第3話  家族

れい、彼の様子を伺いに診療所へ行ってきます」

 あれから九日ばかりの日が過ぎた。


 花壇で花の手入れをしていた怜は童玄どうげんに振り向きながら立ち上がり、慌てて井戸水で土のついた手を洗いながした。


「私も行きますわ。隆!童玄と一緒にそう先生の所に行ってきますね。お留守番よろしくね」


 家に向かってそう叫んだ。れいは嬉しそうに童玄どうげんの腕に手を絡め寄り添って二人は歩き出す。


 二人はまるで恋人同士のように、心持ちとろんとして見つめ合いながら歩いていると、家の中から、急いで走り出てきたりゅうは二人の間に割って入り、童玄と怜の手をすかさず握った。そう現在は二人っではなく、目に入れても痛くないほどの、愛息子の隆がいるのである。


「曹先生のところなら、ぼくもいきます」


 にこにこしながら二人を見上げる。


「まあ!隆たら、童玄と私の間に割り込んで

お邪魔虫」


 怜は素早く隆の柔らかいぷにゅぷにゅの頬を摘んだ。


「おじゃまむし?ぼく!虫ではありません」


 怜はムッとして、きゅっと頬をつねった。


「いたい!母さん!いたい!」


 怜はふん!と唇を尖らし、ほっぺたから指をはなした。隆は頬を膨らませるだけ膨らまして、掴まれた頬をさすりながら、怜を睨みあげる。


 その様子を呆れ顔で見ている童玄は、ふたりから目を逸らし空を見上げた。


「父さん、おじゃまむしとは、どんな虫ですか?」


 童玄の顔を下から見上げて問う。


 童玄は思う。怜は隆の母親になって、早、五年が過ぎようとしてしるというのに、未だ恋する乙女のように少女のままだ。


「父さん?」


 童玄自身、それはそれで嬉しいことなのだけれど、隆に嫉妬する母親のままでは、これもまた困ったもので、どうしたものかと考える。


「お邪魔虫か……後でそう先生に訊いてみるといいですね」


「父さんは、おじゃまむしを見た事ないのですか?」


「はい、見た事ないですね」


「へぇぇ。本当に!童玄たら、見た事ないのへぇぇ、私はいっつも見てるわよ」


 と隆を見下ろす。隆は隆で幼児ながらも眉間にしわを寄せ、どういう意味なのかと考えながら怜を見上げている。


 童玄はこの二人を見ていると、怜は本当に隆の母親で隆は怜の息子なのだろうかと疑ってしまう時がある。


 しかし正真正銘、童玄の子を身籠みごもり、十月十日とつきとおかはらの中、腹を痛めて、辛い思いをして産んだのは紛れもなく怜なのだ。


 隆が産声を上げた瞬間、怜は涙を流して喜んだ。無論、童玄も随喜ずいきの涙を流した。


 丘を下り、田んぼ道を三人はゆるりと歩き

長閑のどかな景色にひとときの安らぎを覚える。


「父さん、あのまっかな人間はだれですか?

どこからきたのですか?話すことはできますか?あのまっかな人間が、目をさましたら、

お話ししてもいいですか?あの人間のせなかを見ました。あれはなんですか?指でさわったけれど、とれなかった。父さんも指でさわりましたね。あれは、なんですか?ぼく、ベッドにはいったら、あのせなかの夢ばかり見るんです」


 のべつくまなしに質問をする隆。


「毎晩、寝る頃になったら、背中の話をするからでしょ。だから、夢に出てくるの、だから、私もその背中が見たくなって……今日、見せてもらえるかしら」


 と楽しそうに身体でリズムを刻む。隆も、また同じようにぴょんぴょんと跳ねて歓びを表している。童玄は隆の質問攻めよりも、他所の男の裸を見たいと言う怜に喫驚きっきょうした。


 二人は手を取り合って童玄を残し、先に走って行った。まるで子供が二人いるようだ。


「先生!お邪魔いたします」


 二人の声が重なって互いにニヤッと笑って、門柱の後ろに控柱ひかえばしらが二本ある立派な薬医門の前で一礼すると中に入って行った。


「困ったものですね」


 そう言いながらも、仄々ほのぼのとしていられる今を大切にしたいと思った。


「父さん早く!」


 門からひょこっと顔を覗かせる隆。二人は屋敷の庭中までは勝手に入っていなかったので童玄はホッとした。


 曹は縁側の奥の部屋で投薬の葉をすり鉢で潰している。白髪混じりの髪は後頭部でひとつにたばねられ顔色は血色良く艶々つやつやとしている。薬草の付着した手で顔を触る癖が功をなしているのだろう。黒の長パオの上に白衣を着ていて、いかにも医者らしい。


