Wandering wag (4)
幸いにも影男は死んでいなかったので、理逸は落ちていたぼろ布で顔だけ拭いてやると両手を後ろに回し、いつも持ち歩いている結束バンドで親指同士を巻き結んだ。足首も同様に結ぶ。
そのうち気を失った男も顔立ちが穏やかになってきた。ようやく彼の姿をしかと確認する。
服装は上下とも、すえた臭いのする色濃いデニムの作業着に身を包んでおり、体型は「その体重で付けられる筋肉量の、ある種の限界」……という感じがする。
襟元や袖元には垢汚れがこびりついて、分厚く硬くなった手指がすぐ目につく。典型的なこの街の労働者だ。おそらくは生産活動プラントで日雇いの業務を請け負っている。
いつ切ったともしれない伸び放題の頭髪の下で、細面な男は薄い無精ひげに覆われた口許を不快そうに微動させていた。二〇代そこそこ、といったところか。背格好は理逸と大差ない。
「まあ、殺してなくてよかった」
「殺すと、めんどぅになりますか」
殺すことそのものの是非ではなく、それが波及する事柄があるのかについて尋ねるスミレだった。
「それもあるが、単に俺がやりたくねえ」
「そぅですか。でしたら、極力そぅならなぃ方法を考ぇるょうにします」
それきり黙ってしゃがみこむと男の恰好を検めている。
理逸はため息をつき、横で腰をかがめた。
「とはいえ、助かった。倒す方法を教えてくれて感謝するよ」
「ぁなたがゃられるとゎたしの身も危ぅいので。そんなことょり彼が何者で今後どぅするかを、上にぃる依頼人と協議した方がょいのでは」
「……それは、そうだな」
感謝の言葉をサラっと流されるのでなんとも噛み合わない感を覚えつつ、理逸は四階の威風堂を見上げる。
割られた窓からは人影がこちらを見下ろしていたが、天高くからじりじりと理逸たちを焦がす日射のせいで顔は暗く、はっきりとは見えない。
「う……」
と、そこで低いうめき声が聞こえた。理逸は視線を正面に戻す。
「ようやくお目覚めか」
「……、」
まだ口の中に吐瀉物が残っているらしく、もごもごしてぺっと吐き出した。険しい顔つきで理逸とスミレを見る。
「安全組合・《七ツ道具》三番の円藤だ。こう名乗れば、なんで自分が倒されたかはわかるな」
「……喫茶室の奴が、呼んだわけだ」
「あんたに迷惑してるって話だったんでね。痛い目見て少しは懲りたか」
転がっている男の胸の上に足を載せ、じわりと体重かけるように踏みつける。
男はまた、影を全身へ滲ませようとした。
「強力な防御能力だな、便利そうだ。またあんたがそのプライアを使うのは自由だが、そのつもりなら手足の拘束は解かない」
「……、」
「ここは日当たり良好だ。明日までほったらかして干物になるのを待つことになる」
脅しのつもりでさらに足に体重をかける。胸骨が軋み、ごほっと男は咳き込んだ。
けれど視線を外して、沈黙をつづける。
そのままの様子が数秒つづいて、理逸はコレはダメだなと判断した。典型的な、自分を曲げないタイプの態度だ。圧力をかけてもなお頑なになるだけだろう。
「……まあいい。そのつもりならそこに居ろ。行くぞスミレ」
とりあえず影男をビルへの入り口階段脇に転がしておき、理逸はスミレを手招いて階段をのぼり始めた。
四階は幾何学模様の記された分厚いドアの扉が待ち受けており、二人はドアノブをひねって中へ入る。日差しの入らない暗い室内は、わずかに外よりはマシな気温だ。
室内には紫煙の気配があった。ただ、独特なきな臭さと焦げ臭さからして深々が好んで
喫茶室は細長いつくりで、右手方面にカウンター席が長く伸びる。左手側がさっき人影ののぞいていた窓の方で、そちらを見やるとちりとりと箒で割られた窓を掃除している人物が居た。
「失礼。ここの方ですか」
理逸が尋ねると振り返る。年の頃は先の男よりひと回り上と見えて、三〇代か。客商売であるためかこぎれいにまとめた服装で、袖をまくったシャツにネクタイを締めた小男だった。
「はい。ここで斡旋業をしてます、
「いまは三番を預かっている円藤です。安全組合を通じて仲裁の依頼を受けましたので、こちらに参りました」
「ありがとうございます、お待ちしておりました。そして、戦いぶりも拝見させていただきましたよ」
にこやかな尾道は窓の方を指さす。理逸はなんとも反応しづらく、頭を掻く。
これは一人ならば逃がしていただろうとの思いからで、所在ない気持ちになってチラとスミレの方を見る。彼女は「なんです」と怪訝な顔をした。
「なんでもねぇ。とりあえず、ついて来て話だけ聞いとけ」
「そぅさせてもらぃます」
「ささ、こちらへ。狭い喫茶室ですが」
掃除を終えたらしい尾道が席を勧めてきたのでボックス席へ腰かけ、向かいのカウンター席に座る彼と対面することになった。
パラフィン紙に包んだ煙草も勧められたが、理逸は嗜まないので遠慮しておいた。煙草の手を引っ込めながら、尾道は理逸の隣に居るスミレへあらためて目をやる。
「ところで、そちらのお嬢さんは? ……ウチで置いてもらいたい、とかでしょうか」
わずかに上から下へ視線を動かしただけだが、売り物としての価値を素早く値踏みした様子だった。
実際、スミレは容姿が整っている。様々な流氓・難民がたどり着くこの南古野でもまず見ないタイプの異国情緒があり、はっきりした顔立ちと目元の美しさ、瞳の奥深さは年齢を逸したものがある。細く均整の取れた体つきも併せて、十分に客を取れる外見だとは思われた。
