Wrong way (9)

 ベッドの脇に設置されていたカウチソファを勧められ、理逸たちは腰を下ろした。卓上ランプの間接照明に照らされる李娜はベッドに腰かけたまま、こちらに顔を向けることなく入口であるエレベーターの方に視線をやっていた。

 視線を、とは言ったもののその眼球に映るものはない。

 李娜は忠華国に古くから伝わる桃娘タオニヤン──『桃のみを常食し、体臭を桃のそれに変える』などという、人体を玩具のように扱っているとしか思えない生活習慣を先代の楼主から長年にわたって課せられたがため、重度の糖尿病を患っている。

 視力は両目ともわずかに光を感じる程度で、両足も纏足で傷んだことに加えて血管がぼろぼろになっておりいつ崩れるともしれない。そも、年は三十を超えているはずだが、その年齢まで生きているのが不思議なくらいなのだそうだ。実際に同じ生活をしていた同世代の人間は皆、二十歳を迎える前に様々な合併症で死に至ったと街の医者はいう。


 しかし彼女は、過酷な生活に適応してしまったらしい。桃しか食べない生活。不摂生を極めかつ多くの他者と濃く近く深く接する職種。そんな、医者が理屈を投げ出したくなるような状態でも、ずぅっと生きながらえている。

 あまつさえ、その体から発せられる──とくに足先からの──芳香は、どういう原理なのかさっぱりだが男女問わず情欲を煽るフェロモンを含むらしく嗅いだ者の性的欲求を強くくすぐる。

 この娼館には機構デバイスによる感覚鋭敏化微機ナノマシンを粘膜経由で客に打ち込み快楽を増幅するような異能の娼婦も在籍しているが、それらをも押さえて常にトップの地位にいるのが彼女……李娜だった。


機構デバィスでも能力プラィアでもなく、体質でそぅなってぃると?」

「らしい。音と匂いだけで誰だかわかるのも、拡張ブーストじゃなく単なる感覚の発達によるものってだけだそうだ」

「にゎかには信じがたぃです、が、まぁ……」


 ソファに尻を落ち着けたスミレは、まだ内腿をしっかりと閉じて前傾気味になっている。汗は少しひいてきたようだが、まったく備え無しで李娜の芳香をまともに受けたことにより、彼女も情欲の火を煽られて李娜の体質を実感したらしい。

 醜態をさらしたと感じているらしく、じとっとした目で理逸を睨みつけてくる。


「説明が遅れて悪かった。謝るからあまり、睨むなよ」

「……ぁなたにはぁまり効ぃてぃないと見ぇるのは、ゃはり慣れなのですか」

「多分。結構長いこと、仕事のひとつとして世話になってたからな」

「どれくらぃでしょぅか」

「兄貴が死ぬ前、十歳前後からかな。三年ばかし、週に一度は顔出してた」


 この近辺で遊んでいたところ、急に李娜お付きの人に呼び止められたのだった。なにかしでかしてしまったのかとひやひやしていたら、李娜本人に面通しさせられて「そのアルトの声を気に入ったから読み聞かせの仕事をして頂戴」と訳の分からないことを申し付けられた。

 以来声変わりを終えてしまうまで三年、ここで世話になった。また、匂いに慣れたのもおそらくは……いまのスミレより当時の理逸が幼く、『情欲』を心身ともに理解する前の年齢で、影響を受けにくかったのもあるだろう。


「まあ、匂いだけなんだが。耐性あるのは」

「……ぃやにこちらを見てぃると思ったら、向こぅから目を逸らしてぃるだけですか」


 仕方がない。なにせ李娜は裸身に近い恰好だ、女性慣れしているわけでない理逸には、この年齢ともなると刺激が強い。

 ふと横を見ると、欣怡も効果を強く受けてはいないようだが、呼吸を抑制して姿勢を正すところを見るに武術的な鍛錬の成果によって流しているのかもしれない。気の制御、内功というやつだろうか?

