Wandering wag (6)


 警備が不要になったこともあり、その日は威風堂を辞して。

 翌日の夕刻。

 夜を迎えようとしている南古野は昼より人の行き来が増える。

 日中に歩き回るのは水分の浪費と言えるし、住人の多くが属す低所得層は日が落ちるまでをプラントの労働に費やしていることが多いからだ。

 ちなみにさらに所得が落ちる層は下水漁り、先のハシモトなる少年のように地下街巡り、あるいは廃墟の巡回による危険個所確認(数日に一人は崩落に巻き込まれて死ぬ)、南古野住人の所在調査(数日に一人は乱闘に巻き込まれて死ぬ)といった日陰仕事に従事するので、やはり昼間に姿を見ることはない。


 日が沈み、遠くのビルの谷間へ落ち、空が橙から群青に滲んでいくのを見据えて。

 ほんの少しだけぬるくなった空気の揺らぎを感じながら、理逸は立ち上がり、両手を組んで大きく伸びをした。背筋が軋む。膝からぱきりと音がする。


「そのょうところで大きく動くと、ぁぶなぃですよ」


 背後からスミレがめんどくさそうに声をかけてくる。


「まあ、そうだな。俺じゃあ落ちたら無事では済まない。気ぃつけるよ」


 あの影男──訊いたら於久斗おくとという名前だった──とはちがう。

 こんな、地上四階の屋上から着地すれば良くて足、悪ければ骨盤や腰椎脊椎を痛めて再起不能だ。

 とはいえ街路の様子を確かめておきたかったので、理逸は屋上の縁に立っていた。

 ぬるい風が吹き上がってくる眼下、細い通りには他にも私娼の店があるらしく客引きが椅子を出してきてそこに腰かけている。時折通りかかるプラント帰りの男どもに、寄っていかないかと声をかける。つれなくされれば悪態をつく。

 きちんとした店舗を構えていないこうした土地ではありきたりの光景だ。この時間、出歩くのはほとんどが商売の女である。


「んん……あ、来たか」


 通りを、すたかたと歩く女がいる。

 待ちかねていた女はまっすぐに理逸たちの居るビルに向かってきた。階下よりかつかつと階段をのぼってくる音がする。

 ややあって、重く扉が開く音が聞こえ……理逸たちの足元、喫茶室威風堂に彼女は収まった。


「スミレ」

「もぅ聞ぃてますので黙ってくださぃ」


 振り向いてなにか言うまでもなく、スミレはすでに拡張済みブーステッドだった。薄闇の向こうでぼんやりと青の光を目に宿し、両掌は軽く指先を曲げて耳の横に添えている。

 聴覚を機能拡張しているらしい。大抵の機構運用者デバイスドライバは五感のどれか、多くて二つに特化するがスミレの機構はやはり統率型拡張機構ハイ=エンデバイスということもあってか多彩だ。

 いまも余分な音、周波数はカットして階下の──尾道と、入っていった女との会話に耳を澄ましている。逆に言うとその気になれば人間の通常可聴域を多少外れた音すら聞こえるらしい。

 しばらくの間、スミレは聴覚に集中してじっと身を縮こまらせていた。

 やがて口を開く。


「……話をしてぃますね。契約、条件、説明……前金について」

「返済条件は」

「ぃま話してぃて…………終ゎりました。条件につぃては、ゃはり返すとき売上から差し引く以上のことを話してぃません」

「決まりだな」


 契約条件の説明不備と権利侵害だ。

 理逸は両手にハーフフィンガーグローブを嵌め、髪をかき上げ喉元に提げていたゴーグルをかけた。闇にまぎれるハイネックの黒シャツの七分袖を均し、カーゴパンツから伸びた足には地下足袋を履いている。