……が、機構運用者などという危険物をこうした場に預けるはずもない。理逸はかぶりを振って尾道の推測を受け流した。
「安全組合の新入りです。仕事について回っているだけなので、お気になさらず」
「スミレと言ぃます」
「組合の、でしたか。それはどうも。今後よろしくお願い致します」
さらっと名を名乗ったがそのときには視線を外しており、尾道はまったくスミレから興味を失ったようだった。
本題に入ろうと、理逸はローテーブルの上に少し身を乗り出す。
「それで、やはり奴が、件の厄介客ですか」
「ええ……先ほども、円藤さんがいらっしゃる直前に店に駆け込んできましてな。案の定話が決裂して、窓から飛び出しやがりまして……なにか言ってませんでしたか? こう、ウチの嬢を連れ出そうというようなことは」
「いえとくに会話はしていませんね。向こうに一切、話す気がないようで」
「左様ですか。なら、いいのですが。どうも若干錯乱の気があるようで、話すことも支離滅裂になってきてまして。奴の話はお耳に入れないようにしてもらえたら」
「薬でもヤってる様子はありましたか?」
「え?」
訊ねる理逸の脳内では先の男の体つきや目つき目の色、注射痕が無かったことなどを想起していた。
「あくまで俺が戦ってみての印象ですが、ヤク中には見えなかったので。錯乱というならそれらしい兆候があったのかなと」
「さあ……私は
「なるほど」
「まあ、ともかくも気味の悪い男です。
「お構いなく。慣れてます」
刈上げ頭に汗をかいて頭を低くする尾道に、理逸は片手を振って無表情無感情で応じた。
現在理解されている物理法則に反した現象を起こす能力保有者は、なにをしでかすかわからないということで一般人からは危険視されている。少なくとも微機による現象だと理解されている機構運用者よりも遥かに、だ。
だからこそ『能力者には能力者を』なのだ。──怪物同士で潰し合えという考えに近い。
しかし理逸自身、先の影男のようにまったく倒し方がわからないような脅威の能力者に遭遇したことは一度や二度ではない。個々の置かれた状況によって千差万別の発現を見せるプライアは、個人として直面するとその危険性が身に染みてわかる。
尾道らのような態度にもあまり強く
「ちなみに、彼が入れ込んでいたというスタッフの方は」
話を切り替えて訊ねると、尾道はうなずいて奥を見た。
「居ますよ。おぅい、あざみぃ」
呼ばれて奥のドアが開く。立っていたのは一〇代後半か二〇歳そこそこと見える、まだ少女と呼べそうな人物だ。
毛先のまとまらないセミロングの黒髪が広がっており、眉に勝ち気そうな印象がある。けれど『女』を感じさせるようなメイクが薄く施されているため、若さのわりに少女とは呼び難い。
喫茶室内でコトを済ませるわけではなく、連れ歩くことになるからか。華美ではなくあまり値の張らないと見える衣裳だった。それでも喉元から鎖骨、胸までを広く晒したシャツやところどころの振る舞いで、少し見れば商売の女だということはわかる。
「……
自分の仕事相手でないからか、愛想なくそれだけ告げた。
理逸は会釈して「円藤です」と返し、「依頼されてきたので、その厄介客の処遇について決めたい」と話した。
薊は尾道の横まで来たが、一席分空けて立ったままで応対した。
「はぁ……とりあえず、ここに近づかず私の前に顔出さないようにしてくれたらいいです」
「そうですか。ちなみにその際の手段は問わない?」
「……どういう意味」
「しつこいって話だったんでね。口頭で脅すだけだとまた来る恐れがあるので、ある程度痛めつけて脅しておきましょうか?」
「……いや、いい。あんまり血なまぐさいことすると、ここの評判に関わるし。ていうか仲裁人でしょ? そのあたりの空気感も読んで仕事してくださいよ」
「これは失礼しました」
「薊……ウチの元締めにあたる安全組合の方なのだし、あまりそういう態度は」
尾道が困った笑みを浮かべ、あせあせと薊に注文をつける。この尾道の言葉に薊がまるで反応しそうになかったので、理逸は素早く、ここでも「お構いなく」と挟むことになった。
「わかりました。では話は早くなりましたが、倒したあいつを回収してここに近づかないよう言い聞かせる。念のため安全組合の巡回でこの付近をルートに入れてもらう。こんなところでいいですかね?」
「ありがとうございます、助かります」
ひとまずの落着を見た。理逸はボックス席の椅子を引き、立ち上がる。
ところがその横に腰かけていたスミレはまだ座ったままだった。
どうしたのか、と怪訝に思っていると、口を開く。
「このぁと、ここにぉ客様が来る予定がぁったのですか?」
「いやとくに予約はないが……それがなにか? お嬢ちゃん」
尾道が堪えると、スミレは瞑目してつぶやく。
「ぃえとくには。ぁりがとぅ」
椅子を引き立ち上がる。理逸の横を抜けて、すたすたと出入口に去ろうとしていた。
敬語も外したこの物言いに尾道も思うところあったか、出て行こうとするスミレの背に「隠さなくてもいいじゃないか。なんだい?」と少し強めの声をかける。
スミレは足を止めると、ひどく冷めた、例の目をして尾道に返した。
「隠してぃるのはそちらでは?」
尾道と、薊の顔に引きつりが生じた。
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