ヘレネスとバルバロイ・中

 その名を聞いた瞬間おれは、だけどテミストクレスの時のように金縛りにはならなかった。この人が彼より小物と思ったからでは決してない。反射的にファンダレオンの顔が脳裏に浮かんだからだった。あの整った容貌があと三十年くらいも経ったら、多分こんな風になる。明らかに彼と相似がある皺が多い顔に、おれは親しみを覚えたのだ。

 アリステイデスからはテミストクレスみたいな強烈な覇気や威風は感じなかった。だからおれも「将軍」とか「政治家」じゃなくて「貴人」だと感じた。それこそ詩を詠むような優雅さと穏やかさしか、その表情に息づいてないから。一見アテナイの英雄とは思えなかったが、突然、人がよさそうなその雰囲気から「貧乏人のまま出掛けていって、一層貧乏になって帰ってきた」という評判を思い出した。紫色の衣を纏った格好はどう見ても貧乏人じゃないけど。

 そうして、アリステイデスはさっと周囲を一瞥した。柔和な瞳に、だがしなやかさを感じておれは彼が少なくとも「政治家」だと知った。自然、周りの空気が畏まったものになる。そう、アリステイデスを中心に。ファンダレオンの言を借りれば、この人の「人を惹きつける輝き」は、世間に伝わってる話の通り、危機を前に紛糾するヘラスの将軍たちを見事に仲裁してのけたに違いない。

「この夕暮れのアゴラで何が起こったのか、と訊いているのだ。ミュラ」

「アリステイデス様、これは……その、このがき、じゃない、この、子供が……」

 ぶどうを盗みました、と言わないのは、奴も本気ではおれを泥棒と思ってなかったからだろう。しどろもどろに答えて赤くなったり青くなったりするミュラが「子供」と言い直すと、アリステイデスがおれに目をやった。

 おれはどうにか起きてしゃがんでいた。ふらつく頭を振りながら、アリステイデスを見返す。白髪が半分くらい混じった巻毛と、夜の闇のような黒い瞳。トラキアの奴隷少年はこの人の目にはどう映るんだろう。

 アリステイデスはかすかに顔を歪め、す、と歩み寄って膝をついた。知り合いでもない奴隷を助けようとする彼の姿に、観衆が感激したようにどよめく。だけど、そうでなければ……みんなが騒がなければ別に当然だといわんばかりの自然な仕草だった。

 でも、アリステイデスが次にとった行動には、おれも目が点になってしまう。

「大丈夫か? おや、口が切れているな」

 自らの衣を破って布を作ると、おれの口元にそっとあてがったんだ! おれは呆然となった。柔らかな布地の感触と一緒に、アリステイデスの優しさまでも感じたような気がした。

 まさに慈父のまなざしだった。テミストクレスがゼウスなら、この人は地上を見守る天空神だ。そう思わずにいられない。

「あ、あの──」

「わたしはアリステイデスだ。一体どうしたのだ? 彼は、わたしの奴隷だ。後から葡萄を買わせる用を思い出して行かせたのだが、彼が何か問題を起こしたか? もし彼に責任があれば相応のことをさせようし、わたしもそうしたい」

 おれの腫れた頬が、殴られたものと見抜いたんだろう。気の毒そうにアリステイデスが言った。

「え、え、……」

 でも、それだけならおれも言葉が詰まりはしなかった。なんでそんな、ってくらい丁寧な口調だったのだ。なにせおれの主人がああいう人だから、それがただのご挨拶か本音かくらいは見分けがつく。だから驚いた。さすがファンダレオンの伯父、と絶賛すればそれまでだけど。

