3

 夢すら見ない深い眠りに落ちたセイベルが目覚めたのは、見覚えのない場所だった。豪奢なベッドと石造りの白い天井の神殿の寝室でも、質素ながらも清潔な孤児院の寝室でもなく、今にも崩れそうなあばらや。あちこちにクモの巣がかかり、不快な埃と黴の臭いが嗅覚を刺激する。彼女が横たえられていたマットレスには埃が溜まり、申し訳程度に薄い布一枚がかけられているだけであった。今まで何不自由ない生活を送ってきた彼女にとっては順応すらできなさそうな場所。生理的な嫌悪感を抱いた彼女の脳に、意識を失う直前の情景がフラッシュバックする。


 守ろうと決意した信徒たちが殺されていく様、今まで多くの時間を共にした枢機卿と騎士たちが塵芥かのように飛ばされていく様、そして彼女の記憶の中で最も長い時間を共にした、アリスの死。


「っうう……」


 鮮明に焼き付く記憶に、喉奥から何かがせり上がってくる感覚に襲われる。苦し紛れに動かした四肢は思うように動かず、ベッドから転げ落ちたセイベルの身体は強く床に打ち付けられる。半身に感じた痛みが、悪夢だとでも思いたい程の凄惨な現実による心の傷までも痛ませた。


「……ああ、やっと起きたか」


 先程の転落の音を聞きつけて来たのだろう、床でもがき苦しむセイベルに、あの日降臨祭で聞いた冷ややかな声が向けられる。カッと目を見開いたセイベルが最初に抱いたのは、これまでの人生で抱いたことのないほど、強い憎悪の念だった。


 思うように動かなかった体が一気に自由を取り戻す。混乱の最中死んだ信徒たちと、最後まで手を掴んでくれたアリスと同じ、否それ以上の苦しみの末に殺さなければ気が済まない。激情に飲まれたセイベルは、想像しうる限りの惨殺方法を視界に映ったグラヴィデに向けて念じる。しかし、それが祝福によって具現化することはなかった。


「っ、どうして……っ」


「祝福で俺を殺そうとでもしたのか? なら残念ながら無駄だ」


 挑発するような声で言いながら、グラヴィデはセイベルの右手を指さす。彼女の右手首には赤黒い液体で呪術的な刻印が描かれていた。


「今のお前に祝福は使えない。そういう術を施させてもらった」


「……そう、流石は【魔女】。神の恩恵を奪う悪魔の使いなだけなことはあるのね」


 ギリ、と奥歯を噛みしめながらセイベルはグラヴィデを睨みつける。その中には、大切なものを壊した相手への憎悪だけでなく、自らを魔女と名乗った彼への侮蔑も含まれていた。


 魔女。それはソルフェジオ教において最も忌むべき存在の一つ。かつて神が地上の人々全員に等しく分け与えた奇跡を消し去ろうとする悪魔に魂を売った者。神と信仰の御霊が築き上げた楽園を破壊しようとする、まごうこと無き人類の敵。


「覚えていたようだな。自己紹介の手間が省けていい。……が、一つだけ訂正させてもらおう。魔女は悪魔の使いなんかじゃあない。ちょいとばかし神とやらの影響を受けないだけの、ただの人間だ」


「ただの、人間……? よくもそんな口が利けるのね、あんな仕打ちをした貴様に人の血など通っているものか‼」


「人の血が通っていない、ねえ。まあ確かに“半分”はそうだが……」


 激昂するセイベルに対して、特に感情を波立たせないグラヴィデ。彼女をそっちのけに独り言を溢す様も、余計に彼女の神経を逆なでする。


「……ま、口で言っても理解できる訳ねえか。ついて来い、自分の目で確かめた方が信じれるだろ」


 セイベルに背を向け、あばらやの外に出るグラヴィデ。勿論ついていく道理などありはしないのだが、視界からグラヴィデの姿が消えたことで僅かな落ち着きを取り戻したセイベルは、少しずつ状況を理解し始める。


 何の呪術かはわからないが、実際今の自分は祝福の力を封じられており、荒事とは無縁に育った彼女の力では、抵抗することは叶わないこと。言動からして今すぐにグラヴィデはセイベルを殺す気ではないこと。そして、なんにせよセイベルが行動を起こすには、彼女が持つ情報が少なすぎることを。であれば、彼女がこの場で取るべき最適な行動は、できるだけ相手から情報を引き出し、反攻できる隙を待つこと。無論、アリスの仇討ちをしたいという気持ちはあるもの、今は激情を鎮めるべきだ、と必死に自身を宥める。




