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空は前日の夜から、セイベルの祝福の力によって厚い雲に覆われていた。これは、かつて世界が荒れ果てていたころを再現するため、毎年行われている儀式の手順に組み込まれていることであった。
祝祭の開始を目前に太陽が遮られ少し肌寒く感じる控室の中。顔を完全に覆い隠す長いヴェールが特徴の儀式用の装束に着替えたセイベルは、少しだけ目を伏せて椅子に腰かけていた。
「セイベル」
そんな硬い表情のセイベルにアリスは柔らかく話しかける。
「緊張してる?」
「うん……少しだけ」
「大丈夫、去年と同じようにすればいいだけよ。それに、昨日あんなに元気づけられていたじゃない」
「うん、そうだね。昨日……昨日、か…………」
昨日の街の散策を思い出そうとしたセイベルだったが、不意にその表情が曇る。何よりもまず昨日のことで思い出したのは、神殿に帰ってから枢機卿長のニコマコスから受けた長い長い叱責だった。礼拝の時間になってもセイベルが現れず、捜索の末見つけられたのは彼女の部屋の窓から伸ばされた縄梯子と、壁の解れから外へと繋がるトンネル。ついでにお目付け役のアリスまでもが姿を消している。逃走か、誘拐か、はたまたアリスの謀反などという推測すら立ち、神殿騎士団総員でセイベルの捜索にとりかかろうとしていたところ、何食わぬ顔で二人が外から帰ってきたものだから、それはもうその後の顛末は詳しく語るまでもないだろう。目付け役たるアリスは本来止めなければならない立場であるのにそれを怠ったとして大層に怒られ、本来は崇められる立場のはずのセイベルも、降臨祭を前に勝手な行動を起こしたことを非常に強く咎められた。あとはもう二人ともひたすら懺悔させられる始末。セイベルの必死の弁解と、翌日の儀式に響くという理由もあって、数時間ほどで反省の時間は終わったものの、終始向けられるニコマコスの言葉と視線は容赦なく二人を消耗させたのだった。
若干トラウマになっているのか、明らかに緊張とは違う気分の低下をわかりやすく顔に出すセイベル。それを察したのか、アリスも地雷を踏みぬいてしまったかのような顔を見せる。
「ま、まあニコマコスの剣幕は……うん、すごかったけどさ、みんなセイベルのこと大切に思ってくれてるわけでしょう。大丈夫、自信もって。貴方は堂々としていればいいの」
「……そうだね、思い出したら強烈すぎて緊張もどこか行っちゃった」
しばらく目を合わせた後、どちらともなく笑い声が零れる。
「セイベル。そろそろ時間ですよ」
そんな二人の間に、壮年の男性の声が割り込んでくる。枢機卿たちを取りまとめる長、ニコマコス・フィリア。さもすればセイベルすら逆らえない程威厳を湛えたその男性と、昨日の出来事に、思わず二人とも表情を強張らせる。
「緊張しすぎもよくないですが、気が緩みすぎるのも問題ですね。もっと自らを律しなさい。貴方は信仰の御霊なのですよ」
「はーい……」
厳しい言葉にやや不服そうにしながらもセイベルは立ち上がる。しかし、下手に言い返すこともできず、空間に重い沈黙が流れるも、それを破ったのもまた、ニコマコスの声であった。
「過ちはそれ以上の善行で返せばよいのです。祝祭の間、力を尽くしなさい」
「……!」
「返事は?」
「っ、はい!」
力強く返事をするセイベルに、ようやく少しだけ眉間の皺を減らしたニコマコスに導かれ、二人とも儀式の行われる神殿中庭の祭壇に向かう。
普段は信仰の御霊と枢機卿、それに警備をする特別な騎士以外は固く門戸が閉ざされている神殿だが、今日この日に限っては国民に広く開放されていた。既に中庭には溢れんばかりの人々が集まっており、神殿の中に収まりきらない程であった。ざわざわと儀式への期待からかあちらこちらで話し声が聞こえていたが、開始を告げる鐘の音が鳴り始めると同時に、それらはぴたりと止んだ。
ニコマコスが高らかに読み上げる祝詞の中、ヴェールに顔を隠したセイベルが、枢機卿たちに守られながらゆっくりと人々の前に姿を現す。静まりかえった舞台の上で、セイベルは空に手を伸ばした。
「かつて我らが主が望まれたように、我もまた、この世界と愛すべき民の為力を尽くそう!」
熱い雲が晴れ、隙間から光が差し込んでくる。丁度その最初の一筋がセイベルの立つ祭壇を照らし、陽の光を受けたヴェールが僅かに光を反射し輝く。神の再臨を思わせる幻想的な様に、どこからかぽつりと拍手が響く。徐々に呼応するように拍手と歓声が広がっていき、間もなく神殿が、街そのものが歓喜の声に包まれた。祝祭の始まりを告げる最初の儀式は成功に終わり、セイベルは微笑みながら信徒たちに手を振る。
その時だった。
突如として神殿の屋根に爆音とともに落雷が発生する。祝福の空気に包まれていた空間に、一瞬にして不穏な空気が立ち込めた。
「な、なんだぁ⁉」
「あ、あれ……屋根の上に人が……?」
信徒の中の誰かが指さした先、たった今雷が落ちた場所に、確かに何か人影が見える。釣られて信徒が、セイベルたちも一斉に屋根の上を見上げる。飛び上がった人影は信徒と祭壇の上のセイベルとの間に、重力を感じさせない身のこなしで着地する。顔が完全に隠れるボロボロのフードを被ったその人物は、全身からただならぬ雰囲気を発していた。
