Wrong way (8)


 世渡妓楼閣は南古野安全組合に所属する娼館だ。

 建物が組合に買い取られる以前は饭店ホテルだったためそのころの呼び名で馬饭店とも呼ばれ、あるじである女の名も李娜リーナーと忠華の系譜であるが、働いている人間も大半は日邦語系をルーツに持つ者ばかりで華僑の人間は(客以外には)ほぼいない。沟の所属で日邦系のツテがない欣怡には近づきづらい場だ。

 もっとも、それ以外にも近づきづらい理由が、彼女にはあるのだが。


「それでも尚お前から行こうって誘ってくるなら、それなりに調べたいことがあるんだよな」

「まーね……。あー言っておくけどあそこが直接に子どもたちを買った売ったしたと強く疑ってるわけじゃないからね?」

「それはわかってるよ」


『強く』疑ってるわけじゃないというあたりに欣怡の猜疑心の強さを感じつつ、理逸はうなずいてみせる。と、横合いでスミレが推測を語った。


「そこへ女性をぉろしてぃる、仲介業者の動向の変化ゃ彼らへのァポィントメントのツテを得よぅ、とぃうことですか」

「わーお。さすがだねスミレちゃん。そうだよ私が知りたいのは仲介業者の動きについてなの」

「そいつら自身が正業としてのモンとべつに、副業としてやってる……ってのか?」

「疑ってるよね正直。そんでそいつらがやってなかったとしても身売りや人買いのルートっていうのは限られるからね。怪しい動きしてるやつらがいたら同業の人間は察知してるはず」


 ただ、後ろ暗い仕事というのは常に追われることを想定しているため唐突な訪問を嫌う。『誰それの紹介で来た』という形式でなければ住処ヤサを探り当てるのも難しく、また無理やりに会おうとすれば情報を隠される恐れもある。

 というわけで、仲介に顔の利く李娜に顔が利く理逸を、ここで必要としたのだ。

 説明せずとも理逸と欣怡の発言でここまでを察したらしく、スミレは「ほんとぅに組織とぃうのは面倒くさぃですね、面子だの顔を立てるだの……」とため息を漏らす。

 次いでふと、口を開く。


「そもそも、なぜぁなたは娼館のぁるじと面識がぁるのですか」


 三人で港湾部から離れ、細くかつ各所で折れ曲がりながら伸びる急な階段路地をのぼって安全組合のシマに戻っている道中である。真ん中を歩くスミレが殿しんがりの理逸へ振り返って問うた。


「そのひとを、買ったことがぁると?」

「ばか言え。んな金ねぇしその気もねぇよ」

「ではなぜ」


 言われて指折り、自分の年齢と経歴をかぞえてから、理逸は答える。


「ガキのころ……お前より、二つ三つ年下だったころ。仕事先のひとつだったんだよ、世渡妓楼閣が。そんで顔見知りになったんだ、当時から最上位の娼婦だった李娜と」


 ちょうど、先のハシモトのような小遣い稼ぎ程度のものだが。それでも理逸たちはそれを『仕事』と呼んでいたし、そうあることで自分の居場所を得ていた。


「仕事?」

「頼まれて、絵本の読み聞かせの手伝いしてた。俺は先生に読解や計算教わるより前から、兄貴の方針で絵物語とか小説とか読むように仕向けられててな。同年代のなかじゃわりと識字に明るかったから読み聞かせも出来たんだ」


 喋れても読めない、という人間はじつのところ2nADだけでなくその他の市民にも多い。その意味でもハシモトはかなり得難い能力を手にしていると言えるだろう。当人にはその自覚がまだ薄いようだが。

 しかし理逸のかつての仕事内容に、スミレは興味がないようだった。ふぅんと一度うなずくだけで、あとは先頭を歩く欣怡の方へ向き直る。


「そういやお前は小説とか、読まねえのか。たまに空き時間あってもそういう素振りねぇけど」

「一冊たりともょんだことがぁりませんね」

「マジか。一冊も? 一行たりとも?」

「無駄な反復をさせなぃでくださぃ、『一冊も』と言ったでしょぅ。途中で投げたことのレトリックで言ったゎけでなく実際に一冊一頁一行たりとも、です」

「姑獲鳥とかよくわかんねえもんの知識はあるくせに」

「寓話や伝承は時代ごとの大衆の思考傾向と危難への警句と伝ゎりやすぃ物語の類型とを教ぇてくれる教材です。反面、個人にょる大衆への感情喚起ツールでしかなぃ小説や、そもそも幼稚な絵物語はゎたしには必要ぁりません」

