第9話 我心の泉は道導(みちしるべ)
駿太郎は長閑村のありさまを知って感動した反面、あの時、やはり死んでしまったんだ。そう思い、現実を受け入れるしかないと気持ちが沈む。
なんとなく受け入れ難い想いが胸の奥にあるのはきっと現世に心残りがあるからだろう。信仰する宗教など持たない駿太郎だが
それくらいの事はなんとなく考える。
忘れてはいけないなにか、それが心にブレーキをかけている。そう思うとため息がこぼれる。
元気のない駿太郎を心配して隆はそっと手を繋いだ。隆の手から温もりが伝わってくる。駿太郎は優しく微笑みかけると隆はほっとして柔らかく微笑んだ。
丘の上の家の屋根からはもくもくと煙が立ち昇っている。庭先まで辿り着いた二人は共に丘下を見下ろした。駿太郎の心は重い。
駿太郎はあの時、隆であって隆ではなかった姿を思い出す。
『振り返るな。先見の明を養えよ。次期に起こりうる不祥事に備え、身を砕き、精進して参れ!』
空の向こうの摩周湖に似た湖の方を眺めた『あれはなんだったんだ』神の御告げみたいなものなのか?それと……モヤモヤした霧みたいな、煙みたいなあの物資を思い出す。
いつ不祥事が起きるのか、どこで、誰に起きるというのか、駿太郎は思う『俺は既に不祥事が起きてコノザマだろ』その時、白樺の戸がぎぎぎぎぎと音を立て開いた。
「抜糸は無事に終わりましたか?」
童玄の声に二人は同時に振り向いた。
「なんと、我心の泉に行かれましたか?」
我心の泉とは我が心を映し出す鏡の泉である。その水面に姿を写せば、その心の色が長パオの色になり、その者の
隆は幼児であるためこの先の未来の道導はされていない。
しかし長パオには既に色が写り込んでいるがこれは心の色である。成人となり神より導かれて我心の泉に参上した時その者の色が決まる。神の血を継承する隆は蒼色それよりもう身分の低い子供たちは水色である。
ダグラナの森より湧き出た原水が我心の泉に辿り着き神の水で泉となり鏡の如く空がとけこんでいる。
「どうしてわかるんだ」
「長パオが染められてますから」
駿太郎は童玄を見やったまま目を逸らさない。逸らすことができない。
駿太郎の心には不穏な気が漂う。この現実をどう受け止めらばいいのかわからない。
「おかえりなさい!」
能天気に楽しげな声でどこか清々しい怜が童玄の後ろから顔を覗かせ、駿太郎の乱気を断ち切った。
「あっ……駿さんの長パオ。紅の色に染まってるわ、もしかして我心の泉に行ってきたの隆」
「はい、だけど、ぼくが気づいた時には色が変わってました」
駿太郎は眉間に皺を寄せ隆の顔を見た。
「隆たん……」
「なんですか、駿さん」
「目の前で見てただろ?」
「えっ!ぼくですか、気づいたら染まってたから、びっくりしました」
駿太郎は釈然としない思い出隆を見つめる。童玄に目を向けると怜がぱんと手をたたいた。
「さあ、夕飯にしましょう。泉まで行ったとなるとお腹空いたでしょ。あの泉は遠いものね。すごく歩いたでしょ。駿さん、傷口は大丈夫かしら、今夜は南瓜のスープよ」
「母さん!もう南瓜のスープ作ったんですかさすがですね」
「さすがでしょ〜。早速、
隆は怜に駆け寄り抱きついた。柔らかな下膨れの頬を両手で包み、
「美味しいわよ〜。煮物とは全然違うの、あんな美味しいスープを駿さんが知ってるなんて、駿さん、お料理も上手だったりして」
「そうですね。僕もそう思います。駿さんはいろんな事ができます」
隆は駿太郎に振り向き笑顔で見上げた。
「あっ、そう言えば、エンジェルジジイが、ふわふわ焼き菓子食べたいと言ってました」
「本当!じゃあ、夕飯食べて終わったら直ぐに作るわね。夜の集会に間に合わないわ、童玄!今夜も皆さん集まるんでしょ」
「そうですね。抜糸のお礼をしなくてはなりません」
「さあ、中に入って、入って」
怜は隆の手を繋いで入って行った。
「開放ですね」
「なにがだ」
童玄そう言って優しく微笑むと屋内に入って行こうとした。
「童玄!」
思わず辛らつな声をかけた駿太郎。それでも童玄は笑みを絶やさずいつもの穏やかな口調で言う。
「追い追いにでいいでしょう。そんなに焦る必要はありません。駿さん、時間はたっぷりありますから」
そう言って微笑みながら奥へと入って行った。
「時間はたっぷりあるだと?」
「いきなりこの長パオとかいうヘンテコな服の色が変わったっていうのに、誰も、わっ!なんでだ!とか、どうして変わるの、とか、なんにも言わねえのは変だろ!あの怜まで、まるで分かってたみたいじゃねえか」
駿太郎は不思議に思わないのが不思議でならない。なにも知らないのは自分だけなのかと思うと、なんとなく、やるせない気持ちになって空が沈みゆく逢魔時の天空を見上げた。
「いったいどう言う事だ」
童玄の全てを見通している態度に気づいていないとでも思ってるのか、駿太郎は完全に消え去っていない記憶を手繰り寄せる。
