第11話  ダグラナ森へ

 森に向かって歩く駿太郎の背中を穏やかな風が優しく押して案内してくれているようだ。


 最近は一人でいる事がほとんどなかった。

いつもそばには隆がいて、駿太郎は五歳児の守りをしているような気でいた。


 けれど、逆に五歳児に守りをされていたのではないかと思うと「フッ」と笑いが込み上げてくる。


 指呼の間に広漠な草原が広がる。駿太郎の背の高さまで伸びた野草の中に隆の足跡が草原の真ん中に途の痕跡が残る。


 そこには一日中、楽しげに草花を探して行ったり来たり、奮闘する隆の姿が目に浮かぶようだ。駿太郎の中にすっかり隆の存在が刻み込まれている。


 隆の背丈を優に超えている野草、野草といっても幹は太く長い年月ここに息づいている野草だ。どうすれば迷うことなく、森に向かって一直線に一本の小径を作ることができるのだろう。駿太郎は小径を歩きながら感心させられていた。


 先程まで吹いていた穏やかな風はぴたりと止んだ。駿太郎は空を見上げて風の流れが途切れたことを感じて違和感を覚える。


「ん、どうした」


 今そこには、自分しかいない、風もなければ音もなく、目の前に森があり木々が生い茂っているのに、鳥のさえずる声さえも聞こえてこない。ここまで無音の空間を経験したのは初めてだ。


「静かだな」


 森の入口には門のように二本のセコイアスギが天に向かって聳え立つ、それを見上げているとすげなく撥ね付けられるような感覚を得た。駿太郎は躊躇いながら一足を踏み入れる。


 ゆっくりと立ち入り歩きだすと落ち葉や小枝の踏み締める音だけが身体に伝わる。森の中は静寂に包まれ、やけに心がカタルシスを感じる。


 ここは龍神なる龍王バイロン、ダクラナの森は永遠に閉ざされた領域である。


 童玄と隆の二人だけに許される聖域であり臣僕の侵入は許されない。そんな巨僕の駿太郎は知らず知らずのうちにそこへと足を踏み入れてしまった。


 このダグラナ森に迷い入った場合でも二度と村には生還できないと聞かされているため村人は決して森には踏み入らない。


「俺様はなにをビビってんだ」


 駿太郎は思わず立ち止まった。見えないなにかがそこにいる。そう感じる。


 浮世離れの話など少しも信じていない駿太郎だったが、今いる処はかなり浮世離れしている世界で信じるとか信じないとかの次元ではない。自身ですでに感受済みである。


『浮世離れどころの話じゃねえ、あの村自体が普通じゃあねえし』と心の中で呟く、


「おい!誰かいるのか!」


 いきなり意味もなく大声を張り上げた。誰もいないと思いながらも何かを感じる。耳を澄ましたり、何気に自分の気配を消そうとする自分が嫌になってくる。恐怖など感じたことは無いはずなのにと俯いた。


 この空間にひとり取り残されているような気持ちになることの自分自身が気に食わない。


「声が響かねえな」


『普通、森の中では声って響くものだろ。どうして響かねえんだ。こういう場所は声が響くと相場で決まってんだぜ!』


 叫ぶ声が吸収されてしまう。身体まで森林に溶け込んでしまいそうで自分が消失させられそうな気がした。


「これ以上、進まない方が良さそうだな」


 駿太郎はこれほどの抑圧させられる感覚を感じた事など一度もない。戦慄が走り身震いをした『やばいぞ、ここはヤバイ、来るんじゃなかったな。マジ、ヤバイ!』


 焦る気持ちは鼓動を掻き立てる。目の前の樹海を眺めながら少しずつ後ずさる。


 人の踏み入らない樹海は方向がわからなくなる危険な森だということは知っている。知識として知っているだけであるが実際富士山のふもとにも踏み入ったことなどない。森林というのはジャングルのように無法地帯に乱れているはずである。


 しかし駿太郎が立っているそこから先には真っ直ぐ路が続く、樹木が等間隔に植えられ雑草ひとつない。完璧といえるくらいに手入れをされている景色だ。だが決して安楽な地ではないと感じている。言葉に置き換えることができない感覚、未知なる世界だ。