 ……けれど先の話から察するところ、過去に不義理をはたらいているからだろう。居たたまれない顔でそわそわしているのもわかる。


「私の語り部さん。お飲み物はお茶でいい?」


 ベッドサイドにあった伝令管の筒口に手をかけながら、李娜は言う。もう彼女に読み聞かせをする職を辞して長いが、理逸が「名を呼ばれたくない」と頼んで以降はずっとこう呼んでいる。ちなみに、その以前は「小理シャオリ」と忠華風に呼ばれていた。


「ここのお茶は美味しいですから、ぜひそれで」

「心得たわ」


 理逸が返事をすると、伝令管に声を発して茶を持ってくるよう指示した。それから足をゆっくりと床につけ、体を立ち上がらせる。

 三寸の布靴をさす、さす、と鳴らしながら李娜は内股に小さな歩幅で歩んできて、ソファに腰を下ろす。むっと甘い空気が移動してきて、三人にぶつかった。

 もっとも香りの強い爪先が靴に閉じ込められたので先ほどまでのように意識を揺さぶられることはないが、それでも、ここが自分の領域でないことを強く鼻腔から刻み込まれる匂いだ。

 足を組み、素肌晒す面積が広めの煽情的な恰好のまま、李娜は話をはじめる。視線は向かずとも、声の距離感はスミレを向いていた。


「あらためて、名乗っておきましょうか。私は李娜、敬称は要らないし姓名を切り離されるのも好まないので、そのままそう呼んで頂戴。あなたのことはどう呼べばよろしいのかしら、お嬢さん」

「はじめまして、李娜。ゎたしのことはスミレと呼んでぃただければ」

「スミレね、心得たわ。しかし、ふむ……とても、整った顔立ちをしているのね」


 少しだけ身を乗り出すようにして、けれど顔は向けず。

 発言と光景の不一致でどこかちぐはぐさを感じさせたまま、李娜は言葉を継ぐ。


「どちらの土地のご出身なのでしょう? 目じりに赤いメイクだけ、というお化粧はあまり見ないもののように思うわ。お顔が小さいから、髪はセミロングにしてみても似合いそうですね。でも肩までで留めて短くしているあたり、ボリュームが出やすい髪質だから伸ばすのを避けているとかかしら」

「……見ぇて、ぃないのですょね?」

「ええ。でも、赤く鉄分を含んだ染料の匂いが目元から漂っていますもの。髪の長さと顔の骨格は、声の位置と口腔内での反響具合減衰具合から判断できるわ」


 平然と口にする李娜、その目に青の光がなく淡々と語られることに、スミレはおぞけを感じた様子だった。

 先日の、あの耳長の警備兵が使っていた機構をもし李娜が手に入れたなら。おそらくは当代随一の使い手になって、誰も手がつけられなくなるのだろう。未拡張でこのレベルなのだから。

 そんな益体もないことを考えていると、李娜は欣怡に話を振った。


「楊欣怡。あなたとはひさしぶりですけれど、お元気?」

「やーは……まあ、それなりに。その節は、ご無礼を」


 欣怡は腰を上げて、しっかりと頭を下げた。

 その音は李娜の聴覚ならば伝わっているはずだったが、


「そんな風にかしこまらなくてもいいのよ。雇用なんて、互いの信条と感情の合致があるかどうかで成立するだけのものでしょう?」


 そう口にして、謝罪などなかったかのように振る舞った。欣怡はうろたえる。


「や、それを乱してしまったのは私のほうで、」

「乱したのがどちらかなどわからないことです。合う合わないは水物・・よ」

「は、はあ……」


 ばっさりと話を断たれて困惑する欣怡だった。この女が言葉を区切ってしゃべるのを、理逸はそれこそひさしぶりに聞いたような気がした。それほどに、不義理だと思っているのだろう。

 けれど李娜はまるで気にしていなかった風でころころと笑う。

 その表情にも、声音にも。

 別段欣怡に対して含みのあるところはない。

 あんまりさらっと流されるからか、むしろ欣怡は口を開こうとして、やめて、でもまた問おうとして……を何度か繰り返していた。


「それでなにか、聞きたいことでもお有り? あなたたちは互いに敵対派閥でしょう。共に行動する理由にはなにかあるのではなくて」


 その問いにも、詰問ではなく初対面の相手にそうするかのような軽い響きがあった。

 いや、実際。初対面に相対するかのようなものでしか、ないのか。

『逃げたコ』などと口にしたがその実、彼女のなかで『逃げ』に対する意識はことのほか低く弱いのかもしれなかった。

 そもそも南古野ではどの派閥も複数の娼館を抱えており、シマ抜けとは異なり店舗間での移動は自由だ。もちろん尾道のように前金バンス制度で縛りを設けて抜けられないようにするなど、措置はあるが。