「一冊なり読んで『必要ない』って判断したならわかるけど。必要ないから読んでない、ってなんか妙な話だな」


 純粋に気になった部分を取り上げて問うと、ちょっとだけスミレはこちらを振り返ったが、結局は説明が面倒になったのか無視してまた正面を向いてしまった。

 と、足を止めた欣怡がスミレを手招きして「ねーえ。ここ電子錠で封鎖されちゃったみたいなんだけど開けられる?」と細まった路地の曲がり角を指さす。

 扉などはないがよく見ると膝の高さあたりの壁に埋め込み式のセンサーがあり、通り抜けると厄介なことが起きそうだった。

 スミレは無言で近づき手をかざすと、ユーザ専用の立体映写SVインタフェースを立ち上げて空中を打鍵し五秒ほどでロックを外した。

 こうした知識の習得にすべてを割いて、情緒面の発達をおろそかにしたのだろうか、と理逸は邪推する。


「開けましたよ。これでとぉれます」

「せんきゅー」

「そこは謝謝じゃなぃのですか」


 そういうコテコテ感についての知識はあるのか、と思いながら連れ立って歩く。

 やがて忠華様式の建物が少なくなり、周囲が見慣れた生活の空気に戻っていった。香辛料の匂いや忠華を感じさせる均整の取れたつくりや縁起を意識した派手な色調、紋様パターンが少なくなり、無機質で雑多で、間口と生活スペースとの隔絶されたパーソナルスペース重視の建物が増えてくる。

 そんな中で、大通りから一本逸れた個所。

 にもかかわらず目を引くデザイン。五階建てのビルディングは全体を赤いレンガに覆われ、庇も腰壁も左右対称。

 入口は丸くかたどった、洞穴を思わせるデザイン──洞門というらしい──で、これもまた異国の空気を感じさせる。


「このぁたりだけは、日邦文化からかけ離れた古い忠華の様相をてぃしてぃますね」

「っても正面外観ファサードだけ残してて建物自体は抗争で壊れて、一度立て直してるんだよ。もとの持ち主だったマー氏はその修繕費で首が回らなくなって組合傘下に手放したんだって話だ」


 事情通の欣怡からむかし聞いた来歴をスミレに語りながら、三人で洞門をくぐる。

 門からエントランスまでは二メートルほどの距離だが、トンネルを抜けるような心地がする。

 開けた空間に出ると天井も高くなるが、あくまで待合スペースだからか横幅はない。間接照明によるぼやけた光量のなかで調度品の影が踊り、高級な生地を張った待合用の壁際ソファには点々とお客らしき男たちが座っていた。

 理逸たちが三人・男女混合ということもありすぐ自分たちお客の同類でないと察したらしく、目も合わせない。


「いらっしゃいませ」


 受付にいた男性が、しずしずと頭を下げて応対してくれる。理逸も会釈を返し、進み出た。


「突然に失礼」

「構いませんよ。忙しい時間帯ではありませんので。それに《七つ道具》・三番がお越しになるのはなにかあってのことでしょう」

「いや、今日は部外者連れだし《七ツ道具》としてじゃない訪問でね」

「……楼主ろうしゅに取り次ぎか?」


 子ども時代からの顔見知りのため、立場を抜きにした途端に受付の男は敬語を抜いた。うなずくと、男は「待ってろ」と言い壁に拵えられた金の円筒状の伝令管を開き、そこに声を発した。

 ややあって、のぼってくるように告げられる。理逸は男に頭を下げ、エレベータに乗り込んだ。


「ほぼ、顔パスなのですね」

「週一くらいで出入りしてたからな。十年前からいるスタッフはだいたいが顔見知りだよ」

「なるほど。しかし、そのょうにぁなたが幼ぃころ絵本を読み聞かせしたのなら、その相手もぃまはスタッフとして働ぃてぃるのでしょぅか?」

「いまは、もなにもずっと働いてるよ」

「?」


 不思議そうな顔をするスミレだが、答える前に答えが目前に迫っていたため理逸は口を閉じ正面を向く。

 ちらりと横を見ると、この建物に入ってからこっち、ずっと無言になっている欣怡と目が合った。顔が硬い。相当、会いたくないらしい。

 やがてエレベータの箱が密封状態から開放される。


 途端──漂う・・


 理逸は「あ」とぼやいた。注意するのを失念していたのだ。

 その一室に居るのはこの楼閣の主・李娜である。

 彼女は同時に、この場における最上位の娼婦でもある。

 その理由が──部屋のなかには、満ち満ちていた。

 もったりと肺腑を犯す、苦味と酸味と辛味と鹹味を濾して排して煮詰めたような、どす黒く濃厚にえた香気……、


「ぅ」

「悪い、言い忘れた! しばらく呼吸浅くしろ。なるべく酸素薄くしてもの考えるな。いいな」


 うめくスミレに忠告を放つが、少し遅かったらしい。

 口許を手で押さえている彼女の肌は、陽光をほどよく含んだあの小麦の色に、わずかに朱が差している。

 前かがみ気味になった姿勢で露わになったうなじにはじわじわと汗がにじみ、足は内腿を気にしたようにぴっちりと膝を閉じている。


「……悪い」


 少女らしからぬ様子を出してしまっていたスミレから、気まずさを覚えた理逸は目を逸らした。欣怡はというと、李娜について知っていたのか呼吸を浅くしておりあまり漂う芳香・・・・を気にしていない。というよりもっと別のことを気にして、効いていないというべきか。