 そこは、確かにおごそかと言える場所だとそんな風に思い、鬱蒼と生い茂る木々の隙間から光が差し込むその光景は後光のようにも見える。


 自分が踏み入んではいけない所へと入り込んだということぐらい承知していた。


「ここはそれほど神秘な聖地ということか」


 後ずさっているつもりが茂みの奥に歩みを進めるているような不気味な感覚、意思とは反して引き寄せられるような何者かによって前進させられている。


「なあ、誰が前に進みたいって望んでるんだ。おい誰だ!俺の背中を押してる奴は」


 思い切って振り向いた。しかしそこには誰もいない。駿太郎は呼吸を整えた。


 一度、目を細め、先の方まで睨みつけ、踵を返すと一目散にダッシュした。


「うわっ!」


 思いっきり転倒した。すぐそこにある門番のような面構えのセコイアスギの太い幹を見つめる。


「チェッ!」と舌打ちをした。


「誰だ!足を引っ掛けたのは!」


 身体を起こし足元に目を向けると、枯れ葉の間から木の根が見えた。


「あん……嘘だろ、足を引っかけただけなのか」


 駿太郎は目に見えるそれが転けた原因と思ったもののそうではない感触が足首に残る。


 自分の足首を握った。足をひっかけられた気がする。故意に転倒させられたことに違いない。


 身体を起こし体操座りで頭を両膝の間に挟んだ。じっと、動かず耳を澄ます。風は止んだままだ。微かに聞こえるのは小枝の揺れる音だけだ。


『そこにいるのはわかってんだ。だけど姿が見えねえ、今日のところはこの森から出ねぇとまずい、マジ……ヤバイ』


 木々の木漏れ日が徐々に薄くなっている。

日が暮れ始めた『昼飯を食って、少し横になって、部屋を片付けて、体内時計で測ったなら多分五時頃だろう。多分……多分な』


 夜の樹海は危険だ。ますます方向がわからなくなる。と言ってもすぐそこに入り口は見えているのだ。


 しかし闇となれば右か左か後ろか前か、全くもってわからなくなる。駿太郎は立ち上がり、尻に付いている枯れ葉を叩きおとした。


 ダッシュ!


「うわっ!」


 駿太郎はふわりと宙を舞い、身体をくねりくるくると三回転して地面に落ちた。


「痛っ!」


 すぐに起き上がり、


「おい!こぉらあ!姿を見せやがれ!この野郎!卑怯だろうが、テメェだけ透明人間を気取りやがって、俺を誰だと思ってんだ!」


 辺りはシーンと静まり返り、せせら笑いをされてるようなそんな雰囲気が無性に腹立たしい、怒りを抑えるように息を吐いた。


「意地でも俺を帰せねえつもりだな。クソっ!絶対にここから出てやるからな」


 指を立てて挑発するが相手はシーンと静まり返る森の木々たちだ。


※※※※※


 童玄一家は、怜の母親のすい宅へ行き、弟のはうの縁談話の相談を受けていた。翠と怜の作った絶品料理を囲む家族五人の会話は弾んでいる。


「翠様、これ駿さんに持って帰ってあげてもいいですか」


 翠は孫の隆にお婆さんとは呼ばせない。

私の美貌でお婆さんはないでしょうと教えた。


「それは隆たんのでしょ。駿さんのはちゃんと怜が用意してありますよ」


 隆は怜をみて微笑んだ。


「隆たんは、すっかり駿さんと仲良しになりましたね」


「はい、はうおじさん」


「それ、全部食べていいのよ」


「はい!母さん」


 隆は嬉しそうに微笑む。早く駿太郎に食べさせてあげたい一心だ。


「それより浩!呑み過ぎじゃあない?大丈夫?」


「はい!姉さん」


 と隆の真似をしてへらへらと笑う、すいは呆れ顔で苦笑した。


※※※※※


 駿太郎は、禁断のダグラナの森から何度も脱出を試みるが失敗に終わり、とうとう、森は闇とかし、右も左も後ろも前も、わからなくなっていた。


「俺様とした事が、やられっぱなしじゃあねえか」


 闇の中では自分の声だけがひびく、孤独感が雨の様に自分に降り注ぐ、


「普通よう、こんな樹海みてえな所ってよ。

フクロウの『ほうほう』って鳴き声とかよ。鳥の羽をばたつかせる『バタバタ』とかよ!鈴虫の『リンリン』とかよ。リンリンだったよな?まあ!なんでもいいわ、なんかしらの音がするもんじゃねえのか、そうじゃねえのかよ!なんなんだよ!俺の声しかしねえじゃあねえか」


 と声を段々と張り上げる。喋るのをやめると無音の上、無光である。闇である。真っ暗でなにも見えないのだ。


「そういえば、月はどうしたんだ。月だ!月!月って、そういやあよう。今まで一度も見てねえな、どうして月が出ねえんだ。月はどうしたんだ。どこ行ったんだ。それにこの前見た星はどうした?あれ以来一度も見てねえな。樹木が生い茂っていて夜空が見えないだけなのか?情けねえなあ、恐神駿太郎も地に落ちたもんだ。ガキみてえにわめいてよ。情けねえ」


 独り言で気を紛らわすほどの空虚感、恐怖はいつのまにか薄れていた。腹を据えたらもう怖いものなど無い。


 しかし孤独というものも初めての体験だ。無の空間がここまで心を疲れさせるものだとは思いもしなかった。駿太郎には初めての経験で対処のしようがない。


「無の境地か、誰が作った言葉なんだ。俺みたいな学のねえ奴はこういう時の表現がイマイチだな。いろいろ経験したけどよ。これは耐えられねえ。そうなると坊主たちはやっぱすげぇんだな。修行する奴らって尊敬するわ、俺は駄目だ。頭がおかしくなっちまいそうだぜ、俺には無理だ……。無って無理のだな。俺はなにをぼやいてんだ」


 駿太郎は観念して、目を閉じた。


「寝るしかねえな」


 森は黙って駿太郎を見下ろす。真っ暗闇の中でどこにいるのかわからないのは駿太郎本人だけで、森の木々達には駿太郎の姿は、はっきりと闇の中で光って見えていた。












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