は眉間に濃く深い一閃のような皺を刻み、その下で動く目の剣呑さを
それが部屋の主だ。
彼が、
警備課課長にして水道局の安全管理委員会に属し、後者の呼称で管理官と呼ばれている。
どちらの役職も大きく上層部に食い込まず、さりとて現場と離れすぎず。
熱のない彼の眼は、立場をそのまま反映しているように見えた。
「時間は、一〇分だ。その間に終わらせてもらう」
筧は目頭を一度揉んで、机の端で両手を重ね置いた。
「お忙しいところ済まないな、管理官殿」
なにも前置きなく、断ずる口調での筧の物言いに、深々は一応社交辞令としてあいさつを重ねておく。
しかし彼は取りつく島もなく、淡々とつづけた。
「三〇分後に
「……話を急げと」
「短く話せば急がずとも構わないがね」
そう言いながらも律儀に、書類に目を落とすことはなく深々にきっちりと視線を合わせている。
どうにもすわりが悪いが、時間をとってくれるつもりはあるらしい。
ため息を呑み込み、深々は席を設けた理由に触れていく。
「では、切り出すが。先日の制水式の際に、約定を破りこちらを殺しにかかってくる連中が居た。
「ない。お前たちを攻撃しようという動きは明確に、間違いなく存在した」
「……全面的に受け入れるというのか?」
「補償の話で来たのだろう、組合長」
あらかじめ用意していたのだろう書面を、バインダーに挟んだまま筧は差し出してくる。
そこには約定破りに対する補償としての金額と、一本だけだが安全組合傘下のシマを流れるパイプラインの三か月間の常時開放。並びに生産活動プラントにおける労働斡旋権、《陸衛兵》の投入を今後禁ずる旨。
補償としては申し分ない条件を示され、逆に薄気味悪く感じる深々だった。
彼ら《陸衛兵》に宿っていたのは冷徹な殺意だ。感情によるものではなく、命令を帯びた者が発する特有の殺意だった。そしてどこか、他人行儀に語る筧の言葉。
そこから察せられるのは。
「やつらとお前たちとでは、指揮系統が異なるのか」
「解釈はそちらに委ねよう。話は終わりかね? では署名を成して、下がってくれ」
結局五分も滞在させる気がなかった様子だ。
深々としても癪ではあったが、食い下がって得られるものもない。いまのところはおとなしく帰ることとする。
ただ、なんの気なしに、署名をしながらこう返した。
「……そうさせていただこう。私も暇ではない、南古野に帰ってさっさと火遊びにでも交じりたいのでな」
治安のよくない南古野では、喫煙を火遊びと形容する
それに則って口にしたのだが、
「交ざるなら尚のこと、早く下がるがいい」
筧はそう言った。
深々は署名の手を止める。警備兵として常駐が長かったとはいえ、南古野民でないこの男がスラングに乗ってくるとは思えない。
では字義通りなのか? なんらかの『火遊び』が起こっていると?
不安に駆られる深々は、遠く壁に隔てられた自らの領域のことを思った。
#
楼閣から裏に出て、通りを二本ずれたところに店の女たちが寝起きするビルがある。
欣怡の部下たちもこの子攫いについて調べるなかで近辺をうろついていたらしく、表に出るとそのビルまでの道でそこかしこにたむろしているのが見受けられた。
総勢で十数名だろうか? スミレは大人が多いからか、若干委縮したような印象で理逸の横を歩く。欣怡も身内が周囲にいるというのに表情に硬さが宿っており、なにか物言いたげに理逸を見ては視線を逸らしていた。
さて、幾野と欣怡に連れられて出向いたそこの三階角部屋。
「出勤してこないから、妙だと思って来たらこの次第だったんです。最後にこの部屋の娘を見たのはここの入り口の守衛。一時間前に上にあがったのを見たきり、忽然とフロアから消えてます」
受付の男である幾野が、円藤に説明した。
いまばかりは態度が、かつて面倒を見た『語り部の円藤理逸』としてではなく自分たちが属す『南古野安全組合・七ツ道具の三番』として扱っていることに事態を重く見る。
足が不自由なためあまり歩き回れない李娜と、まだ逃げ出されては困る加賀田は置いてきた。
欣怡とスミレと幾野と、四人で部屋を観察する。
ベッドには毛布を畳んだ様子があり、争った形跡はない。そもそも、物品が少ないので争ったとしてもたいして痕跡は残らないかもしれないが。