 つまるところバックれなど大したことではない。日常茶飯事なのである。

 欣怡もあまりに自分のなかで気にしてしまっていたことについて、むしろいま「重く捉えすぎていたか」という顔つきになっている。緊張していた背筋をソファにもたせかけ、はぁ、と目を細め眉を緩めてぐったりした。

 ともあれ、この場の人間についての李娜の認識度合いはわかった。あらためて、理逸は本題に入ることにする。


「……いま港湾部で起きている事件を、スミレと俺で追っています。この楊欣怡は、情報源かつ港湾部を根城とする沟の当事者として、ついてきただけです」

「沟の所属ではあれど上の差し金ではないと。そう言いたいのね」

「おっしゃる通りです。それで、李娜、子どもが姿を消している件をご存じで?」

「そろそろ問われるのではと思い、情報を集めていた程度には」


 二つ返事で、李娜は自身の持っていた情報について示唆する。指で自分の頬をなぞりあげながら、口角を上げて焦点の合わない目を閉じる。


「きみが沟の人と共に行動しているということは、疑っている対象はその土地の者ではなく仲介の者──ということね」

「話が早くて助かります」

「そちらも、代価の支払いお早めにお忘れなくね」

「抜かりなく、明日中には」


 既知の間柄とはいえ、そのあたりの金勘定は曖昧にせずしっかりしている二人だった。

 さて、前提が整ったところで、李娜は語りだす。


「私の相手する女衒ぜげんにそれとなく探りを入れて、動向も調べておきました。ただ、私の見立てでは、そのような大規模な売り買いはしていないように思えたわ」


 言いつつ、李娜は腰かけていたソファの肘置き部分の蓋を開き、なかに立ててあった書類の束を取り出す。これを、理逸たち四人が囲むガラス張りのローテーブルの上に置いた。


「中を確認しても?」

「どうぞ」


 理逸の声掛けにうなずき、李娜はひらりと手を振る。理逸を真ん中に、左右からスミレと欣怡が迫ってきて三人で書類を確認した。

 聞き込みによる行動の裏取りと、女衒の動きのタイムスケジュール。出荷と入荷のタイミング。書面の上で、不審な点はたしかに見受けられなかった。


「プラィアや、なんらかの表に現れにくい細工をこぅじなくては犯行は難しぃと見ぇます」

「むーん。プライアだったとしても十数件もバレずにできるならそれって相当な手練れだよ。そういう奴は能力が不明だとしても『謎のプライアが関わってそうな事件のとき目撃されてた』とかで捜査線上には名前が挙がってくる」

「いやに具体的なたとえだな」

「たーは。実体験だからだねそれ」


 そういえばこいつもプライアが(そもそも保有しているのか否かすら)謎だったな、と思い出す理逸だった。たぶん彼女も能力への推察うんぬんでなく現場近くで目撃されたなどで、疑いをかけられたことがあるのだろう。

 まあ要するに、疑わしい技能やスキルがなかったとしても基本的に「怪しい奴は怪しい」という感じで浮かび上がってくるのが常なのだ。

 そうした残り香がまったくない事件というのは、怨恨や被害者/加害者に関連性のない行きずり殺人くらいなものである。


「しっかし、捜査線上に挙がらないような行きずり犯がやるにしては、十数人……あまりに多すぎるな」

「強く目的があって実行している者が居る、と見た方が良いでしょうね。そしてそれは、隠蔽能力に長けている」


 言葉を切った李娜が、ふいに書類から顔を上げた。その表情をうかがうも、視線の動きというもっとも情報の出やすい部分が不明瞭なため、彼女がなにを察したか気づくのに遅れる。

 チン、と音がしてエレベーターが開いた。お茶がきたのかと思い、理逸はそちらを向く。

 ところが。


「お客様、いま楼主は休憩中で……」

「だったらむしろ好都合だよ、キミぃ。なにせ私の用事はほら、すぐ終わるのだからね」


 開くのが遅い扉の両側に、ががっと左右の肩をこすり当てるようにしながらひとりの男が降りてくる。その後ろには受付の男がしがみついており、それでもまるで歩みを止められないらしい。

 その理由は一目瞭然。

 ずかずかと歩む男の細い目には、青の光が宿っていた。おそらく筋力などを拡張ブーストしている。

 眼鏡──いや、眼鏡型機構か。大きな丸いレンズをハーフリムで支えるそれのブリッジを、小指で押し上げながら室内を睥睨する。ツーブロックに刈った髪型のせいもあるだろうが、首が長く見える男だった。長袖シャツにベストと、細いシルクのネクタイを合わせた風体。手首の腕時計も機構だろうか?

