Worth working (7)
スミレの機構の調律に必要だというツール──細長い、二又に別れた水晶のような道具だ──をくわえて戻ってきた織架は、両手に持ったマグカップのあいだにぐぐぐと力入れて挟み込むようにしてもうひとつのマグカップ、計三つを運んでいた。
湯気立つそこにはおそらく彼のいうタンポポ珈琲が入っており、香ばしく落ち着く匂いを周囲にふんわり放っている。
「待たせたなっ。一杯飲んでおけ、そのあいだに終わるって話したしね」
「これがタンポポ珈琲……でしょぅか」
マグカップを受け取り、スミレは怪訝な顔だった。そんな彼女にからから笑って、織架は手の内にどこからともなく黄色の色彩をあふれさせる。
花だ。
織架はこの一輪を人差し指と親指でつまみ、風にそよそよと当てた。
「かつてはアスファルトにもざんざか、生えてたらしいがね。土壌汚染ですっかり見なくなって三十年だとさ」
「花……本物の、花ですか?」
スミレがマグカップを手にしたまま身を乗り出す。
細い黄色の花弁を幾筋も幾十筋も広げて、そよそよと茎の先で揺れている。
香りはよくわからない。珈琲と、煙草の残り香のせいか。
しかし潤いと生気を帯びてそこに伸びる一輪は、鮮烈に場を、咲かせていた。
「趣味で育ててんだよ、こいつ」
何度見てもちょっと心を奪われるので、それが悔しくて理逸はぶっきらぼうに言った。そのあたりも承知している織架は余計にからから笑う。
「『まともな土なんてこんな趣味に使うもんじゃないっ』、とはよく言われるけどね。スミレちゃんも初めてかい? 見るの」
「ぇえ。この花の根茎を寸断して炒めたもので、先の珈琲をつくってぃるとは存じてぉりますが」
実物見た経験もないくせに、よくこんなマイナーな代用珈琲の製法を知ってるな……と理逸は驚きを通り越した呆れと共に思った。
スミレはずず、とマグカップからひとくちすすり、落ち着いてから言う。
「けれど、花の色とは。こぅまで、鮮ゃかで艶ゃかなのですね」
「花の名を女の子につける意味も、わかるってもんだろっ?」
たぶんこの男は誰もいない山の上で咲く花を見つけたときも、だれにともなく「美しい」と言うのだろう。
誰からもらった名かは知らないが、やはり花の名を持つスミレはこの織架の言葉に返さず、ただ視線を下げてずずずと珈琲を口に含んだ。織架も、別段スミレ宛てに言ったことではないのでそれ以上掘り下げることもない。
「花の名うんぬんはともかく、珈琲は相変わらず旨いな。まあ本物珈琲なんて飲んだことねぇけど」
「俺はあるよ。本物はもっと複雑で重厚、奥行きを感じる匂いだっ」
「へえ。奥行き」
「たとえるなら出汁だな」
「スープなのか?」
わかるようでわからなくなった。と、
スミレはこの様子を、マグカップ片手にじっと見ていた。
ややあって織架が眼鏡を外すと、合わせは終わったらしい。
「それほど大きな感覚のずれはなかったよっ。意外と機構を使用していないのかい?」
「必要に駆られなければ多用はぃたしません」
「そりゃ結構なことだ。よく
「やけつき?」
「頻繁に機構を使う運用者に現れる身体特徴だっ。めったに見ないとは思うがね。とくによく使用する部位に向かってこう、葉脈状にからむ模様が走る。高頻度使用部位の微機の伝達を良くするため身体が通常と異なるルートをつくってしまうんだ。本人が微機に適合していってる証だね」
「こいつが
「ルートを
織架は理逸へ説明を重ねる。
《焼け憑き》などという物騒な名前の通り、葉脈状に細かく走るルートを身体に構築するのはあまり好ましくないらしい。重要な神経系に接して道を通してしまうこともあり、そうなると神経系への感覚拡大はやりやすくなるが身体の負担が増大する。