そして部屋の入口のドア脇、壁、天井に至るまでを見やると、欣怡が一点を指さした。
×をふたつ重ねたマーク。
「またしても、か」
「その判断は早計でしょぅ。可能性は姑獲鳥の仕業とぃう以外にもざっと考ぇるだけでも四つぁります」
「タイミング悪い足抜け、罪をなすり付けたいやつの模倣犯……あるいはまったく別のトラブル。くらいは思いつくが。あとは?」
「ご本人が姑獲鳥だった場合の遁走です」
たぶん、自分でもその可能性が低いことはわかっているのだろう声音でスミレは言った。しかしあらゆる可能性の検討が、結果的に問題解決の糸口を示す最短ルートというのはよくある話だ。
「とりあえず順番に可能性はつぶしていこう。多少なりここを知ってる俺から言わせてもらうと、足抜けはまずない。このビルに住むレベルの娼婦じゃぁな」
「外部へのツテがなぃ者、行き場のなぃ者のたまり場だからですか」
「正解」
この部屋へ来るまでにのぞけた、他の部屋の生活レベルも考慮した上での推測だろう。
ここは等級としては低い方の娼婦の住居だ。李娜が、自身の過酷な出自ゆえに似た境遇の者たちへある種の施しとして与えているものと言える。もっと上級の娼婦となれば、個別で住居を与えられてよい暮らし向きをしているものだ。
つまりここの女たちは自由になる金はさほどなく(渡さない理由は主として、渡しても使い込んでしまう生活力のなさに起因する。よって衣服や換金性の低い物品を代わりに与えられる)、金もツテもない以上自分から出ていくというのは考えづらいのだ。
「模倣犯も、ねぇだろ。罪をなすり付ける相手の像が明確じゃないし」
「模倣のための模倣では、ぁまりにも無意味ですね」
「別のトラブルの線もねぇな。ツテがないってことは人脈がない。争う相手は
「ふぅむ……自分でぃっておぃてなんですが、ここの住民事情を聴くにご本人が姑獲鳥でぁったとも考えにくぃですね」
スミレもあっさり引き下がり、ほぼ現場の確認は終わった。なんだかいやに彼女とのやり取りがシンプルで、そのことが理逸にしこりを残す。なにが妙とも言い難いのだが。
ともあれさっさと可能性をつぶした理逸は、ここまでの連続誘拐と同一犯──姑獲鳥の仕業が濃厚とみて動くことに決める。
「幾野さん、これは組合傘下である世渡妓楼閣に降りかかった問題だ。俺の名のもとに《七ツ道具》に話を上げて以降を対処する。李娜にもこれからそう話にいこう」
「ああ……頼みますよ、《三番》。楼主にも俺が一緒に伝えるから」
うなずきを返し合い、ビルをあとにする。
衆人環視……とまでは言わないにせよまたしても。最後の目撃情報のあと、消えるはずのない場所から消えている。
感覚に影響する、プライアか機構を用いた犯行か。状況が不明瞭なまま、問題ばかりが起きて後手に回っている。しかも今回は自分たちのいた近くで、だ。
ビルへ戻る道にはまだ欣怡の部下たちがうろうろしており、すこし離れたところからは
そうして、楼閣まで戻るわずかなあいだに。
欣怡が理逸の袖を引いた。
「なんだよ」
濡れた目でじっと見る彼女は、唇を動かさずに理逸の横でささやいた。
「……円藤このまま戻らずに。上に話をしにいくって言って抜けた方がいいよ絶対」
「なに? いや、傘下組織だからって相談手順すっこ抜いて現場の人間に話つけねぇのは……」
「いいから」
かたくなな彼女に、さすがの理逸も首をかしげる。そうこう言っているあいだにも、楼閣は近づいているのだ。
横で身をこわばらせるスミレを気にしながら、理逸は欣怡の耳打ちに意識を傾ける。
「なんでそこまで言う?」
「円藤たちが上で争ってるあいだに私も調べてた」
くしゃりと紙片を取り出し、掌の中に隠し持ちながら欣怡が見せつけてくる。
そこには──
「おいそれっ、」
「一室で見つけたの。これって今回の一件に関わるリストなんじゃないかな」
並ぶ名前は攫われた子どもたちのものであり、チェックマークのついていない部分にも見覚えのある名前が見える。
棚部百合。
たったいま攫われたばかりの娘の名が、記されていた。
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