 革靴の爪先をこちらに向け、男はぴたりと止まると順に欣怡、理逸、スミレと見て、最後に李娜に焦点を合わせた。泣きぼくろのある目元で、きゅゥと音がしたような気がするほどまぶたが細く絞られ、鼻腔がふくらんだような印象がある。細かく皺の刻まれ潤いの少なめな肌は、李娜より少し年かさに見えた。蔵人くらいの年、だろうか。


「キミが楼主の李娜か。お目もじ叶って光栄だ」

「……お客様かしら」

「すみません、楼主。まだ時間ではないと伝えたのですが」


 腰にしがみついてなんとか引っ張ろうとする受付の男を、眼鏡の闖入者は軽い動きで振りほどいた。

 なんのモーションもなく、腰を切るというほどのこともなく、ただ腋を締めて一度首を回し両手をまっすぐ下げただけ。その手に触れられただけで、ずるんと手が滑ったように受付の男は床に臥せった。

 眼鏡の闖入者はつかまれていた部位をはたきながら、のんびりと言う。


「おいおい、『時間』を『時刻』のことだと字義通り杓子定規に捉えるのは不幸のはじまりだよ、キミぃ。いいかい、人間にとって『時間』とは『機』を指すことの方が圧倒的に多いのだぜ。そして今日私はこの時間が好機と言えた、だから来た」

「要するに、単に予定変わって時間空いたのを、『好機』と言い換えてるだけか?」


 突然入り込んできて話の腰を折られたので、若干不機嫌になりつつ理逸が言う。すれば、眼鏡の闖入者は首を横に振る。


「ちがうちがう、自身の努力で以て午前の仕事の短縮に成功した結果だ。そうやってつくりだした余暇は、冷めないうちに消費すべきだと思わないか? なにせ時間は限られており我々はその奴隷だ。くわえて言うなら私は早漏だ、手早く済ませることを約束する」

「……反応に困ること言うじゃねぇかよ、こいつ」

「一二〇分のコースなど元より必要なかった。なにしろ私はそういう目的が薄く、半ば以上研究目的なのだから」

「なんの研究だよ」


 娼館巡りでガイド本でも書くのか、と風体から物書きのような印象を受けたので揶揄のつもりで口にしようとする。

 しかし眼鏡を押し上げながら、彼は平然と、まったく思いもよらなかった答えを返してくる。


「私は医者だよ。テーマは、『死ににくい個体の研究』」


        #


 サルベージは重労働だ。

 ……所属不明船舶、モーヴ号が沈む海域にて。安東はそう思った。

 海中、しかも船内というのは見づらく動きづらく戻りづらい。

 明かりを喪った建築物の中は見通しがきかず方向感覚を失わせる。突起や構造物や調度の多い中は狭い岩穴に似て、引っかかればエアと時間をロスして帰還の可能性を減じる。扉を開ければ水圧差が生じて流されたり、あるいは危険な生物と鉢合わせすることだってある。

 恐れるものなどない安東湧にとっても、この仕事は面倒で、なるべく受けたくないひとつだった。


「ぶはー、つっかれた」

「お勤め、ご苦労様です」


 水中から戻ってきて一息ついた安東に、部下の男が頭を下げる。俺らの稼業じゃシャレんならん労いだな、と返しながら、狭いボートの上に安東は戦利品を並べる。

 ごとごと、とまき散らされるのはバックパックを膨らませていた──複数の、薄板型演算機構スマートフォン。手の内におさまるサイズの通信記録媒体であるそれは、前時代には『monolithモノリス』と呼ばれていた。

 現代では富裕層が記録を残すことに用いる。ネットワークというものが太陽嵐のためにほぼ壊滅したいま、あれらは高性能な独立スタンドアロン機構であり、それはそれで重宝すると安東は聴いていた。主に、情報漏洩がないという点で。