 水泥棒に赴くときの恰好で、彼はスミレから目を切る。また屋上の縁に立った。


「……? なにを、してぃるのですか。早く行かなぃと」

「だから、早く行くためだろ」


 手首を回して準備を済ませ、

 理逸はトン、

 と空中に踏み出す。同時にくるんと半回転した。


「っ、ゎぁああ!!」


 出会ってからはじめて、スミレのびっくりした声を聴いた。あわててこちらに駆け寄ろうとした彼女がどんどん視界のなかで上昇していく、否、己が落下している。

 その中途で理逸は両拳を握り、視界上方にあった壁面のボルトに己を『引き寄せ』た。

 真下への引力と、理逸のプライアによる横方向への引力が同時に作用する。

 結果、斜め下方向への鋭いランディングで理逸は窓を塞いでいたベニヤを蹴り砕く。


「なんっ、だぁ?!」


 降り立つと、振り向いた尾道が驚愕に目を見開いていた。その向こう、理逸が手配した女が仕事の終了を悟りそそくさと帰り支度をはじめている。

 探りを入れるべく演技してもらうため雇った彼女に、軽く片手を挙げて応じつつ。理逸はカウンター席に腰かける尾道ににじり寄った。

 室内はさすがに夜半になったため、昨日とは異なり間接照明がそこかしこで点いている。


「お取込み中に失礼しますよ。もっとも、その子との話はこれで終わりなんですが」

「きみは……円藤さん? おいおい、なんだねこの狼藉は」

「狼藉はおたがいさまでしょう、尾道さん。安全組合ウチの管轄で、グレーな商売をやってもらっちゃ困る」


 ローテーブルに投げ出されていた書類に向けて、理逸は拳を握った。風になびきながら引き寄せられた紙をキャッチし、理逸は一瞥する。


「前金の返済について。売上のなかから経費を差し引いて18%しか返済が成されないことについては説明してたようですが、それ以外の支払い方法を受け付けないとの旨を説明していない」

「……それはむしろ、『書いていない』ことによって成立しているはずでしょう? 円藤さん、まさかあなたありとあらゆる事態を想定して契約条項を書けと言うおつもりですかな。しまいにゃ『客を殺してはならない』とかまで書かねばならなくなりますよ」

「もちろん常識的な範囲というのはあるでしょう。しかし、あなたの契約書は『拘束時間が長い』。……俺への依頼同様にね」


 というよりも、嬢の常駐時間に合わせて理逸に依頼をかけたのだろうが。

 ゴーグル越しのため目線を読みにくいのか、あさっての方に視線を散らしながら尾道は問いを返してくる。


「それが、なんだとおっしゃるのですか?」

「この拘束時間じゃ、ほかの仕事はできない。といって拘束時間中に客が来るかは運だ。つまり経済基盤がまっとうに安定せず、自由が侵害されている」


 言い聞かせるように、理逸は言った。


「最初から逃がすつもりのない契約だ。これは無効に、させてもらう」

「……はぁ。どうも、取りつく島がなさそうですね……もう少しやっていけるかと思っていたがね。引き時か」


 ここまで追い込まれては食い下がるよりさっさと再起に移る方が得策と思ったのだろう。意外にすんなりと引き下がり、両手を軽く掲げてからカウンターに背と肘をもたせかけた。

 手慰みとしてマッチ箱を指先にもてあそびながら、尾道は言う。


「あんまりにもあの男が、返済のことでうるさかったのでね。呼び出して突き落としてあんたと戦わせ、安全組合に楯突いた事実で以てこの周辺を出回れないようにするつもりだった」

「薊を置いていたのは呼び出す口実、餌としてか」

「そうそう。薊の奴も、結局は契約を結んだ自分が悪いと思って私に逆らいはしなかったからね……あとは於久斗の奴があんたを倒して逃げていれば、すべて好調だったんだがね。予想外にあんたが凌いでしまったものだから困ったよ」


 尾道は笑う。

 この男は理逸が負けると踏んで──要は自分を被害者と演出するための目撃者・証人として理逸を雇ったのだ。

《七ツ道具》という死線くぐる業務についている身としては、められていた事実にかちんとくるところはある。しかし実際……


「急に飛びぉりるよぅな真似されたら、びっくりするでしょぅ!」


 ……そう、このスミレがいなければ負けなかったとしても勝てはしなかった。

 やっと追いつき、ちゃんと入口ドアから入ってきた彼女を見据えながら理逸はそう思った。尾道もスミレを見て、目を細め、けれど今回は侮るような響きも無く「嬢ちゃん」と呼ぶ。