 数度呼吸をし、完全に落ち着きを取り戻したセイベルは、意を決して半分開いた扉の外へ出た。目に飛び込んできた光にセイベルは目を細める。やがて明るさに慣れてきた彼女の目は、その景色を知覚する。点々と枯れ草が生えるだけの砂と岩だけの荒野と、分厚い雲に覆われた空。それは、神が降臨する前の大地として伝えられているそれとよく似ていた。


「ここは……」


「【最果ての山脈】の向こう側、お前たちが言う、神の祝福が及ばない場所だ」


 神がこの世界に降臨した際、確かに地上の殆どは救われたものの、どうしても神の力を持ってしても干渉が叶わない、人心を惑わす悪しき悪魔に支配された地域が少なからず存在した。そこで神はその地域と人々の国との境界に険しい山を作り、向こう側の悪魔が侵入できないよう自然の壁を築いたとされている。ソルフェジオでは、悪いことをすると最果ての山脈の向こうに連れていかれますよ、という言葉が、子供を叱る際の常套句として用いられるほどだった。思わずセイベルが振り返り見上げたそこには、人の足では越えることが困難な程険しい山脈が聳え立っていた。


「(それじゃあ、祝福が使えないのも当然じゃないの! 神すら見放した悪魔の気が満ちる土地なのだから! このよくわからない刻印だって、ただの落書きに過ぎないわ)」


 早速グラヴィデの嘘を一つ見抜いたセイベルだったが、下手に口にすればまた嘘を重ねて惑わしてくると判断し、何とか表情に出さずにこらえる。


「なら、祝福が使えないのも当然だ、って思ったか?」


「っ⁉」


 しかし、間髪いれずに考えていたことを見抜かされ、僅かにセイベルは息を飲む。


「どうしてわかったのか、って顔だな。まあこれでも昔は信仰の御霊として教義やら神話やら色々教えられてたからな。それを元にすれば、俺の話の方が嘘と思うのも無理はない。それじゃあ、次はこれを見てもらおうか」


 そう言ったグラヴィデはその場にしゃがみ込むと、大地に手を付ける。次の瞬間、草の根も通らない程固まった土が輝き、次々と若葉が芽吹いてくる。


「なっ……⁉」


「山脈の向こう側の土地でも祝福は通る。教義の嘘の一つだ」


「そんな、馬鹿な……!」


 目を見開きながら緑に染まった地面に触れるセイベル。手から伝わってくるのは、間違いなく生の通った若草の感触だ。もしかしたら本当のことを言っているのかもしれないと一瞬過った考えを、激しく首を横に振って否定する。きっと魔女の呪術を使って惑わしているだけに違いない、と。


 そんなセイベルの思考を途切れさせたのは、遠くから聞こえてきた地を震わせるほどの咆哮だった。


「……そら、おいでなすったぞ。次の嘘の証明だ」


 顔を上げたグラヴィデの視線の先から、地響きが聞こえてくる。岩々の隙間から姿を現したのは、おおよそこの世のものとは思えない醜悪な姿をした獣だった。歪に割けた咢を大きく開き、ぼたぼたと涎を垂らしながらこちらに疾走してくる。七本の足の動きは動物の力強さを備える一方、どこか蟲の動きを彷彿とさせる。


「グルアアアアアアアアアッ!」


 至近距離で放たれた咆哮に、セイベルは思わず耳を塞ぐ。単純な爆音から鼓膜を守ろうとする一方、咆哮に込められた何かに、セイベルは強い違和感を感じていた。




 獣は大きく足の一つを振りかぶり、グラヴィデを引き裂こうとする。しかし、それより先にグラヴィデの祝福が防壁を成し、獣の攻撃を食い止めた。爪が通らないことに苛立ちを感じたのか、再度咆哮を発した獣の腕が急速に肥大化する。その光景に、セイベルの感じていた違和感は確信に変化した。


「嘘、そんなはず……」


 セイベルの声と同時に、獣の爪がグラヴィデの防壁を貫通する。しかしそれより早く飛びのいたグラヴィデに、その爪が到達することはなかった。空中で姿勢を変えながら、あろうことか自らの手の甲に噛みつくグラヴィデ。溢れた血は一度は飛び散るも、すぐに再びグラヴィデの手に集まると、剣のような形を模った。獣の背後にグラヴィデが着地する頃には、血は完全に鋭い剣としてグラヴィデの手に強く握られていた。


