第8話 駿太郎の心
抜糸を終わらせ、診療所から帰宅途中の景色を眺めながら二人は楽しげに歩いている。
どの畑にも村人たちが作業をしていて、なんとも長閑な光景だ。一日中こうして、手を抜くことなく精を出して勤しんでいる。
時折、立ち上がっては空を見上げ、背筋を伸ばしトントントンと腰を叩く。
診療所から駿太郎の足で、三百歩くらい歩いた所に畦道が二股に分かれている。左の道を行けば家へと繋がる道なのに二人は自然と反対の道を歩んで遠回りをする気満々だ。
「こっちの道は行ったことねえけど、なにがあるんだとか訊いた所で田畑しかねえよな」
「こっちの道の先には、れんげ畑があるんですよ。一面、れんげが咲いていてとてもきれいでれんげの蜜を集める蜜蜂のお家が沢山あるんです。
「紅ちゃんって女の子か?」
「はい!女の子です」
「可愛いのか?」
「可愛い?母さんほどではありませんね」
「母さんって、怜のことか?」
「はい、ぼくの母さんは一人だけです」
駿太郎を見上げて微笑む隆を見下ろして、
「おめぇ、マザコンか?」
「ま・ざ・こ・ん」
「まあ、なんだかんだ言っても五歳だもんな。まだまだガキには違いねえ」
「駿さん!ま・ざ・こ・んってなんですか?が・きってなんですか?駿さんぼくの知らない言葉いっぱいしてるんですから、意味を教えてください!」
「意味か、意味なんてわからねえ」
駿太郎は早歩きでどんどん先に行ってしまう。隆は置いてけぼりにならないように必死に股関節を動かし両手を振って、追いつこうと走るがなかなか駿太郎に追いつけない。駿太郎は時々後ろに振り返り隆を見ては笑って益々早足になる。
「待ってください〜駿さん〜」
そんな風に隆をからかって遊んでいると急に景色が色付いた。右手側にはこのうえなく素晴らしい景色が広がる。立ち止まって、
「なあ!隆たん、ここなんだ!すっげっえな!」
「オリーブの木!わかりますか?」
隆は気合を入れ、後ろに手を組むと大人の様な雰囲気を醸し出し説明を始めた。
二十四本のオリーブの木の枝には見事にびっしりとオリーブが実ってます。
なぜに二十四本なのか、
「どうして、二十四本なんだ」
「知りません!」
「なに?」
「父さんにいつもその理由を訊くと」
「訊くと?」
「忘れました……と言います」
駿太郎はずっこけた。コントみたいにずっこけた。
隆も幼子に戻ってけたけたとお腹を抱えて笑う。駿太郎は自分が子供相手に戯れている姿態に「ぶはっ!」と吹き出し笑った。
これぞ改心だと脳内で思う。
隆は再び背筋を伸ばして凛として魅せる。
一面、真っ黄色の菜の花畑、赤色なのかオレンジ色なのかなんとも神々しく輝く紅花畑、薄桃色した小さな花が覆い尽くすのはごま油、小さな青紫色したアマニ油の花、可愛いでしょ。全員太陽に向かって敬礼!は向日葵の花、全て油になる花々です。
反対側の畑には、苺、マンゴー、枇杷、甘夏みかん、さくらんぼ、メロン、梅、いちじく、杏、すもも、西瓜、蜜柑、桃、ブルーベリー、巨峰、プルーン、葡萄、柿、栗、かぼす、柚子、伊予柑、林檎です。果物畑です。
隆の脳には全て記憶されているようだ。
隆は果物畑の最初に植えられている果物から順番に言い退けた。駿太郎はその賢さに脱帽。
「隆たん、果物の順番には意味があんのか?」
隆はニコッと微笑んで先を歩く。
「おい!隆たん……順番……は?」
ワクワクしてる様がわかる背中を見つめながら着いていく。
そして平坦な土地から少し小高い丘に登ると赤紫色した絨毯のように見える広大な、れんげ畑が一望できた。確かに、れんげ畑の右側には蜜蜂の箱が沢山並んでいる。
やっぱりここは天国だ。駿太郎は声にすることができないほどの、深い感動を覚えた。
ここまでの景色を未だかつて、見たことがない。小高い丘から振り返ってみる。百花繚乱の如く咲き誇る花々や実る果物。
こんな完璧な世界があるのか?この上なく素晴らしい景色。絶景だな。
今、俺は、目の前にいる。この小さな身体で佇む、一等上等天使の隆たんに改心の道を歩まされているんだと思う。
今までの悪行は無効にしてくれるってことなのか?極悪非道のこの俺様は、居なかったことになるんだろうか。
例えば、一等上等天使の隆たんの本性が、
閻魔大王だったりしたりしたとしても、そらはそれで、構わねえって思う。だってそれが俺の結末だろう。なるようになれ!
