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 殆ど暴発に近い祝福がセイベルを運んだ先は、最果ての山脈にほど近い長閑な農村だった。神都からは距離があるせいか、降臨祭で起こった惨劇自体は伝わっているものの、住民たちの生活にはさほど影響を及ぼしてはいなかった。

 眼下に広い畑が広がる道を、おぼつかない足取りでセイベルは歩く。その口からは血が溢れ、白い服の胸元を赤く染めていた。暴発した祝福の力に耐え切れず、セイベルの体には大きな負荷がかかっていた。それでもとにかく逃げなければという強迫観念に支配されているのか、セイベルが自ら歩みを止めようとすることはなかった。

「ん……? お、おいそこの嬢ちゃん、どうしたんだ⁉」

 そんな異様なセイベルを呼び止めたのは、たまたまその場を通りかかった村人だった。麻痺しつつある思考でなんとか声へと反応したセイベルは、ゆっくりとそちらへ振り返る。

「お、おい、血ぃ吐いてるじゃあねえか⁉ まずは医者か⁉ おいお前、すぐ医者を……」

 セイベルの肩を強くつかんだ村人は、大声で近くにいた別の村人にそう言う。しかし、途中でセイベルの髪と目に気付いたのか、言葉を途切れさせた。

「いや待て……この髪に目、嬢ちゃんまさか……!」

「……」

 だが、セイベルはそれに答えることなく、ついに力尽き倒れこんだ。



 行方不明の信仰の御霊であることが判明したセイベルが運ばれたのは、病院ではなくソルフェジオの地方教会。そこに医者が呼ばれ、懸命な治療の末何とか命は助かった。しかし。

 ガチャン、と耳障りな音と共に、スープの入った皿が床に投げ捨てられる。床に散乱するスープと破片、そしてそれを投げた張本人であるセイベルに、神官たちは成すすべなく狼狽えていた。

 意識の回復したセイベルは、とても正常な精神状態とは言えなかった。彼女を心配する教会の関係者はもとより、彼女を治療しようとする医師までも拒絶し、来賓用の一室の扉を固く閉ざし閉じこもった。食事すら取ろうとしない彼女は衰弱していく一方。


 そんな状況に転機が訪れたのは、一週間が経過してからのこと。

「お待ちください、枢機卿猊下! セイベル様はとてもお話ができる状況では……!」

「大丈夫よ。とにかく二人きりにして」

 人の気配にすら過敏に反応してしまうセイベルに配慮してか、ここ数日人の通りすら禁じられていた廊下に、慌ただしい声が響く。既に暴れる体力すら残っていなかったセイベルは、それに僅かに反応は示すも、薄く目を開け表情を歪めることが精いっぱいだった。そんな彼女に何の遠慮もなく、扉が開かれる。近付いてくる気配に力を振り絞り、体を丸め耳を塞いで目を閉じる。

「……や、……ないで……」

 最早目の前の人物が誰であるかなどどうでもよかった。とにかく今は誰も関わらないでほしい。もう誰かに傷つけられるのは嫌だ。そんな彼女の閉ざした心を溶かすように、そっと頭に手が添えられる。

「大丈夫、ここに貴方を傷つける人はいないわ」

「……!」

 優しくかけられた声に、セイベルの心に拒絶以外の感情が久方ぶりに巻き起こる。

 そんなはずはない。だってこの声の、手の持ち主はもう永遠に会えないはずなのに。

 それでも、目を開けずにはいられなかった。また嘘かもしれないという恐怖を感じながらも、縋らずにはいられなかった。

 ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げて声へと向き合う。薄緑の瞳が写したのは、グラヴィデに頭部を貫かれて、セイベルの目の前で死んだはずの、アリスだった。

「どう、して……?」

 ろくに水も飲んでおらずかすれた声のセイベルを、アリスはそっと抱きしめる。

「貴方のおかげよ、セイベル。貴方の祝福のおかげで、蘇ることができたの。貴方が私を救ってくれたのよ」

 祝福は、意思を現実に反映する力。アリスの死を目前にしたセイベルは、自身でも無意識の内に、『アリスは死んでいない』という祝福を使っていたのだろう。忌避すら抱きつつあった力が、大好きな人の命を救っていた。それは正しく、奇跡というにふさわしいものだった。

「かわいそうに、あの魔女にさらわれてとても怖い思いをしたのね。でも大丈夫。全部悪い夢よ。貴方が感じた恐怖の中に、真実は一つだってありはしないわ」

 五感全てから伝わる情報が示すのは、目の前にいる人が確実にアリスだということだった。やっぱり、全部悪い夢だった。だってアリスはここにいる。

 短期間で急速に摩耗したセイベルの心に、ようやく訪れた安息であった。嗚咽なくセイベルの頬を流れていく涙を、アリスはそっと拭う。

「帰りましょう、セイベル。みんなも待っているわ」

 アリスの言葉にセイベルは持てる力の全てを費やし頷いた。それは本当に僅かなものであったが、セイベルを抱きしめるアリスには、十分に伝わっていた。心を閉ざしたセイベルが、アリスによってようやく回復の兆しを見せたその光景に、見守っていた聖職者も感動に涙を流した。


 アリスとの再会を機に、セイベルの状態は徐々に回復していった。食事も拒否しなくなり、何より精神の安寧が戻ったおかげでもあった。元々神殿からの脱走を企て実行できるほどの行動派だったこともあってか、1週間と経たずに外へと出れるようにもなった。「じっとし続けていて申し訳ない」とその村の住民たちと積極的に交流を図り、時には祝福で人助けをするなど、療養中にも関わらず信仰の御霊として活動した。結果的に公式な訪問とほぼ変わらないようになってしまったが、彼女は本心からそれを楽しんでいた。