 そこに、マーレウスが緊張した面持ちで割って入ってきた。

「実は、このルシアスが、そちら様の奴隷に言いがかりをつけられたのです」

 さらに丁寧に、彼はそう告げた。

「なに?」

 アリステイデスが眉を寄せる。そんな彼に敬意をこめた上目づかいを向けて、マーレウスが冷静にいきさつを説明した。

「……というわけで、始めにぶつかってしまたのはルシアスですが、盗人と決めつけて暴力までふるったのはそちらの奴隷なのです」

「では、誰か一部始終を見た者はいるか? マーレウスというこの者の言葉に偽りがあるならば、そう申し出よ」

「女神アテナに誓って嘘は言っておりません」

 よく通る声で群衆に尋ねたアリステイデスにマーレウスが告げると、大工の親父がばっと挙手した。

「おれぁ見ました! この子が謝ってぶどうを拾おうとしたところに、問答無用でミュラが蹴りを食らわしたんでさあ。おれもアテナにかけて誓いますぜ!」

 どうやらミュラと面識があるらしい彼の目撃話が、最終的な決め手となったようだった。

「それでは、腹いせにこの少年に暴力をふるい、あらぬ疑いまでもかけたのか、ミュラ?」

 アリステイデスの鋭い問いに、ミュラは下を向いて沈黙した。たとえおれが泥棒だとしても、結局はぶどうを盗んでない。意地悪くいえば、盗む間もなく一方的に蹴られたんだ。

 奴の沈黙を肯定と判断したのだろう、アリステイデスはそれ以上は何も訊かずにおれに向き直った。

「すまなかった。ルシアス、といったか」

 本当にすまなそうだったから、おれは慌てて手をぶんぶんと振った。

「い、いえ! 元はといえばおれがぶつかったから──」

「しかし、ミュラが無為におまえを疑ってけがを負わせたのは事実であろう? 誰が相手であろうと公正にけじめをつけねばわたしも気が済まぬし、神々も納得なさらぬであろう」

「………」

 いともあっさりと言ってのける。おれは、このアリステイデスが「ますます貧乏になって帰ってきた」理由がわかったような気がした。

 この評判は、デロス同盟が結成された時に起こったものだ。デロス同盟は、アテナイを中心とするポリスがペルシアからの防衛を目的にして戦争終結の二年後、つまり今から三年前に結成された。南にあるデロスという小島に本部と金庫を置いたから、デロス同盟という名がついた。ファンダレオンに言わせると「アポロンとアルテミスが生誕した聖地だ。どこの支配もない中立の場所だからな」というわけで、デロス島になったのはそれなりの計算があったらしい。そして、加盟したポリスは兵や船を同盟に提供する義務が定められた。提供する兵力のないポリスは、年ごとに貢賦金をおさめることになった。

 ここで「正義の人」、このアリステイデスが登場する。

 アリステイデスは、現地に行って貢賦金の割り当てを決めるという大仕事を行った。安すぎれば同盟が維持できないし、高すぎればポリスの反発を招く。でも、彼はそれを見事にこなしてのけた。当然みんな楽をしたいから、賄賂とかを贈って貢賦金を減らしてくれるように頼む人だっていただろうけど、公正な査定をして「ますます貧乏になって帰ってきた」。だって、査定中に裕福になろうとするなら簡単だ。

『貢賦金を下げてやるから、何かくれ』

 と、言ってしまえば大抵の人は喜んで金品をアリステイデスに捧げるだろう。それを貧乏になってでも公正に徹した、ということだ。

 そして今、アリステイデスはおれにさえも公正に接してくれている。嬉しくて感動して、おれは彼に深く頭を下げていた。

「ありがとうございます、アリステイデスさま……!」

「いや。ところで、おまえの主人は誰か? できれば、一言挨拶したのだが」

 その瞬間、マーレウスの肩がまともに震えた。強ばった雰囲気がおれの肌に突き刺さる。

「マーレウス?」

 おれは彼を見た。言いにくそう、という程度じゃなかった。口を真っすぐ引き結んで、言えない、といわんばかりの硬い表情……でもファンダレオンはアリステイデスの甥だし、言わないわけにもいかないんじゃないだろうか。

 マーレウスの態度に引っかかりを覚えつつも、そう思っておれは口にした。

「ファンダレオンさま、ですけど──」

「そうか、ファンダレオンか」

 あれ……? と、おれは眉をひそめた。

 と、その時、マーレウスがやおら立ちあがっておれの手首をつかんだ。

「それでは、僕たちはこれで」

 言葉は恭しく、でもアリステイデスをろくに見ずに大股で歩き出す。容赦ない勢いでおれをぐいぐい引っ張りながら。疑問を挟む間もなかった。なんとか振り返ってアリステイデスに再び礼をしたのがやっとだ。