最終的にはまともな外科手術では到底対処できないほど不可逆なダメージで微機の扱いはおろか、拡大させられた感覚のみが体に
「まぁ調律しないで長期間経過すれば必ず出る《感覚酔い》とちがって、短時間に過度な使用をせず使用後は安静にしてクールタイムをとれば大丈夫さっ」
「そう聞くと安心するな」
「心配だったのかい?」
「俺のアシストやらされたせいで体調崩したとか言われたら、寝ざめが悪ぃだろ」
「でしたらァシストなど必要なぃよぅな動きをご自身で実現されては」
しれっと投げ返してくるスミレをにらみつけながら、理逸はタンポポ珈琲を飲んだ。織架はなにが楽しいのか、からから笑ってそんな理逸たちを見ていた。
「ま、過度な
「限界っても、無茶な運用しなければそうそうならねぇだろ?」
「
「そういやそうか……いやアイツはそうそうしないような無茶な運用の筆頭だろ。機構のチューンをカリッカリにすることに生きがい見出してるバカだぞ」
「あのときはコスト無視で模倣にすべて注ぎ込んで体が耐えきれなかったんだったかー?」
「もうちょっとで神経焼ききれるとこだったって聞いたぞ俺」
《七ツ道具》で倉庫番を預かる羽籠宮という女も織架と同じく機構運用者にして機構調律師で、しかし彼女の場合「いかに機構使用の限界に迫れるか」に挑戦する気質がためにたびたび無茶をしている。
次に無茶したら五感満足の保証はできない、と織架に言われたところで「やけどしない火遊び、二日酔いにならない酒、後ろから刺されない恋愛。そんなの生きてる意味ある?」と性根の曲がった発言をしたので全員説得をあきらめているのであった。
そんなのと扱いを同列に並べられて、スミレは眉根を寄せていた。
「さすがにそのょうな方と一緒にされるのは、ゎたしとしても不服です」
「だってよ」
「まぁ、平穏に使ってくれるのならそれが一番だっ」
どこまで信頼できるかもわからない初見の相手に身をゆだねて記憶飛ばす実験を敢行した奴が言うのも皮肉だったが、理逸は気のない声で「そうだな」とだけ返しておいた。
#
じりじりと暑さの増す日中、三頭会議は南古野の中心近くに建つホテルにて行われる。
ほかの多くのビルを見下ろす高度のそこは、ちょうど三組織が根城にする「電波塔跡地」「歓楽街」「港湾」の各アジトから等距離にあたる位置のため選ばれていた。
災害後の半世紀を乗り越えていまだに屹立するビルディングというのはさすがに高級な客層を招いていたがため必要とされた強度があるのだな、と思わされる。回転扉の向こうに抜けると静かなロビーのなか、各組織の構成員が固まってぼそぼそと雑談し煙草に火をつけ、理逸たちに目を向けてくる。
スミレそしてほかの七ツ道具と共に深々に伴われて降り立ったそこは、戦場だ。気化したアルコールが充満しているかのようなヒリついた感覚に鼻の奥がきな臭い。
何度来ても慣れることはない。水泥棒を《
「よう。円藤君」
ロビーの隅にあるソファにどかっと構えていた影が、煙草をつまんでいた右手を掲げる。
ばさばさの茶髪をハーフアップにしており、へらへらした顔のなか光の無い目だけが笑っていない男。右眉から右耳中央までを傷痕で抉られており、これで人相がひどく悪いせいもあってかジャケットの類に正装の色はまるで感じられない。
「どうも。お早い御着きで、って感じだな」
一応、笹倉組の構成員からすれば理逸は他組織の幹部格ということになる。とはいえ安東よりも一回り年の離れた理逸がタメ口で自分のところの上役へ接するのは見ていて苛立つらしく、周囲を囲んでいた部下たちが殺気立った目をした。
これを鷹揚に両腕広げて制しながら、安東は顔だけの笑みを崩さず答える。
「俺らっトコの稼業は時間厳守とこまめな連絡がものを言うからよ」