「よっこらしょ。最近は一声かけなきゃ、立つこともできなくてな」


 微笑みながら小柄な曹はひょこひょこと歩き、縁側に円座を置いて、その上に座った。


「先生、そんなにお年ではないでしょう」


 怜は肩をすくめて童玄の腕に手をまわし、童玄を見上げる。曹は、鼻の下を伸ばして、いつも仲の良い二人と一人を見やって、穏やかな表情をし、うんうんと頷く。


「相変わらず、少女のような、奥方様だの」


「あら、少女のようなだなんて、先生、私はいつも少女のつもりよ。」


「こりゃ失礼しましたな。ほなそこの坊やはどこの子ですかな」


「ぼくは、童玄師匠の子供です」


「それなら母者は誰じゃな?」


「しりません。多分いないのではないですか」


 怜と隆は頬を膨らませて睨みあう。曹は童玄の顔をみて苦笑した。童玄も愛想笑いでその場をやり過ごした。


「曹先生、彼の具合はどうですか」


「童玄師殿、少しずつですが、傷口は治癒しております。しかし、まだ、意識が戻りませんな。まあ、童玄師殿が延命の藻薬を湿布しておいてくださったことと、あの藻薬を含ませたいおいて下さったおかげです。命がつながりました。あの藻薬の在処ありかを教えて頂いて、採取に行けるおかげで栄養も取れております故そのうち目も覚めるかと思いますぞな」


 おっとりと話す曹の話切りの良いところで隆は口を挟んだ。


「あの!先生!あの人間のせなかの絵は、きえましたか?」


 隆は早速、訊ねてみた。


「ああ、あの背中の絵のことかな。彼は何者なんだろうね。あの着ていた衣服といい、背中に描かれた模様ですが、私は此の方、あのようなものを見たことありませんな。なんでしょうかね。水で拭こうが、お湯で拭おうが一向に取れやしません」


 隆はそうのゆっくりとした口調に小刻みに身体を揺らす。いろんな事を訊ねようとしてもどこで言葉を挟んで良いのかわからない。一瞬の隙を見つけて間髪入れず質問をする。


「先生、あれは絵というものなのですか?」


「でしょうね」


「絵なら消えます」


「消えますね」 


「ぼく、絵をえがいて水をかけたら、とけました」 


「そうですね」


「消えないようにするにはどうすれば良いのですか」


「どうやって、消えないようにしたのか、わしはさっぱりわからんのだよ。そう矢継ぎ早に色々訊かれましてもですな。わしにもさっぱり」


「申し訳ございません。曹先生、わたくしたちには遠い記憶は存在しません。もしかしたらその昔、そういった技法があったのかもしれませんね」


「そのむかし?でもあの人間は父さんとおなじに見えました。そんなにむかしの人間ですか?」


「なんとまあ、いやはや、隆たんは相変わらず賢いですのう」


 童玄は申し訳なさげに頭を下げた。


 息子の好奇心旺盛なところを伸び伸びと活かさせてやりたいと願い、自由にやらせてきた。そのせいか、疑問に思うことなど、はっきりとするまで間断なく追求する。隆は五歳にして急き心であり性急なところを持った子供に成長している。


「そうですな。しかし、私も長年生きておりますが、その昔の記憶……。そうですな」


 曹は顎をつまんで理論的に筋道を立てて考えあぐねる。こうなると曹は自分の中に深く入り込んで、ここに客人がいる事さえも忘れてしまい、ゆっくりと考える。



 曹をよく知る者は、曹自身が我に返るまで、じっいーと待たなければならない事を理解している。


「長くなりそうね」


 怜は隆の手をとると庭の片隅に向かって歩いて行った。そこには鈴の形をしたの可憐な花が咲いている。怜は花をそっと指先にのせて、


「こんな可愛い形にどうして咲けるのかしらね。隆、不思議でしょ。私はいつも思うの、咲いては散って、また咲いて、毎年同じ時期に花を咲かせる。人は一度死んでしまうと次の年には生き返らない。この違いはなぜ?」


 どんなに賢い子であったとしても、隆は、まだ若干五歳の身、そんな難しい質問を投げかけたところで、答えれるはずもなく


「じゃあ、母さん、人はなぜ生まれるの?」


「なぜって?」


「なぜ生まれなければならないの?」


「そんな難しいこと、訊かないで」


 二人の会話は、童玄に聴こえているのか、いないのか、その姿を眺めながら思い出す。


 離れ離れになり時を経て心が繋がり初めて交わした父との言葉を思い出していた。


ーー童玄よ!立派になられましたな。お前の望む地を創り、空をあがめ大地を想い村を造りそして民を集め、家を建て、作物を作り、素晴らしいことです。遠くにいる私ともこうして気持ち通ずる事ができようとは、安心しました。しかし、いつの日か来る災のために備えなさいーー


「災い……備えるとは?」


ーー嫁を娶り、子をこしらえよ。男児なる子供なら7つの歳に亀裂が入る。ーー


……亀裂……


ーーその子がお前の愛した全てのものたちを救ってくれるだろうーー


 父の言葉はどこか予言的であった。それは紛れもなく真実であり、大難がやってくる。

これは、余儀なくやってくる事なのだろう。

 災いを回避することはできないのだ。

童玄は微笑む裏でその想いと闘ってきた。

そして、怜と結ばれ、隆を授かり五年、


 龍王バイロンに問うてみたいのだが、こちらからの気を拒絶されているようで、それ以上、童玄になす術はない。


 童玄は胸を抑えた。断腸の思いを押し殺し、誰にも話せぬ未来の出来事をいつかは怜に伝えなくてはならない。


 決して、逃れることのできない現実がそこまでやってきている。残り二年、最愛の息子 隆との別れ……である。

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