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 彼がそのことを“思いだした”のは、本当に唐突なことであった。

 殺せ、根絶やしにしろ、決して許すな。短いその言葉と、それ以上に彼の思考を支配する圧倒的な憎悪。

 それが自分のものではないことは理解していた。しかしその声の主の感情は、共感を超え、あたかも自身のものであるかのように彼の心と同調した。そのあまりにも強すぎる感情が、彼の精神を支配し、取り返しのつかない凶行に及ばせたのは、必然だった。


 グラヴィデ・アガペー。過去の信仰の御霊同様、彼もまた親の分からない孤児だった。物心ついた時には神殿に引き取られ、その人生のほとんどを外界と隔絶された状態で生きていた。ソルフェジオの教義、この国の秩序、神の威光と自らの務め。過去の御霊たち同様、信仰の対象として正しく生きるようにと、そう教え育てられていた。

 しかし彼には一つ、過去の御霊たちとは違うところがあった。この国やソルフェジオ教について、彼はずっと違和感を覚えていた。皆が皆、口を揃えて神と自分を賛美する状況が、彼には不快でならなかった。だが、漠然とした違和感はあるがその明確な理由までもはわからない。ただ、自分のこの違和感が、この国に生きる全ての人々の感性とは相反するものであることを理解していた彼は、表面上の安寧の為にもその気持ちを隠し続けてきた。


 しかし、彼の薄氷を踏むかのような日々は、唐突に終わりを告げる。

 突如として思い出した憎悪に支配された彼は、ある事件を起こしてしまう。信仰の御霊による枢機卿の殺害。過去起きたことのなかった、未来永劫起きてはならなかった出来事。

 祝福の力によって貫かれた枢機卿の苦悶の叫びに、他の枢機卿が集まる。誰しもがその信じがたい光景に言葉を失い、彼自身もまた、声に誘われるように神殿を飛び出した。


 このたった一人の殺人と、神殿からの逃亡は、彼の人生を一変させる。今まで彼を崇めていた教会は一転し、信仰の御霊という地位をもってしても打ち消せない罪を犯した彼を貶めた。人々を欺き社会を混乱させようとした大罪人、不遜にも神の力を奪い取った極悪人として、ソルフェジオ教にとっては最も忌まれる存在、魔女の烙印を押したのだ。

 間もなく国全体に彼の捕縛が命じられた。かの魔女を決して許してはならない。必ずや我らの手で火炙りにし、穢れを焼く払わねばならない、と。

 逃亡後数日が経ち、ようやく感情の昂ぶりが落ち着いた彼もこの命令を知るところとなる。その日から、彼の生活は人目を避ける逃亡生活へと変わった。一目で信仰の御霊とわかるこの見目では、人目を避けて行動し続けなければならない。かといって、本当に一人きりで生き抜いていけるほど、神殿に匿われ育てられた彼の知識は豊かではなかった。


 やがて人目に付かない森の中行き倒れた彼は、ある男によって拾われる。

 目覚めた時、男が長を務める集落の一角で目覚めた彼は、最初は男や集落の住民を警戒した。しかし、男は彼に問うた。この国がおかしいと内心思っているのではないのか、と。初めて出会った同じ違和感を抱える同志に、彼は非常に驚いた。


 次いで男は告げる。「我々はソルフェジオに迫害された魔女だ」と。そして彼のこともよく知っていると話した。男の話で彼は知ることとなる。自らのルーツを、そして、母の誉れ高い生涯を。


 魔女は、神の精神支配を受けない特殊な血を持って生まれる。しかし、神への決定打は持っていなかった。言うなれば、強固な盾はあるが矛は持っていない状態だ。そんな魔女が目をつけたのは、正しく打倒すべき神が持つ超常の力と、人の身でそれを操る神交の御霊だった。魔女たちが欲したのは、決して己の神の部分に喰われず、強い人間の、魔女の部分を持った神交の御霊。しかし、それには魔女の内の誰かが神の子を身体に宿さねばならない。そんな生贄のような運命を進んで受け入れた者こそ、彼の母親だった。神の子を宿した者の末路は悲惨だ。単純な人間の出産とは別物で、神の子の誕生と同時に母体は尋常でない苦痛を感じながら死に絶える。それを知っていながら、正義感に満ち溢れた彼女は魔女と、真に人の為に進んで命を捧げた。

 そうして生まれた魔女の、人類の希望が彼なのだと、まるで自分のことのように得意げに男は話した。

 魔女の英雄、ドロシー。それが、彼の母の名だった。


 そこで彼は理解した。あの強烈な憎悪は、神を恨みながらも次代に希望を託すしかできなかった、顔も知らぬ母の無念の嘆きであると。


 真実を知り、感動に打ち震えた彼は、母に託された使命を、果たそうと固く誓う。


 そんな彼に、持ちうる全ての技術と知識を、魔女たちは惜しげもなく伝えた。

「神の正体は、外界を跋扈する怪物と同じである」

「かの怪物は、人の魂のみを喰らう」

「怪物通しは、共喰いを通じて力を強めていく」

「この国は、神が自らの食種を確保するための、大きな牧場に過ぎない」

「大気に満たされた神の力は、人から思考能力を奪い、無意識化で神を信仰するよう刷り込まれる」

「多くはこの集落で血を繋ぎながら、一部は国中に散らばり新たな魔女を探しながら、数百年の歴史を魔女は紡いでいった」

「魔女の血は、神にとって唯一の毒となりうる」

 抱いていた違和感の共有と、それを解決する魔女たちの知識は、欠けていた彼の隙間を埋めていった。そして、新たに知った事実は、彼にとっての生きる理由となりつつあった。


 しかし、その日々は長くは続かなかった。一人で逃げていたころの彼の足跡が教団に補足され、ある日、魔女たちの住む集落は包囲された。一人も逃がすなと言う慈悲のない言葉が響く中、魔女たちはせめて彼だけでも逃がそうと、捨て身で突破口を作ると言った。多くの同胞を失うことを止めようとした彼だったが、魔女たちの結束は固く、決定は覆らない。自らの力のなさに歯噛みする彼に、彼を拾った男が願う。「自分たちのことを思ってくれるなら、どうか魔女の一族を示すストルゲーを名乗ってほしい」と。


 逃げて、逃げたその先で、燃え上がる森を見る彼は決意する。魔女の血を引くもの、グラヴィデ・ストルゲーとして生きると。

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