 そうしてミュラの横を通り抜けようという瞬間だった。

「………けっ、バルバロイの分際でさ」

 すれ違いざまに強烈な侮蔑をこめて囁かれて、──おれは一瞬、なんて言われたのかわからなくて茫となった。

「ルシアス」

 無視しろ、という風にマーレウスがおれの名を鋭く耳打ちする。が、逆にそのおかげで、おれはミュラの一言をはっきり理解した。

 直後、おれはマーレウスの手を振り払った。

「ルシアス!」

「誰がバルバロイだっ!!」

 おれはミュラに飛びかかっていた。驚いたんだろう、奴はおれに二発までおとなしく殴られる。でも、さすがに三発目は殴られてくれなかった。おれの腕をつかんで思いきり放り投げる! どしゃ、とさっきよりも余程痛く地面に背中を打ったが、頓着しないで起きあがる。ここでミュラを見逃す方が絶対に耐えられなかった。

「その肌や面からして、トラキアだろう! バルバロイをバルバロイと呼んで、何が悪い!」

 奴がぬけぬけと凄む。

 おれはぎっ、と唇を噛んで睨みつけた。

「ふざけんな! 父さんはヘレネスだ!! それ以上言っ……」

 怒鳴ろうとしたところで、

 鳩尾に誰かの拳を食らって、おれの意識はぷっつりと途絶えてしまった……。



 ──おれは、どうしてかファンダレオンの家にある奴隷部屋に寝ていた。豪華でこそないけど清潔な白壁の部屋は、間違いなくおれが寝起きしてる場所だった。

 途端に聞こえてきた、大声。

「ルシアスっ」

「気がついたのね!」

 マーレウスとアレウシアが、心配顔でおれを覗きこんでいた。おれは腹が痛いやら頭がくらくらするやらで何もできない。二人が慌ただしく動き出すのを、まだ白く濁る視界で見守るだけだった。

「マーレウスがおまえを抱えて帰ってきた時にはどうしようと思ったわ。ちょっと待ってなさい、水を持ってきてあげるからね」

 マーレウスが……おれを……抱えて……彼女の甲高い声に、おれは他の奴隷に何か言っているマーレウスを見つめていた。頭が痛くてたまらない。考える力が、湧かない。

「まったく、ずっとなにもなかったから安心してたっていうのに。おまえは忘れた頃にしでかしてくれるのね」

 そんな困惑気味の言葉を残して、アレウシアが部屋の外へと姿を消した。おれが、しでかす? 起きあがろうとした瞬間、おれの背中から肩にかけてが一斉に悲鳴をあげた。うっ、と呻いた自分の声で、気を失う前のことがふわっと浮かんだ。

 息が詰まるくらい悪意がこもった言葉が、空に走る雷のようにおれの脳裏を灼いた。

 バルバロイという、あいつの一言が。

 おれを泥棒と疑ったことなんかよりずっと許せなかった。あいつに殴りかかって、投げ飛ばされてから腹を殴られて気を失って──記憶はそこまでだ。ここに戻るまでは何一つ覚えてないけど、最後におれの意識を奪ったのは、あいつじゃない。あいつは真正面にいたけど、おれの腹に拳を叩きこむのは無理なほど離れていた。

 だとしたら……おれは出た結論を確かめるために、声をかけた。

「運んでくれてありがとう……でも、なんであいつと戦わせてくれなかったんだ?」

 振り向いたマーレウスは、自分がおれを失神させたのを否定しなかった。かけたかまを、彼は認めたのだ。そして、おれを見据えるマーレウスの目は本気で怒っていた。

「決まってるさ。おまえのせいでファンダレオン様に迷惑をかけさせないためだ」

 おれは思わず息を呑んでいた。

 冷たく固い声だった。これ以上はないくらいにおれを突き放す棘に満ちた口調が、さらにおれを責め立てる。

「おまえは誰だ!? ルシアス、今のおまえはファンダレオン様の奴隷なんだぞ! あれくらい我慢しろ! それがおまえの立場だ!」

「……マーレウスっ!」

 おれも怒鳴り返していた。

「でも、おれは黙っちゃいけなかったんだ!!」

 受けた屈辱が、再び身体の中でくすぶり出した。あいつはおれや母さん、そしておれが育った大地を侮辱したんだ。奴隷という立場なんて、はっきりいって屁でもなかった。

「黙らなきゃいけないんだよ、ルシアスっ!」

「いいや、違う! あれは絶対許せない!」

 マーレウスはファンダレオンが一番大事なんだろうけど、おれは違う。違うんだ──!

