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 かつて神が降臨し、人々に奇跡を授けたとされる聖地、ソルフェジオ神聖国の中心【神都】。教団の統治が隅々まで行き届いたこの街は、外郭の一片に至るまで整備が行き届き、どこを見ても美しい街並みが続いている。住民は皆敬虔なソルフェジオ教の信徒であり、戒律に基づく彼らの暮らしは清貧そのもの。住民同士が諍うことも少なく、治安も非常にいい。




 しかし、この街において最も特筆すべきは、街の中央に建つ巨大な神殿であろう。大理石に近い質感の白い石材で築かれたこの神殿は、街のどこからであっても目視できるほど巨大かつ荘厳な造りをしている。普段は固く閉ざされたその門を潜れるのは、ソルフェジオ教において崇拝される対象である特別な人間【信仰の御霊】と、その補佐を務める最高位聖職者【枢機卿】のみ。かつては地上に降り立った神の仮住まいであり、人々に神託を下した場所であったという伝承をなぞる様に、現代では信仰の御霊と枢機卿の住居であり、ソルフェジオの政治を行う場所として機能していた。





 そんな神殿の外壁部分。丁度正門の裏手に位置する窓の一つが開けられ、そこから十五、六歳に見える少女が顔を出す。肩ほどまでの染めたものではない艶やかな白髪と淡緑の瞳は、彼女がこの国で最も尊ばれる存在であることを証明している。しかし、そのような高貴な身分でありながら、彼女の行動は人目を忍ぶような周囲への警戒に満ちていた。


 まずは窓の左右と数メートル離れた地面を目視し、次いで背後へと振り返る。彼女が確認できる全ての視界に人影がないことを念入りに確認すると、小脇に抱えていた縄梯子を窓から降ろす。音もなく地面まで落とされた縄梯子を窓枠にしっかりと固定し、布袋を片手に音を立てないよう慎重に降りていく。


 無事に地上にたどり着いたところで、ふと縄梯子の回収を考えていなかったことに気付くが、ここは滅多に人が通らない場所であるということに賭けてそのままにしておくことに決めた。些か不安の残る縄梯子に背を向け、神殿全体をグルリと取り囲む壁に向き合う。高さ的にも乗り越えることがまず不可能な壁の前にしゃがみ込み、壁沿いの一部の土を手で掃う。そこに隠されていたのは、薄く大きな一枚板。更にその先には、彼女一人が通れる程度の小さなトンネルが壁に向かって掘られていた。地中に埋まった部分にできた外壁の綻びを拡張して作った、彼女専用の脱出口。一ヶ月という時間をかけ、人目を忍びコツコツ作り続けてきたこれが、ついにその役目を果たそうとしていた。躊躇することなく彼女はトンネルに頭から入り、モゾモゾと匍匐前進で進んでいく。時間にして数十秒に満たないものだったが、万が一にもばれやしないか、気が気でない進撃だった。しかしそんな彼女の不安とは裏腹に、簡易的に隠された出口へはすんなりと到着する。内側から板を押しのけトンネルの外に出た彼女は、地に足をつけると体のあちこちについた土を手で掃いながら、今しがた自分が通り抜けた壁を見上げた。やってやった。厳しい警備の目を潜り、自分一人で脱出を成し遂げたのだ。自身が成し遂げた偉業に、彼女は湧きたつ喜びに任せグッと手を握った。


「……よしっ!」


「なーにがよしっ、だ。このお転婆!」


 死角から聞こえた大声にびくりと肩を震わせた彼女は、信じられない物を見る目で声の方へと振り向いた。


「ア、アリス……」


 視線の先に立つ、緩くウェーブのかかった赤毛の女性。その青い瞳からは怒りの籠った眼差しが向けられていた。あの表情ではどう繕ったって怒られるのがオチ。強行突破しようにも、ここまでの先回りをしていたアリスだ。確認できていないだけで、既に彼女を逃がさないための包囲網が築かれているだろう。打つ手なしと判断した少女は一時は上がっていた肩を大きく落とした。


