6
自らの執念の始まりともいえる過去の夢からグラヴィデを起こしたのは、鏡の割れる音だった。まだアリスとの戦闘で流した血が補い切れてなく、動かすのが億劫な重い頭を上げたそこには、鏡面に映る姿を見て素手で鏡を叩き割ったセイベルの姿だった。しかし、彼女の姿はもうただの人ではなかった。全体的に血の気のない蒼白した肌になり、額に深紅の第三の目が出現。本来あった目も瞳孔が鋭くなっている。頬と腕、足の一部に鋭利な紅い鱗が現れ、左手は黒くなり、浮き出た血管が脈打り、指と爪も長く鋭くなっている。
グラヴィデが重い体を引きずって崖下までついた時には、落下したセイベルは既に助かる見込みがなかった。しかし、目的を果たすためには、セイベルを死なせるわけにはいかない。そんなグラヴィデが取った行動は、祝福の力を持ってセイベルを生まれ落ちた際の本当の姿【神交の御霊】にして、生命力を底上げするといったものだった。無事にそれ自体は上手くいったものの、解放された神の力は、セイベルを簡単に異教の姿へと変えてしまったのだ。
「………フフ」
しかし、セイベルから零れたのは、笑い声であった。
「フフフフフフフフ、アッハハハハハハ‼‼」
鏡に映る化け物と化した自分の姿に笑いが止まらなかった。信じていた教義は全て偽物だった。自分を慕っていた民は操られていただけだった。大切な人が自分のせいで二度も死ぬことになった。その果てが、自分すら化け物になり果てることだというのか。だとするならば。
「本当……神様ってロクでもないのね」
彼女の中で、何かが千切れ、反転した。
「……ねえ、グラヴィデ。貴方の目的は神の打倒でしょう」
ゆらりとグラヴィデに向かい合ったセイベルは、彼の最終目的を言い当てる。勿論状況を推察すればその答えは比較的簡単に導き出せるものの、自分が言う前に言われたという点で、彼は少し拍子抜けする。そんな彼に答えを急かすように、彼女は首を傾げた。
「……ああ」
「そう、なら協力するわ。けど、この中途半端な力じゃあ勝てない。貴方が持つ神についての知識に、御霊の力を強くなる方法はないの?」
「あるには、ある。が……」
様変わりした彼女に圧倒されたのか、一瞬言い淀む彼だったが、急かされるように肩を強くつかまれ続きを話した。
「同族を、外界の神の心臓を食えばいい。食った分だけ神の持っていた力が手に入る。だが、力が強まっていけば、それだけ人間の姿を失うことになる」
「なんだ、そんなことね。この時点で人間なんてとっくにかけ離れてるわ」
グラヴィデから手を離したセイベルは、軽快な足取りで外へと向かう。
「あまり時間がないわ。いっぱい食べて強くならなくっちゃ」
はじめて向けられたセイベルの笑顔に、グラヴィデは恐怖を抱いた。
それは奇しくも、本来であれば降臨祭の最終日であった日だった。
信仰の御霊の拉致と魔女による蹴撃で、降臨祭が中止となった今年。不穏な空気の最高潮を締めくくるかのように、セイベルとグラヴィデの二人は神都への最後の進撃を決行した。初日に神殿を襲撃した魔女と、それがかつて人であったとは考えられない異形の化け物。まだ変容した直後は辛うじて人間の四肢を保っていたが、今の彼女はいくつもの獣を歪に繋ぎ合わせた醜悪な魔物の姿に変わり果ててしまっていた。魔女が悪魔を連れてきた、と街は一瞬にして混乱に飲み込まれた。多くの兵や武器が二人に幾度も差し向けられるが、セイベルの巨躯が大雑把にそれらを破壊し、細かい部分はグラヴィデの剣が貫く。少なくとも人の力では、止めることは不可能だった。
「ああ、かわいそうに」
敵意や恐怖を向けられる度、セイベルはそう溢し、破壊を振りまいていく。神に騙されてかわいそうに、訳も分からず心を支配されてかわいそうに、今解放してあげるから。繰り返しながら、苦しまぬように、彼女の周りに死が積もっていく。アリス同様変異した枢機卿も足止めにかかるが、それらを凌駕するほど神を喰らったセイベルの敵ではなく、成すすべなく倒れていく。神殿に続く大通りを半分ほど過ぎた頃には、もう向かってくる者はいなかった。
「この下、ここから感じる。神の気配」
神殿に到着し、神の潜伏場所を探していたセイベルは、かつて自分も乗った祭壇の上で呟いた。渾身の力で台座を破壊すると、セイベルすら容易に通り抜けられる巨大な穴が出現する。その奥から漂う並々ならない気配が、この先に神がいることを確信させた。二人が降り立つと同時に蝋燭の火がともされた空間の奥から、地に響くような声が響く。
「おや、何かと思えば、いつか作った混じり物ではないか。変異持ちの欠陥品と、分不相応な壊れかけごときが、よくたどり着いたものだ」
傲慢に話しかける神は、意外にも形自体は人間と大差なかった。違うのは五メートルほどに及ぶ体と、背中に生える三対の羽くらいだ。てっきり魂を食い荒らし醜く崩れているとばかり想像していただけに、二人とも少し驚いた顔を見せる。
「何をそんなに驚く。我が整った形をしているのがそんなにも不思議か。我らは人間の魂を食う生き物。故にこの体もまた喰らう魂や精神の影響を受ける。我が食していたのは清らかな魂であり、我は飢えを知らぬ。外の乞食どもと形が違うのは必然の理」
人間のみならず同族すら蔑む傲慢さ。この国の諸悪の根源たるに相応しい傍若無人ぶり。
「なぜ恨む、なぜ怒る。現にお前たちは無秩序な外にいるときよりずっと長生きができるようになったではないか。獣の襲撃に怯えることもなく、明日の食事に苦心することもない。何よりこれは、かつての人間と我との間で結んだ共存の盟約。対価として我の信仰と死後の魂の提供だけで、生きている間は憂いのないことの、何がそんなに不満なのだ」
「関係ない。母さんが、魔女が、お前を恨み、殺したいと願った。それ以外に理由がいるか」
「母親、魔女……ああ、あの魂か」
ゆっくりを手を伸ばした神は、大の大人がすっぽりと入るほどの瓶を手に取った。その中には、黒光りする光球が浮いていた。
「あまりにも恨みの力が強く、口にするのをためらうほどだったが、ようやく使い時が来たようだ」
栓を開けた口から光球がゆらゆらと登る。目の前で破裂するそれに、神は口角を歪に歪めた。
「見せてやろう。お前の母親、魔女ドロシー・ストルゲーの嘘偽りない記憶だ」
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