「……たしかに、あんたが時間ぶっち切ったとこは見たことないな。俺と飯食う程度の約束でも一分たりとも遅れねえ」
「おいおい、オマエと飯食うのは他組織の人間との折衝だからかなり優先順位高いんだぜ? そこんトコの俺の配慮ってモンを、もう少し大事にしてほしいね円藤君」
「なるほど。じゃあ他組織というなら、たとえば《沟》の人間と俺の約束が重なって天秤にかかったらどうするんだよ」
「有り得ない仮定の話はする意味がねぇよね。約束ダブらせて右往左往するような奴が《
「……失礼したな」
「いいさ。貸しひとつってことにしといてやろう」
そうした貸し借りの負債をきっちりするためにこそこの男は時間厳守で利害の差し引き・利害の駆け引きを常に強いてくるのだが。いま突いたところでしょうがない。
深々は言い負けたかたちになってしまった理逸のふくらはぎを後ろから爪先で蹴ってきた。正確に痛みの強い部位を蹴ったあたり、ご立腹らしい。
けれどそれ以上のやり取りはない。こんなのも軽口未満のものでしかなく、これ以上の口は御互いに叩けない。なにせ安全組合が《七ツ道具》を揃えているように、各組織も幹部を集めている。下手に喧嘩を売るなどはできないのだ。
現に、安東の周りの席にもそれぞれ、彼と同じ立場の者が居た。
笹倉組の《四天王》は彼らの組長が選んだ逸材が揃っている。理逸たち《七ツ道具》よりも頭数こそ少ないが、入れ替わりがほとんどない――つまりそれだけの腕を誇る連中が選ばれている。
一番の巨漢であり天井に擦るような背丈の男は、「どこにも閉じ込められない」という触れ込みの怪力無双・西園寺。
初カチコミの際に「得物を手放したら死ぬ」と思い込んだせいか以後刀が手から離れない(いまも抜き身でぶら下げてる)という南。
経理や他所との折衝が基本だが、毒に関するプライアを宿しているらしく抗争では真っ先に出てくる中川。
そして曲者揃いのこのメンツをまとめ上げているのが――
「火」
か細く掠れた、声音の主。
だがこのたった一言だけで周囲の全員、安東ら《四天王》から理逸たち《七ツ道具》はもちろんフロアにいたほかの連中まで。
すべてが押し黙るしかない、そのような恐怖を宿す声。あとほんのわずかでも彼が声に感情を込めれば周りのすべては恐慌状態に陥ったかもしれない、器の縁ぎりぎりまでを手の内にした存在感。
笹倉組組長、
彼は一番奥に居た。
安東たち身内の構成員にも背を向けて、一人掛けのソファに控えていた。
後ろ姿だけでも、声から受ける印象通りの男だ。線が細く、背広に体のラインが出ない。オールバックにしているのだろう髪のまとまりが後ろまで綺麗に流れており、細いうなじにはまばらに襟足がかかっている。
肘掛の上で横に伸ばされた右手。病身ではないかと疑うほどにこの手首もまた細く、骨ばった指の先で挟まれた煙草が揺れている。
中川が急いで近づきマッチを擦った。
安東に前聞いた話だが、笹倉はライターの火を好まない。加えて日に二、三本しか煙草を吸わず、吸わない日さえあるという。だからといって彼ら極道の場において、目上の人間に自前で煙草の火をつけさせるなど目下の者がいるときにあってはならないことだ。
しかし誰も、彼の所作には気づけないのだ。
「……そろそろ時間かぁ。上行くぞ」
短く紫煙を吐いて立ち上がり、二度しか口をつけなかった煙草を指で弾いて無造作に捨てる。歩き出して、理逸たちのそばを通る。
歩み、一挙一動が幽鬼のようにつかみどころがない。この前触れのなさと人の意識の間で動く所作のため、誰もが彼の動きに――煙草を取り出すことさえ――気づけない。
生気のない顔をした、四十がらみの男だった。皺は少ないが深い。眉はほとんどない。