「うう……お話じゃあこれで脱出できてたのに……」


「子供向けの童話が実際で上手くいくわけないでしょ。そもそも、色々痕跡残しすぎよ」


 冷静に脱出計画の粗を指摘され、ますます気分を沈ませる少女。その落ち込みぶりに少しばかり良心が傷んだアリスは、先ほどよりかはいくらか柔らかい声色で話しかける。


「……明日が降臨祭だってことわかってるの、セイベル。貴方にもしものことがあったら、国民全員が悲しむことになるのよ? ほら、神殿に戻りましょう」


 そうアリスが差し伸べた手を、セイベルはやや不機嫌そうながらも取った。そのまま正門まで引っ張って行こうとするが、セイベルの足は動いていなかった。


「セイベル?」


「……お願いアリス。街に出るの手伝って」


「話聞いてた? 予め予告しておいた視察でもないのに信仰の御霊が街に降りるだなんて」


「寧ろお忍びで行きたいからいいの。明日は確かに大事な日だけど、だからこそ素直なみんなの声を聞いておきたいの」


 ただ自身の個人的な欲求を満たすために起こした行動ではないことは、アリスにも薄々感じていたが、だからといって信仰の御霊を補佐する枢機卿として、容認することははできない。


「だから、貴方の身の安全が保障できないって……」


「アリスが傍にいてくれたら安心でしょ?」


「……それに、信仰の御霊が降臨祭を翌日に控えてるのに神殿から離れただなんて知れたら、それこそ大混乱よ」


「見た目は祝福で変えるから……ほら」


 目を閉じたセイベルは、髪と目の色が変わった自身とアリスの姿を強くイメージする。それに呼応するようにセイベルの周りに小さな光が灯り、二人の姿が変化する。その状態で更に顔が見えにくくなるよう目深に帽子をかぶれば、二人をよく知る人間でなければ、それが彼女たち自身であるとは気づかない程にはなった。


「もう、こういう祝福の使いかたばっかり上手くなって……」


「ちゃんと日暮れの礼拝には間に合うように帰るから! お願い!」


 アリスの目を真っすぐに見つめ、懇願するセイベル。


「………………あーもう、わかったわよ」


 長い沈黙の後、アリスはしぶしぶと言った様子で折れた。こうなってしまったセイベルは案外強情で、テコでも動かないのは付き合いの長さから理解していたからだ。パッと笑顔を見せたセイベルは、あれほど動かさなかった足を軽快に街へと向けて動かし始めた。





 セイベル・アガペー。今代の信仰の御霊である彼女は、かつては孤児であった。と言えども、孤児であること自体はそう珍しい話ではない。歴代の信仰の御霊となった子供たちは、その殆どが孤児であったからだ。彼女が公的な記録に初めて記されたのは、十歳と推定される頃だった。というのも、神都郊外で倒れていた彼女は、保護された時点でそれまでの自身の境遇どころか、社会常識に至るまで全ての記憶を失っていたのだった。治療の心得の有る聖職者のあらゆる治療も効果がなく、失われた記憶は終ぞ戻ることはなかった。


 そんな彼女の世話を甲斐甲斐しく焼いたのは、当時セイベルを保護した孤児院で働いていたアリスだった。幼いころに両親を亡くし、以後孤児院で育ったアリスは、独り立ちする年齢になっても孤児院を出ずに、自分と同じ境遇の子どもたちを育てる役目を引き受けたのだった。それまで世話をしていた他の子どもたちと同じくらい、あるいはそれ以上に、アリスはセイベルを気にかけ、さまざまなことを教えた。自身の名前すら忘れていたセイベルに、『セイベル』という名を与えたのもアリスだった。何もなかったセイベルの世界に多くを与えてくれたアリスを、セイベルが強く慕うようになるのに、そう時間はかからなかった。その仲睦まじさは、周囲から姉妹と比喩される程だった。


 しかし、セイベルが皆の間に混じって生活ができるようになった頃、彼女に信仰の御霊に見られる特徴が発現する。間もなくセイベルは神殿に引き取られることが決まるが、それによりアリスと別れることをセイベルは酷く嫌がった。アリスはそんなセイベルの為に、枢機卿となり自身も神殿に入ることを決意する。


 元々ソルフェジオでは、信仰の御霊が孤児出身であることが多いことも相まって、孤児への支援や教育は厚く、アリスもまたそんな高度な教育の元育てられ、枢機卿となるには十分な資質を備えていた。その上で、セイベルを一人にしないという一心で、厳しい教練にも耐え忍んだ。セイベルが一通りの修行を終え、正式に信仰の御霊であることを示す『アガペー』の姓を賜ったのと同時期に、アリスは枢機卿であることを示す『フィリア』の姓を賜った。