「俺だって、生半可な生き方なんてしてきてねえ筈だ。守るべきものは守ってきた……きっと……人を見抜く目くらい持ってんだぞ、
多分っな……多分……あれは星か」
手を伸ばせば届きそうなほど近い、
「ここでも、一番星が見えるんだな」
駿太郎は星と思って見ていたが、
「ん……。なんか違わねえか、星じゃねえみたいなだな」
今まで見てきた星とは違う気がする。
「なんか、あの星でかくねぇか」
その星が今まで見てきた星の一番星の金星とは違うことに気づいているのかいないのか、
「天国だもんな。星、近ぇに決まってんじゃねえか、もしかしてあの星食えるんじゃねえフン!」
長閑村の夜は闇の世界だ。無明の景色が広がっている。その闇に浮かぶ星は他にひとつも見当たらないが駿太郎は闇空を見上げながら自分にしか見えない星を見つめる。駿太郎のために現れたこの星は一度きり輝く、二度と空に姿を魅せることはない。
「しかし暗れぇな。いちいちランプがねえと歩けねえし井戸と向こうの便所に一個ずつ置いてるだけじゃ花壇の花を踏んじまうだろうが」
花壇の位置を覚えれば済む話なのだが、心に溜まった苛立ち口に出して吐き出している。
駿太郎は手押しポンプの取っ手を持って、ギコギコと上下させるとポンプの口から水が出て桶に貯まる。水に手を突っ込んで米糠の石鹸を手につけ無心でゴシゴシ洗った。
荒々しく顔をぱしゃぱしゃと洗い流し、手拭い掛けにかけてある手拭いを取ろうと手を伸ばすとタイミングよく手のひらに手拭いが置かれた。顔を拭いて目を開けると隆と怜が立っていた。
「サンキュー」
「さんきゅー?って……なにかしら隆」
「ありがとうです」
「そう……ありがとう。それなら、ありがとうって言えばいいでしょ。隆」
隆はいつもの様に愛想笑いで誤魔化した。
「だけど、駿さんていつも食事の前に手を洗うのね。顔に似合わず綺麗好きなのね」
「顔に似合わず?なんだそりゃ!手を洗うのは当たり前のことですよ。怜様」
「当たり前なのね。隆、知らなかったわ、当たり前なんだって」
「俺の国じゃ、くに?」
三人は視線を
「おっ!手洗いとうがいは絶対にしなくちゃいけないんだぜ」
「手洗いと、うがい?うがいってなんですか」
隆は怜の顔を見上げると二人して首を傾げる。二人の様子を伺いながら、駿太郎は「ダメだこりゃ!」と言いながら柄杓で口の中に水を含むと上に向いて喉を振動をさせてガラガラガラパッと水を吐いた。上を向いてガラガラガラっと振動させてパッと吐き出す。うがいの仕方をやってみせた。二人はそれを見て
「きゃっきゃ!きゃっきゃ!」
と騒わぎだす。なにがそんなに楽しいのか理解できない駿太郎は柄杓に水を入れ差し出した。二人は口に含むと、駿太郎を真似て
「ガラガラガラガラ」
と水を振動させず声を出す。そのうちゴクとその水を飲んでしまった。
「きゃー、飲んじゃった!」
怜は両手で口を塞いで騒ぐし隆は隆でうがいした水を飲んでしまったと青ざめる始末だ。そんな三人のやり取りを微笑みながら見ていた童玄が。
「三人ともせっかくの温かい南瓜のスープが冷めますよ」
と優しく言った。賑やかで屈託がなく騒がしい二人は駿太郎がきてからというもの益々愉しそうに過ごしている。家族は仲良く揃って家の中に入って行った。
食卓を囲み一家団欒の風景だ。初めての南瓜スープに隆は爛々としている。童玄はスープを口の中で転がし目を細めて味わっている。皆の反応を待つ怜の肩が揺らいでいる。
駿太郎も無言のまま、スプーンを何度も口に運ぶ。痺れを切らした怜は、
「どうです?お味はいかが?もう!みんな黙ったままなんだから」
一気に飲み干した駿太郎は、
「おかわり!」
と、皿を差し出した。隆は大きなお目目を動かして怜を見る。怜は満面の笑みで身震いし喜びを隠せない。
皿を受け取り台所に小走りで行くとスープを注ぐ、その姿を見ながら隆は急いでスープを飲み干し椅子から降りて台所に歩み、
「母さん、おかわりください」
と、皿を差し出した。
「美味しいのね」
「はい!とても美味しいです」
「怜、これはとても美味しいですね。明日、鄭さんに届けるときっと喜ばれますよ」
怜は全身に力を込めて身震いし高揚する気持ちを抑えられない。
「どうしましょう!村のみんなが作り方を教えてって言って来たらどうしましょう。とても忙しくなるわね」
怜の明るさは暖かな空気のようでそれに比べて童玄は物静かで大地の様に包み込む、駿太郎は、昔、遠い昔、こんな光景を見た気がした『俺にもいたはずなんだ』優しかった母親と威厳ある父親。いつからだろうか、その二人の事を思い出す事がなくなった。
好き勝手してきて、いつか知らぬ間に両親は俺を見限ったんだろうか、今までこんな事を思ったことなどない。親の事など考えた事もないのだ。二人を見ていて隆を羨ましくも思う。
幸せそうな三人を交互に見つめる駿太郎はなぜか、童玄の横顔から目が離せなくなった。
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