胸を張って歩くことはなく力の抜けた立ち姿をしている。背広のなかに着るシャツはサイズが合わせてあるのかスマートな体形に沿ったもので、それは大きめの背広との間に設けた隙へ得物を忍ばせるためのものだった。左腋に固定された拳銃のケースが見える。
通り過ぎざまに深々と視線と言葉を交わす。スミレを一瞥していた。
「子どもが増えたか、
「私の子じゃない」
「組織に入れたならお前の子だ」
片手を振りつつ去っていく。安東たち《四天王》もその後ろを粛々とついていき、エレベーターが閉じた。
深々はあまり笹倉と相性が良くない。いまの言葉も端的に、深々の内面を抉るものだったため相当いらついている。
《七ツ道具》の面々はそんな彼女の気をまぎらわそうと様々に話を振ったり飴を出したりした。けれど深々はあまり聞いている素振りがなく、自分の煙草を胸ポケットから取り出すと火をつけた。
『……遅れたか?』
忠華の言語で言いつつ、外からフロアに入ってくる者がある。
左の腰に魔除けの
服装はスーツにベスト、革靴も内羽根で一切の遊びが無いなかで余計に腰のものが目立っている。
精悍な顔立ちだ。頬骨とあご骨の間でピンと張られたマスト、という印象の頬は引き結ばれた唇と相まって必要以上に硬い印象を与える。刈り上げた白髪交じりの髪も無骨さに拍車をかけていた。
その彼の横に、もう一人外から現れる。こちらは理逸には見慣れた相手、隣室に住む
さすがにいまは互いに、顔見知りという態度をとらない。その辺りは安東との大きなちがいだ。まあ安東の場合は、こうした接し方の変わらなさですらいくつもある彼流の、他者をからめとっての情報の抜き出し・情報の誤認発生といったものを引き起こす手管のひとつだろうが。
『遅れてはいないはずだ、
その後ろからやってきた声に、辰と呼ばれた長身の男は振り返り、うやうやしく頭を下げた。欣怡も常のふざけた態度はなく応じている。
頭部にわずか残った毛髪を除いては
スタンドカラーの緋色のシャツに黒い拳法着のボトムスを穿き、底が薄く平たいシューズで爪先を覆っている。シャツからボトムスの境目あたりは突き出た腹部は目立ち、けれど歩き方は膝から下を滑らせるような確りとしたもので頭の上の毛すら揺れない。
背丈は高くはなく、理逸や深々と同程度だろうか。が、引き寄せ引き付ける気魄がある。先の笹倉の、ちょうど真逆だろうか。
沟の
先の辰と呼ばれたのは元・
つづいて欣怡の後ろには九人の精鋭が並ぶ。彼らもまた、《四天王》や《七ツ道具》同様に組織の頭である周に選ばれた幹部、《
港湾を支配する華僑の元締めである彼らが南古野の中心部へやってくることはめったにない。彼らは礼を大事にし礼に尽くすが、裏を返せばそうすべきでないときにはなにもしないからだ。
『行こう。あの
『はっ……』
そして彼らと笹倉もまた、相性が悪い。
彼らは自身を白道と呼び、笹倉たちを黑道と呼ぶ。そこにはおそらく外部からでは計り知れない繊細なニュアンスでの差別化と矜持が含まれており、黒い社会で生きる彼らなりのやり方の違いというものが現れている。
ぞろぞろと上層階へ向かう彼ら沟の連中にエレベーターを譲り──というより、深々が吸い始めた煙草が燃え尽きるのを待っていた──たっぷり三分ほどして、理逸たちはやっと動き出した。
深々は胸元から引き出した銀筒の携帯灰皿に吸殻を詰め込むと、不愉快そうに潰れた右目を左手で撫でて一歩を踏み出す。
「行くぞ」
そこに首魁としての彼女の覚悟を感じ取り、理逸たちは黙って後ろに付き従った。
三十五階までの往路は、非常に長く感じられた。
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