 ともあれ。


 爛れた甘き芳香の主にして部屋の主である彼女……李娜が。薄暗がりの広い部屋の最奥、天蓋付きのベッドに腰掛け、後ろ手をついて顎を軽く上向けていた。長くくるぶしまで届く緑の黒髪が流れ落ち、総身に張り付いて婀娜あだのなんたるかを示している。

 彼女はほとんど裸身に近く、闇色の染色を施された薄絹のベビードールだけを羽織っている。すべやかな谷間からの起伏がその布地を押し上げていて、細いシルエットをとらえづらく、かき抱いて輪郭を確かめたくなるような、そんな印象を生み出していた。

 広がった裾に覆われた腰から下、白く淡くあまりにも非人間的な、白磁じみた足が伸びる。

 ベッドの足元には、大きさ九センチほどの、口だけが広いちいさなカップらしきものが一組双つ、ぽつんと置かれていた。


 その上でゆらりと、

 彼女が足先を揺らす。

 脚を、

 組み替える。

 そこからの香気・・・・・・・が、部屋を覆いつくす。


「李娜、靴を履いてくれませんか。どうか、お願いします」


 理逸が懇願すると、彼女は上品に口許を手で隠し、声というより銀鈴を奏でるような音を発した。

 世にも妖しく、笑っていた。滾々こんこんという音で、静かに湧く笑い声だった。


「ごめんなさいね、きみがあんまりにも無防備に女の子をふたりも連れてきたものですから、ついつい意地悪したくなってしまったのよ」


 言いつつ、彼女は先の足元にあったちいさな、華美なまでに装飾施されたカップにつま先を下ろしていく。

 全長にして三寸九センチほどのそこに、足を収めていく。

 ……それは細くしなやかで、病的な脚だった。

 骨が浮くほどではないが、壊れ物のように張り詰めている。

 脹脛ふくらはぎの肉付きなど、幼子のそれのように頼りなく。

 足首から先は────ぎゅうと四指がねじれ束ねられるような、親指を頂点とした、小さなかたちへと圧縮されている。

 その足先が豪奢な布で出来た三寸のカップ──纏足用の靴だ──へすべて収まると、部屋に漂っていた香気が薄れた。あそこから匂いは発せられていたのだと、スミレも理解した表情だった。


 李娜は、微笑みを露わにして手をベッドサイドへ伸ばした。顔はその方向を向いておらず、手で探り、丸く脚の長いテーブルの上にあった桃をつかみ取る。口許へと近づけ、しゃぶりと果肉を食んだ。

 この時代においては非常に高価である生の果物を無造作に平らげ、けれどまるで味を感じなかったように無表情に、視線をやることもなく、種を放り捨てる。びちゃりと床のタイルを濡らした。ここまできて、スミレは桃と、李娜の足先とを見比べた。

 香りが似ていることに、気づいたらしい。そう、李娜の放つ香気は常食する桃の成分によるところも大きく、それゆえ彼女は桃娘タオニャンと呼ばれていた。

 また、李娜の方もその推察に感づいた。


「利発そうな子ね。エレベータの到着したときの軋みと、匂いからして……背丈はきみより三十センチは低いでしょう。年は十二、三歳かしら」


 すん、と鼻を鳴らす。

 見事にカールして伸びた潤む睫毛の下、とろんと開かれた両の眼は、焦点が合っていない。


「若い女の子が好みだったの? 『私の語り部さん』」

「そんなわけないでしょ、こいつについてはあなたも噂では聞いてるはず……こいつは、俺の仕事仲間になった、スミレという奴です」

「あぁ、あなたがそうなの」


 李娜は言うが、顔も目も動かさない。耳鼻だけでスミレを捉えている。

 彼女の視力が失われていると気づき、スミレは理解したようだった。理逸の読み聞かせとは、この世渡妓楼閣に関係する幼子相手のものではなく。この楼閣の主である李娜相手のものだったのだ、と。

 次いで李娜の耳鼻は、同行者をとらえる。


「あら。そちらにいらっしゃるのは……」


 話題にあげられて、欣怡はびくっとする。その様も当然見えてはいない李娜は、なんの気なしにという風につづける。


「当店に体入おためしで来てすぐ逃げたコじゃなかったかしら。たしかお名前は、楊欣怡」

「…………どーも……」

「いつ以来でしょう? ご活躍のお噂はかねがね。とでも言っておくべきかしら?」


 いかにも気まずそうな声を出す欣怡に対して、李娜はまったく変わらない調子で話をつづける。桃でべたついた手をそばにあった手水鉢で洗いぬぐって、ベッドへ腰かけたままでうながしてきた。


「それで、なんでしょう? 不思議な三人組でのご用件をうかがおうかしら」

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