しかし、あの世とはこんなに美しく穏やかで俺の人格まで変えやがる世界なんだ。
死にたくねぇな、なんて思ってたこともあったけど、ここがその死後の世界という処なら悪い気はしねえな。
まさか、夢を見てるのか?長い夢、それにしても長すぎやしねえか?さりげなく手を伸ばす。
「痛い!です。なにするんですか!」
駿太郎は隆の下膨れの柔らかい頬をつねってみた。
「痛いのか?」
「痛いです!」
「夢かと思って」
「夢?何の夢ですか?」
「今、ここにこうして、俺が、隆たんと一緒にいること」
それはそれは素晴らしい満面の笑みで駿太郎に抱きついた。隆は一緒にいる事って言った時の駿太郎の眼差しが嬉しかった。小さな手が駿太郎の真っ白な長パオをぎゅっとつまんだ。お腹に顔を埋める。
なんつうことするんだ!
かわぇ〜、やべ〜って!
それ、やべぇ〜って!
俺はなんなんだ!
隆はまたまた、素晴らしい満面の笑みで、
駿太郎を見上げる。そして照れ臭そうに、ちょこちょこと走って行った。
俺は完全にやられてるぞ!
「お〜い!隆た〜ん!」
駿太郎は甘い声を出しながら、隆の後を走って追いかける。その姿は、スローモーションだ。
れんげの小径を楽しそうに駆け抜けるふたり、再び丘の上にたどり着いた。
「なんだここ!見たことあるぞ!ああ!摩周湖だ!摩周湖じゃねえか」
駿太郎は思わず、昔、感動に満ちたあの時の感覚を思い出し、思いっきり叫んだ。
湖に青い空と白い雲が映り込む鏡の中の世界を摩周湖に魅せられた。
いつも曇っていて、滅多にそんな空を映すことはない摩周湖、ガイドは奇跡だと言った。
みんなにそう言ってるのかどうかは知らねえが、俺たち家族はしっかと其々の目に焼き付け、絆を結んで結束を強めた。あの景色だ。
『あいつらは大丈夫なのだろうか……。それと……。彼女はどうなった?』
忘れてはいけないことがある。改心と共に記憶が薄れていくような気がしてふと、心を留める。
このまま、隆たんに改心させられてしまったら俺は俺自身を忘れてしまうのか、
あの重圧感から解放されてしまうのか、
それならそれでいいような気もする。
何処かで踏ん切りをつけなければならない時が来ると思いながら生きてきた。
もういいんだよな。
俺は俺を忘れても、この一等上等天使の隆たんと生きていけばいいんだろ。
エンジェルジジイの事は言えない、
天使向きではないそれ以上の面構え……。
駿太郎は天使にでもなるつもりなのか?
その時、急に泉の方から駿太郎に向かって襲いかかる様な風が吹き抜けた。風の強さに駿太郎は思わず顔の前に手をかざし、目を閉じた。
「大丈夫か隆たん!」
隆が風に煽られたんじゃないかとすぐに目を開け隆を確認した。無表情のまま、隆が駿太郎の着ている長パオを指差す。「ん?」駿太郎は自分の身体を見た。
真っ白だった長パオがじわじわと紅色に染まっていく、駿太郎は染まりいく長パオをみて目が飛び出そうになる程、驚いて慌てふためく。不意に隆の顔を見ると今まで見たことがない高貴な眼差しをし大人の様な笑みを浮かべている。『隆たんじゃねえ』
「なんだこれ!どうして……」
ー泉の写ー
「泉の写?おめえ誰だ?隆たんになにした」
ー開放の色、心の中を写すー
隆の中に知らない奴がいる。
隆ではない誰かが告げる。
ー振り返るな。先見の明を養えよー
「振り返るなって」
ー次期起こりうる不祥事に備えー
「不祥事ってなんだ!」
ー身を砕き、精進して参れー
駿太郎はその高貴な声に息を呑んだ。
隆から舞い上がる無色透明の霧?煙みたいな魂が抜ける様な気配に駿太郎は目を擦った。
「なんだ!今の!」
天空を見上げると隆の魂が舞っている。
「隆たん!大丈夫か」
隆は一瞬放心状態で瞳が燻っていたが、すぐにいつものキラキラした瞳に戻った。駿太郎は隆を引き寄せ強く抱きしめた。
「駿さん?どうしたの」
「なんともないか?」
「はい!」
《目覚めよ!駿翁》
長閑村がこの日、
長閑村の一員として、
駿太郎を受け入れた。
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