 以降、公の場ではアリスはセイベルの臣下として振舞っているが、それ以外の場所では孤児院にいた頃と変わらず家族同然の親密さを見せている。本来であれば主人であり信仰対象である信仰の御霊に対してここまで馴れ馴れしく接することは許されることではないが、二人にこのような背景があることは枢機卿たちの間では既知の事実であり、ある程度は黙認されていたのだった。





 かつて神が降臨した日を祝う、ソルフェジオ教の祝祭の一つ【降臨祭】。いくつか存在する祝祭の中でも最も重要な意味を持つこの祝祭は、神が実際にこの大地に降り立っていた一ヶ月という期間になぞらえて、普段は清貧な生活を送る信徒たちが、一ヶ月の間ずっと国を挙げて祝い続けるという非常に大規模なものだった。


 長期間に渡る祭りの為、街は準備に追われながらも活気に満ちていた。とても観光と言う雰囲気ではないが、それでもセイベルは往来の邪魔にならないよう、アリスの手を引いてゆっくりと市街を散策する。あちこちで慌ただしそうに人が動いているが、その表情はどれも晴れやかな様子だった。


「明日からのお祭り、貴方のところは何をやるの?」


「いくつか屋台を出すつもりだ。家族も総出で協力してくれるよ。ありがたいね」


「あら、うちの息子が聞いたら喜びそうね」


「こうして祭りを開けるのも、全て神様と信仰の御霊のおかげだな、楽しむのはいいが感謝しないとな」


 商店が立ち並ぶ一角で、ふとそんな立ち話がセイベルの耳に入ってくる。よくよく周りを見回すと、準備の合間の休憩や、作業をしがてらで会話をしている人は大勢いた。その殆どは明日からの祭りを楽しみにしているといったものだったが、神やセイベルへの賛辞も決して少なくはない数含まれており、それを聞くたびにどこかむず痒いような気持ちをセイベルに抱かせる。


「いいなあ、お祭り。楽しいだろうな」


 ぽつりとアリスに向けたものではない独り言がセイベルの口から零れる。それもそのはず、降臨祭は神の降臨を模倣し祝う祭り。神の代理として存在する信仰の御霊たるセイベルは、数日の巡幸こそあれど、期間の殆どを神殿に閉じこもり、参拝する信徒の声を聞くという責務が課され、とてもただ単純に楽しむということはできなかった。


「……やっぱり、辛い?」


「辛くないっていえば嘘にはなるかな」


 孤児院で面倒を見られた一年間を除けば、彼女の生涯の全ては神殿と、常ならざる信仰の御霊と言う責任と共にあった。勿論生活自体に不自由はないものの、それは所謂【普通の女の子】としての生活とはかけ離れたものだろう。幼ければ幼いほど、心は清く神の御業を正しく説けると、かつての神は説いたというが、物心もつかない頃から大きすぎる責任と力を背負わされ、普通というものにあこがれるセイベルの身の上を、ほんの少しだけ哀れと感じてしまう。


「……でもね、力を授けられたから、使命を与えてもらったから、守られるものがある。この国に生きる人が自然と神様に感謝を抱けるって、すごく素敵なことだと思うの。だから、不幸だなんて言わないよ」


 この子は、芯に強いものを持っている。まだ若い故の危なっかしさはあるが、大人がそれを支えていけば、きっと素晴らしい指導者として大成するだろう。


「アリス、連れてきてくれてありがとう。私、もっと頑張るね」


 顔を上げ、朗らかな微笑を向けるセイベルに、アリスの顔も自然と緩む。そんな二人の時間を演出するように、遠く済んだ鐘の音が流れてくる。


「……ハッ、鐘⁉」


 鐘の音は日暮れの礼拝の時間。即ちセイベルの自由時間の終わり。お互い散策をしているうちにすっかり時間を忘れてしまっていた。今頃きっと神殿は大騒ぎであろう。せっかくアリスがセイベルの脱走事案も、大事にならないように報告せずにいたというのに、その心遣いも水の泡と化した。先程までの幸せな空気はどこへやら。帰ってから待ち受ける大目玉を想像し、二人同時にめまいを感じた。


「……過ぎちゃったものは仕方ないわね。腹くくって帰りましょう。大丈夫、一緒に怒られてあげるから」


「……ごめん、アリス。せめてアリスが枢機卿やめなくていいようにちゃんと弁解するから」


 神殿へ向かう足取りは重く、しかし繋ぐ手はどこまでも力強く。明日の祝祭を前に、セイベルの決意は強まったのだった。

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