「嬢ちゃんが、読み切ったのか? それとも単に、於久斗が弱音ごと顛末を漏らしたのを信じただけか?」


 昨日見せた帰り際の推理を思ってか、どうやら尾道はスミレが今回の一件を解法へ導いたと判じているらしい。

 事実そうなのだが、スミレは誇るでも驕るでもなく当然という顔で答える。


「すべては、推論と確認の積み重ねです」

「そりゃすごい。大したものだ」

「ことの大筋は、ここでリィチとオクトが戦いになった瞬間に読めてぉりましたので」

「それはさすがにフカシじゃないかね?」「だから俺を名で呼ぶな」


 二人同時の指摘を無視し、スミレは半目でぼやく。

 視線は間接照明と、それによって揺れる理逸たちの影を辿っていた。


「だってぁの影の防御能力がぁれば、強引に押し切ることもその場で居直ることも可能でしょぅ? けれどそのょうにせず彼は逃げた。窓を破って、無理ゃりに。その理由は? ……影を操る能力だからこそ、『光源がぁる』のが発動条件だと気づきました」


 この喫茶室内は、いまでこそ照明が灯されているものの昨日は明かりをつけず暗かった。

 於久斗の影のプライアを発動されないよう、自分に有利な環境として尾道が構築したのだ。ゆえに、なんらかの形で脅された於久斗は早く光源を手に入れるため窓を割って飛び逃げるしかなかった。


「この時点で、雇い主にたくらみがぁるのだろぅと思ぃました。オクトに対する、なんらかのたくらみが。そぅして実際に話を聞ぃてみれば、ぁのときもぉ伝えした通り怪しぃ言動が多かった」

「あいつの話を信じ込まれたら、その時点でどうにもならないのでね。あんたらと会話せずに於久斗の奴が逃げ切っていれば、それで済んだんだが……。ま、悪あがきとして粘ってみただけだ。怪しい言動だったとしても」

「言動以外でも怪しぃ点がひとつ。千変艸ヴァリアブルウィードの煙草、普段は吸ゎなぃのですか」

「……、」


 虚を衝かれたという顔で、尾道の半笑いにわずかな淀みがあった。


「吸ゎなぃでしょぅね、指先にヤニもなく歯に着色もなぃですから。ではなぜぁのときは直前まで、吸ってぃた形跡がぁったのか。とっさの臭い消しでしょぅ?」


 スミレが、昨日も撫でていた室内に立つ柱を指で撫でる。

 指先に黒い粒子が付着していた。はた目には柱も黒いため、薄暗さもあってよくわからないが。どうやら焦げている。


「かなりの高温で焦げてぃます。しかし室内にそのょうな高火力を出す物はなさそぅですし、光源を与えてはならなぃオクトを相手に光源になりぅる火はそもそも使ゎなぃはず。加えてここは高さ的に、ぁなたが手を置くに易ぃ箇所。最後に、ぁなたが臭い消しをしてぃた理由を考ぇると」

「参ったな」


 めき、みし、と尾道の左手のなかから音が発せられる。

 マッチ箱を握りつぶし、表情がひび割れていた。

 刈上げてあるためよく見える額に皺を寄せ、尾道はカウンター席から立ちあがった。右手に、カウンターの裏から取り出したらしい延べ打ちのナイフを握っている。理逸はすぐさまスミレと尾道との直線上に身体を割り込ませた。


「いやなに、あのときもだね。於久斗の奴を脅すつもりでコイツを取り出したのみで……《遣う》つもりはなかった。だがあの男、ナイフに怖気づくことなく近づいてこようとしたものでね。退いたときついうっかり、転びそうになり片手で柱をつかんでしまって……あいつは焦っていたからか気づかなかったようだが」


 みし、めり、と左手のうちで音がつづいて──ぶす、と黒煙が上がった。

 着火。

 ごうと燃え上がるマッチの屑を、尾道は目くらましとして投げつけてきた。

 理逸は即座に前に出る。ゴーグルはこういうときの目の保護のためにかけている。

 同時に投げつけられたナイフをグローブ嵌める手で弾き落とし、さらに詰めようとする。尾道はするすると奥に後ずさるところで、にいと醜悪な笑みを見せると理逸に向かって言った。


「俺もこういう奴・・・・・だとバレた以上、もうここには居られないね」


 かたわらにあった酒瓶をつかみ投げてくる。

 身を開いてかわすと、理逸の後ろで低く音を立て爆ぜた。背後から、青く燃えるアルコールが飛び散っている。

 おそらくは触れた物体に高熱を伝える能力。ナイフを弾き落とした掌にひりつく痛みを覚えながら、理逸はそう判断した。


「……未届の能力保有者プライアホルダー


 グレーな契約よりなお重く深い罰を課される罪状を述べつつ、理逸は相対した。


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