「なんだ? 新しい演出か?」
異常事態なのか、そうではないのかまだ判断が付かない信徒たちが再びざわめき始める。しかし、完全に想定外の出来事に、セイベルと枢機卿たちは何も行動ができなかった。
「ンだよ、六年ぶりの帰還だってのに、随分なご対応じゃねえか」
謎の人物から発せられた男性の声と同時に、風に煽られたフードが脱げる。その下の姿に、その場にいた誰もが息を飲んだ。
「お、おい、なんだあれ……」
ボサボサに伸びた白い髪に、眼光鋭い薄緑の目の若い男。しかし、その色の組み合わせを持つのは、信仰の御霊、今であればセイベルしか存在しないはず。
「信仰の御霊が、二人……⁉」
同時に二人は存在しないとされる信仰の御霊が、多くの人の前で二人存在してしまっている。これは一体どういうことなのだと、一瞬にして混乱が広がっていく。
「ハア、俺の顔を見ても誰も彼もが無反応ってのは、ちょいとばかし傷つくな。そこのニコマコスのジジイ、アンタは流石に覚えてるだろう?」
唐突に名指しされたニコマコスに、自然とこの場にいる全員の視線が集まる。しかし、当のニコマコスは一切声を発しようとしなかった。
「おいおい、まさか元主人の俺の名前を忘れたってのか? なら、ここにいる全員に聞こえるよう、もう一度教えてやるよ」
勿体ぶるように大きく息を吸い込んだ彼は、高らかに宣言する。
「神の恩寵を持ち逃げした裏切りの御霊、【魔女】グラヴィデだ」
「ま、魔女だって⁉」
魔女、という言葉が聞こえたと同時に、漠然とした不穏さは明確な混乱へと変わる。
「逃げろ! 呪われるぞ!」
咄嗟に神殿から逃げようと人がなだれを打って逃げ出す。そんな群衆にグラヴィデが冷めた視線を向けた瞬間、まだ人が多くいる地面に地割れが発生する。地割れに吸い込まれる者、バランスを失い倒れるもの、そんな者たちと地面に押しつぶされる者。グラヴィデが起こしたのはただそれだけの地割れだったが、この混乱を不可逆的なものにするのには十分だった。
「こ……殺せ! 裏切り者のグラヴィデだ!」
そこでようやく声を発するニコマコス。それに応え騎士たちが一斉にグラヴィデへと向かっていく。しかし、視線も合わせず手を伸ばしたグラヴィデから暴風が巻き起こり、騎士たちの体を舞い上げ地面にたたきつける。それらを起こしていたのは、セイベルも持つ祝福の力だった。民を守るために使われなければならない力で、目の前の男はいとも容易く人を殺した。その事実に、セイベルの内に確かな怒りが巻き起こる。何としても目の前の男を排除せねばならない。セイベルは守護の結界を発動させるため、意識を集中し始める。しかし、唐突にグラヴィデから向けられた視線に、セイベルの背筋がまるで凍り付いたかのような感覚が襲う。向けられる猛烈な敵意、殺意、憎悪、それらが完全にセイベルの行動を封じていた。
祝福は、起こしたいことを強く念じることで、大抵の物事を具象化させられる奇跡の力。しかし、少しでもそのイメージに綻びが生じれば発動できない。グラヴィデの殺気によって集中力のかき乱されたセイベルでは、最早祝福の力は使えない。
「御霊を神殿の奥へ! 命に代えてもお守りしろ!」
セイベルにも抵抗はできないと察知したニコマコスは、せめて彼女の身は守ろうと、騎士を指揮しながら枢機卿たちに命令する。
「セイベル、こっちへ!」
呆然と立ちすくんだままのセイベルの手を、アリスは強く引き神殿の内部へと駆け出す。その周囲を自らの体そのものを盾とし、セイベルを守るように、他の枢機卿たちも続く。騎士たちの足止めの甲斐あって、セイベルが神殿の中へ続く階段に足を踏み入れたその時だった。
俯き、ただアリスに引かれるがまま、他の枢機卿たちに押されるがまま足を動かしていたセイベルが、“それ”について一番最初に得たのは、他の枢機卿の声のない悲鳴だった。自分のすぐ後ろを守っていた枢機卿が短く息を吸い込んだのを聞くと同時に、自分を引いていたアリスの力が消える。そこでようやく異常を感じたセイベルが見たのは。
後頭部から頭を槍のようなもので貫かれた、アリスの後ろ姿だった。
「ヒッ………!」
セイベルが短く叫び声を溢したと同時に、アリスの全身から力が抜けていく。何もかもを忘れた自分に差し伸べられた、何度も繋いだ手が離れていく。少しだけ茶色の混じった髪が暗く深い緋へ染まっていく。あんなに頼もしいと思っていた後ろ姿が、力なく地面へ倒れた。
「……アリ、ス………?」
うつぶせに倒れたアリスの頭部から血だまりが広がっていく。その血の匂いが、焦ったまま静止した表情が、彼女はもう生きていないとセイベルに突き付けていた。
「嘘、そんな……いや、いやだよ、アリス……」
ああ、神様。どうして、私たちがこんな目に合わなければならないのですか。
皮肉にも、その疑問は、今までセイベルが捧げてきた神への言葉の中で、最も心の籠ったものであった。脳内をその文言だけが占めるセイベルに、すぐ近くで生まれていく新たな犠牲者の断末魔も、焦ったニコマコスの声も、未だ混乱の渦中にいる民衆の混乱も、迫りくるグラヴィデの殺意も、何一つとして届いていなかった。
首に強い衝撃を感じたのを最後に、セイベルの意識は途切れた。
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