 裏を返せばこのなかには、ヨソにさらしたくない情報が満ちていることになる。


「ずいぶん大量に持ち帰りましたね」

「死体から漁りまくったからな。近づかざるを得ないときもあったし、病気とかならねぇといいんだけどね」


 かけらも病を恐れていなさそうな声で言い、安東はモノリスの山を部下に押し付ける。


「んじゃこっちの情報引き上げサルベージは頼むぜ。防水だろうが、水圧でオシャカになってるのも多いだろうけど」

「なるべくご期待に沿えるよう努めます」

「あいあい。俺は代えのボンベ積んだら、また潜らなきゃなんねんだ」

「まだ拾ってくるべきものが?」

「キナ臭ェ部屋があったもんだからよ……確認だけな。すぐ戻る」


 言いつつ安東の脳裏には、船内で砕けた死者の山が蘇る。

 そのなかには子どもと思しき遺体も多かった。水没から一か月以上が経過しているため体は膨れ頭皮から顔の皮までが剥げ落ち、眼窩には魚類が潜り込んでいたが、それでも骨格から子どもだと判断はついた。

 ただ、小窓から子どもの遺体の存在を確認できる部屋は──ひとつの例外もなく『外側から』鍵がかかっており、中には入れないようになっていた。ドアは厳重にロックされており、先ほどのように精密機器を抱えた状態では無理ができなかった。鍵を探すのも現実的ではない。


 しかし、身一つであれば。

 ごぼり、エアをこぼして安東は目的の部屋の前、水中に浮かんでいた。

 小型のバールをドアの隙間にこじ入れ、安東は少し離れる。手のひらをかざし……意識することで、プライアを発動した。

 放たれた斥力が釘打つ槌のように作用し、ずんと水底揺るがす振動と共にバールをめり込ませる。あとは横方向から同様にプライアの斥力場を放ち、ドアをひしゃげさせた。


 ゆっくりと、開いていく。

 室内は物がほとんどなく、独房のようであった。子どもが暮らしている、という空気はない。

 ごぽん、と泡をこぼしながら、安東は探索する。ガスがたまって浮かんでいる死体に見下ろされながら、ベッドの下まで漁る。

 だが結局、見つけられたのは本一冊だ。それも落ちていた位置的に隠されていたのではなく、おそらく普通に棚へ置かれていたもの。開くと水による傷みで損壊が激しくなりそうなので、なかを検めるのはまたいずれとする。

 まあ、大した内容ではなさそうだが。もしかするとメモなどは見つかるかもしれない。


(にしても、なんだろな……。『瑛国格言集』って)


 Knowing知るは is終わりの fallingはじまり などと題字の下に刻まれている書籍を片手に、安東は戻ろうとする。


 だがそのとき、


 嫌な胸騒ぎがした。


 ……むかしカチコミをかけたときに、襲撃を相手組織に密告していた身内がいた。あの日にも似た感覚に襲われ、直前で襲撃チームの編成を変更したことで彼はぎりぎり窮地を脱した(そのあと密告者は血祭りにあげた)。

 もしや、と思い浮上をやめる。

 停泊させているボートを離れた位置から見れば……ざぶん、と水に落ちてくる姿が見えた。

 先ほどモノリスを預けた部下だ。そこら中におびただしい量の血を放っている。どうやらあっさり、殺されたらしい。


(嫌な予感が当たりやがった)


 歯噛みして、なるべく泡を吐くのをこらえて移動する。相手はここまで、安東たちの動向をつかんだ上で泳がせていたと判じられる手練れだ。いまも浮上を待っているだろうし、海面の泡をさえ捉えて撃ってくる可能性だってある。

 しかし、はたとそこで不思議なことに気づく。

 周囲にほかのボートは見当たらない。

 部下を殺した襲撃者は、……どうやってここに来た?



(制空権を取れる能力プライア、あるいは────)


 そこまで思い至った段階で、

 安東は自分の頭上に指す影を見た。

 水面に足をつけ、

 ただその人物はたたずんでいた。白い泡が、安東の横で昇っていく。

 次の瞬間、


 安東は『海面』で押し叩きつぶされたような衝撃を感じて、意識の所在がわからなくなった。

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