 大体、悪いのは向こうじゃないか。正確にはアリステイデスの奴隷一人だけだけど。まるでおれが全部いけないようなマーレウスの言い方に、かっとなって睨み返した。

「おれは自分が悪いなんて思ってない! 父さんはへレネスだけど、おれはトラキアで育ったんだ! バルバロイなんて言われて黙ったら、おれがトラキアに怒られるか笑われるさ!!」

 男の子は母親に似るという通り、おれの容貌は母さんに譲られっぱなしで、父さんに似てるのは気性だけって言われてた。あいつに生粋のトラキア人と思われても無理がなく、だから露骨な侮辱をしたんだろう。

 でも、父さんは言った。ヘレネスがいればそこはヘラスなのだと。あんなのは、どうしたって我慢なんかできなかった。

「ファンダレオン様はお優しいから、おまえを責めはしないさ! だからこそだ! あの方の立場を悪くするな!! ただでさえ──」

 マーレウスの口が、不意に止まった。

 その目が凝然と見開く……彼は、おれを通り越して背後を見てた。後ろには戸口がある。

 振り返って、ぎょっとおれも目を瞠った。

 一体いつからいたんだろう、という疑問があったけど、とにかくそこに「優しい」ファンダレオンが愉快そうな笑みを浮かべて立っていた。

「ただでさえ、なんだ? マーレウス」

「あ、ファ、ファンダレオン、様……」

 皮肉をもこめて訊くファンダレオンに、マーレウスは顔色がなくなる。おれも似たようなもので、その美貌を見つめるしかできない。

 ファンダレオンが事もなげに告げた。

「アレウシアが騒々しく廊下を走っていたのを問い質してな」

 そうしておれを見やる。まなざしは優しくて、だから感情がわからない。事情をアレウシアから聞いたはずのファンダレオンは、一体どう思ってるんだろう。

「ファンダレオン……」

 けれど、その顔を目にするとおれの心は安らいでいた。ファンダレオンに会いたかったんだ、ってわかった。この人ならきっとわかってくれる、と無条件に信じて。

 おれは彼の衣をつかんでいた。

「ねえファンダレオン、おれは……おれは、間違ったことやった!?」

「いや、していない」

 すがるように叫んだおれに、あっさりとファンダレオンがそう言ってくれた。ああ、やっぱり、と胸がじんと熱くなる。彼の中に全てを受け止めてくれる大きさが見えた。

 安堵して息をついたおれと反対に、半ば目を血走らせてしまったのはマーレウスだった。

「ファンダレオン様! ですが、相手はアリステイデス様の……っ」

「構わぬ。問題なのは私ではない。ルシアスが伯父上の奴隷に泥棒に間違えられた、という事だ。本当に盗んだなら問題だが、違うのだろう?」

「アテナに誓って泥棒なんかやってないし、やろうとも思わなかったさ!」

 マーレウスの刺すような視線を背中に感じながら、おれは即座に女神に宣誓した。

 苦笑に近い微笑を浮かべて、ファンダレオンが満足そうにうなずく。

「ならばそれでいい。非はあくまでも伯父上の奴隷にあるのだから、向こうに遠慮する必要はない。第一、伯父上との間についてはルシアスの責任ではない。おまえに気を遣わせる私の咎であろう?」

「ファンダレオン様っ……」

 ですが、しかし、と口をもごもごさせて、納得しきれないようにおれを険しい目で睨みつける。が、結局は何も言わずにマーレウスはうつむいた。ファンダレオンに諭されたら仕方ない、と落とした肩が語っている。とにかく彼を敬愛して心配してるだけで悪気がないのはおれも、もちろんファンダレオンもわかってるんだろうけど、そういう姿をされるとおれも悪い気がしてしまった。

 気まずい沈黙から少しして、ファンダレオンが親指で部屋の外を指し示した。

「だが、ルシアス。おまえに話がある」

 一方的に告げ、ついてこいといわんばかりに後ろも見ずに出て行ってしまった。おれも立ちあがる。振り返った先で、マーレウスが怒りをくすぶらせた表情をたたえていた。マーレウスはきっと、おれに嘘をついてたんだろう。ファンダレオンとかアリステイデスとかのことも、そしてもっと他のことも知っているのに違いない。そして、それはおれがどうっていうんじゃなくてファンダレオンのためだったんだろう。

 それでも、おれはどうにもできない。

 ファンダレオンの立場がどうなってもマーレウスが怒ってもトラキアは大切な故郷で、おれはトラキア人でもあるのだから。

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