 しばらくの療養期間を経て、セイベルは神都へ帰還することが決定した。面倒を見てくれた聖職者たちや医者に感謝を告げ、セイベルとアリスを乗せた馬車は、多くの護衛に守られながら村を出立した。そんな幸先のいい出立が覆されたのは、峠道に差し掛かったあたりでのことだった。

 最初に聞こえたのは護衛の短い叫び。叫びだしたところで喉笛を掻っ切られた護衛の身体が、乗っていた馬から落ちる。

「て、敵襲! かかれ!」

 最初の犠牲者こそ不意をつかれたものの、すぐに態勢を立て直した護衛たちは、一斉に襲撃者へと襲い掛かる。統率を取り直したその動きをよけきれず、襲撃者の頬を槍の穂先が掠める。

「……チッ、面倒な」

 骨の折れそうな状況に、その襲撃者、グラヴィデは舌打ちをした。


 護衛隊の隊長が出した大声に、馬車の中のセイベルは恐る恐る窓の外を覗き込む。薄々感じていた悪い予感がそこにはあった。自分を再び攫うために、グラヴィデが立ちふさがっていた。忘れかけていた恐怖が蘇ろうとしているセイベルを、アリスは一度強く抱きしめる。安心したのか震えがなくなったセイベルから手を離すと、アリスは馬車の外へ出た。

「アリス……!」

 彼女が何か並々ならぬことをしようとしている、それだけはわかったセイベルはアリスを引き留めようとするも、アリスは軽く振り返っただけだった。

「私はもう、貴方に守られるだけの存在じゃないわ」

 頼もしく笑ったアリスは、セイベルとグラヴィデの間を遮るように立つ。

「もう、貴方に好き勝手させるわけにはいかないわ。枢機卿として、え、セイベルの姉として、貴方を絶対に許さない」

 静かに込められた怒り。しかし、それだけではない異様な雰囲気がアリスを取り囲む。

「ここで……排除スル」

 アリスの身体から溢れたのは、紛れもない祝福の力であった。しかし、それはアリスの体自体に作用し、彼女の体を大きく変えていく。肥大する手足、鋭くなる目、荒く繰り返される呼吸。それは、セイベルが山脈の向こう側で見た悪魔の姿と変わりなかった。絶句するセイベルへと振り向いたアリスは、醜い体を少し恥じるように、セイベルに語り掛ける。

「ゴメンネ、コンナスガタヲミセテ。デモ、ココロハ、スコシモカワッテイナイワ」

 変質した声帯で発せられるアリスの言葉。その思いがわかるからこそ、セイベルはやめての一言を口にすることができなかった。

 グラヴィデの周囲で戦う護衛や村人をなぎ倒し殴りかかるアリス。

「ガハッ⁉」

 完全にアリスのことは警戒していなかったせいか、その一撃をまともに腹部に喰らって吹き飛ばされる。数度地面をバウンドした後、血を吐きながら上体を支えるも、体勢を立て直せないまま二撃、三撃と攻撃が襲い掛かる。だがそれは、グラヴィデのみに被害を与えるものではなかった。アリスを化け物と呼び逃げようとする護衛すら、アリスのなりふり構わない攻撃に、容赦なく巻き込まれていく。なぎ倒される木々、えぐれる地面、虫けらのように潰されていく人間。

「もうやめて、アリスっ‼」

 アリスがこれ以上の破壊をしているところを見たくない。その強い願いは祝福となってアリスの動きを止める。地面から伸びた何本もの蔦がアリスの身体を地面に縛り付けた。グラヴィデの祝福に関しては警戒していたが、まさかセイベルから動きを止められるなどとは思ってもおらず、アリスは信じられないといった様子でセイベルを見た。

「セイベル……? ドウシテ、ワタシハアナタノタメニ……」

 だがそれは、結果としてグラヴィデに攻撃の隙を与えたに過ぎなかった。言葉を遮り、グラヴィデの血の剣がアリスを切り裂く。最果ての地で見た化け物と同じ、緑色の体液を巻き散らしたアリスは、巨躯を元に戻す間もなく絶命する。

「ッハ……」

 完全に動きを止めたアリスだったものの前に、グラヴィデは膝をつく。彼の周囲には、もう生きている人間はいなかった。

「(さすがに攻撃を喰らいすぎた……これじゃあしばらく動けない……)」

 残った力で応急処置だけを済ませたグラヴィデは、大事になる前にここを離れようと立ち上がり、馬車の傍で立ちすくむだけのセイベルへ近づいていく。しかし、完全にトラウマを呼び起こしてしまった彼女は、反射的にグラヴィデから距離を取っていた。

「嫌……来ないでっ!」

「! おい待て、後ろ!」

 彼女が逃げようとしてのは、グラヴィデからか、それともこの受け入れがたい現実そのものか。いずれにせよ、彼女が自分の置かれた状況を理解したのは、後ずさった足が地面を越えて空を踏みしめた時であった。

「あ……」

 グラリとセイベルの重心は後ろに傾き、見えていた景色が急速に上へと遠ざかっていく。祝福を使えばこの程度どうと言うことはないだろう。しかし、最早彼女には、自分が助かるという未来も、それをイメージする気力も残っていなかった。

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