第25話  旅立ち 1

 ほとんど頁は進まず学ぶ事が大好きな隆でさえも神への行儀作法の書は難しい文字が多すぎて諦めてしまった。オレンジジュースを飲み干し、簡単な絵本を持ってきて読んでいる。


 銀月梠は一度、隆を試してみたかった。五歳と言えども隆は一廉ひとかどの子供だと承知している。だが、やはり五歳児は五歳児だと安心した。

 

 しかし隆は生まれつきの人たらしの子だということを認識し、故に無理して作法を教え込まなくても神の怒りに触れること無く、うまく立ち回ってくれるだろうと思った。


 夜食を作っている精把乱の元に隆はカップを持って台所に入って行った。


「オレンジジュースのおかわりください」


 カップを差し出した。精把乱はジュースを搾り入れたふたつの取手の付いた木の器からカップに注ぎ入れる。


「オレンジジュース好きです。帰ったら母さんに作ってもらいます」


「怜様はなんでもできるお方とお聞きしておりますよ。お料理も上手なのでしょう。間もなく夜食ができますからね」


「はい」


 カップを両手で包み持ち、溢さないようにゆっくり歩いて、テーブルの上に置き、ソファに座ろうとした時、ちょろちょろちょろと流れるような水の音の中にちんちんちんちんと箸でお皿を叩いた時と同じ音が聞こえてきて、隆は気になって少しドアを開け顔だけ外に出し外の様子を伺いながらゆっくりドアを全開して外へと出た。


 きょろきょろと辺りを見渡しながら音を辿るり横を流れる小川のそばに立ってみた。小川の流れをじっと見やる。淵に腰を下ろして水中を覗き見た。隆が外に出た気配を感じ、銀月梠も戸口から外に出て隆の背中を見やる。


「なにをしておる。小川など眺めて」


「水の音が変です」


「水の音?変だとはどういう事だ」


 二人は並んで水中を眺めていると、


「ん?この声はなんだ」


 二人は耳を済ませ、二人同時に水中に手を突っ込んだ。


「冷たーい。おじさん、水からなにか伝わって来ます。この音はなんでしょうか」


「音ではなく声だ。というよりも水の精が何やら騒いでいるようだな」


「このちんちんちんちんっていうのは妖精の声なのですか」


「妖精では無い、もののけだ」


「どう違うのですか」


「この森に妖精などいない、もののけの棲む森だからな」


精把乱せいはらんのような精ですか」


「そうだ。あやつが神の聖域に侵入したのかも知れぬ」


「駿さんが!おじさん……」


「銀月梠様、隆様、夜食の準備が整いました」


 二人は同時に精把乱を見やった。


「なにかあったのですか」


「急がねばならぬようだ」


 銀月梠いいげつろうは隆の肩を抱き部屋の中へと入り食卓についた。


「精把乱も今夜はここで食事をしなさい」


「はい……」


 銀月梠の思いを感じた精把乱は、寂しげな気持ちになったけれど、それを隠して一緒に食事ができると楽しそうにして見せた。


「隆、お前にひとつ頼みたい事がある」


「なんですか」


「お前はとても巧妙な絵を描くであろう。私も描いてもらいたいのだ」


「それなら、私も描いてくださいますか」


「はい、おじさんの顔と精把乱の顔も描きます。眠るまで時間はありますか」


「夜食を済ませ、風呂に入りベットに入ればすぐに眠るだろう。明日で構わぬ」


「わかりました」


 銀月梠は今夜が隆との最後の食事になると思い、胸が詰まる思いだった。精把乱にとっては最初で最後の食事となる。


 明日、隆は龍王バイロンの神の聖域に侵入する。駿太郎を連れ戻すためには仕方のない事だ。しかしながら戻ってこれるという保証の無い旅になる。銀月梠はその昔、家族を失ったあの日の痛みを思い出してしまった。あの日、父を失い、童玄とも生き別れ七つの時から今まで二度しか会っていない。そして童玄は再び深い悲しみに耐え忍ぶ日がやってくる。


 銀月梠はこの地で隆の無事の帰還を待っていることしかできない。


 どれだけの時が過ぎようと、龍神龍王バイロンが与えたものは、いつまでも二人をさまざまな苦労や苦難にたえさせる修行の様な試練である。今もって隆にまでそのように千辛万苦せんしんばんくを与えようとしている神を神として崇める事が信念なのだろうか

銀月梠は心底で苦悶していた。














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