 獲物を見失った獣が振り返るより一瞬早く、グラヴィデは地面を強く蹴り獣に向かって突進。背中から突き刺した剣は胸を貫通する。しばらくびくびくと痙攣した獣だったが、すぐにその九つの目を白く剥き、その場に倒れ伏した。ドロリと傷口から血のような緑色の液体があふれ出す。


「……さて、まあ見てわかる通り、こいつがお前たちが悪魔と呼ぶ生物だ。が、まあ流石にお前も気づいたよな。こいつらの使う力」


 獣を突き刺した剣が元の血に戻る中、息一つ乱していないグラヴィデはセイベルに近付いていく。


「そんな、なんで悪魔が……だって、この力は……!」


「ああ、そうだな」


 セイベルの信じたくないという心を砕くように、グラヴィデは特に感情も込めずに言い放つ。


「こいつらの力は信仰の御霊が使う、祝福の力と全く同じものだ。そして俺たちのこの力は神由来。つまるところ、神と悪魔は同じ種類の生き物って訳だ」


「同じ種類の、“生き物”……?」


「ああ、祝福を使い、人の魂を食う生態の生き物。ソルフェジオにいる神様気取りの個体も同じだ。ま、ここにいるやつらは理性がないせいで、祝福は精彩を酷く欠いている。神殿にいるやつに比べりゃあ、赤ん坊同然だ」


 セイベルの中で、自らが信じていたものが音を立てて崩れていく。信じていた教義の神秘が、今この場で彼女に突き付けられた現実によってことごとく否定されていく。




「神殿の化け物にとっちゃ、ソルフェジオは飼育場だ。神を崇める上質な食料たる魂を育てるためのな。救済だか何だかほざいているが、全部魂の味を良くするための飼料に過ぎない」




「ついでに言うなら、俺達にも化け物の血が流れている。信仰の御霊の信仰は当て字だ。正しくは、神と交わると、書いて神交の御霊。ソルフェジオを運営する上で、管理者の一体として作られる。神と人とを混ぜ合わせた、間違いない化け物だ」




「わかるか? 人間は神に救われたんじゃない。後に神の食料となることを前提に、食物連鎖から切り離して育てられる、家畜に成り下がっただけだ」




 立て続けにグラヴィデの口から語られる真実は、最早セイベルには届いていなかった。


「………そよ」


「あ?」


 呆然としたセイベルがぼそりと溢す。聞き取り切れずに疑問を抱いたグラヴィデだったが、それを聞き返す必要はなかった。


「嘘よ、そんなの嘘に決まってる! 私は信じない、全部幻よ、幻覚よ‼ あなたは魔女でしょう、人を惑わす悪い魔女! そんなあなたの言葉なんて信じるに値しない‼‼」


 狂乱するセイベルに、最早理知的な話し合いなど望めなかった。


「消えて、しまえばいい……こんな、嘘だらけの場所なんて‼‼」


 叫び声と同時に、グラヴィデの術が負荷に耐え切れず崩壊する。放たれた祝福の力は、光の柱となってセイベルを包み、セイベルごと消失する。




 目の前で逃走したセイベルにグラヴィデが抱いたのは、意外にも純粋な驚きだけだった。


「……驚いたな。まさか俺の祝福封じを破るとは」


 神にとって致命となりうる魔女の血。その効果は、先の化け物が少量の血を体内に入れられただけでも絶命する程のものだ。いくら同じ信仰の御霊とはいえ、先の血の剣のような突発的なものではなく、強固に重ねた封印を破られた事実に、素直にグラヴィデは驚嘆する。セイベルの実力を見誤っていた、と認めるしかなかった。とはいえ、無理やり封印を解いた分に加え、そもそも転移の祝福はそう遠い距離を渡れるものではない。近くを探索すればすぐに身柄は見つかるだろう。後は、言うことを聞くようになるまで現実を教え続ければいい。目的を果たすために、手段を選んではいられないのだから。


 踵を返したグラヴィデの周囲に、降臨祭蹴撃時と同じ殺気が満ちる。その時の彼がそれを向けていたのは、その場にいたどの人間でもない。神殿の地下深くに住まう、神を名乗る化け物。それを殺すという目的の為なら、それ以外のことは全て些事に過ぎないのだから。

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