ヘレネスとバルバロイ・上
東の大帝国ペルシアとの大きな戦いは、時期でわけると二度あった。アケネメス朝ペルシアの大王がダレイオスだった時、そしてダレイオスの息子クセルクセスの時とで二代に渡って。
十六年前の前四九○年、東方を完全に征服したダレイオスは、次にヘラスを侵略しようと出陣した。エーゲ海を隔てたリュディアのヘラス植民市がペルシアに反旗を翻し、彼らの救援願いをアテナイとエレトリアが承諾したもんだから、叩かなきゃいけないって。
ヘラスのほとんどは海上交易で生活してたんだけど、ダレイオスはヘラスを牽制するために同じく海上交易を主としているフェニキア人を重用した。その不満から、ミレトスを中心とするリュディアのイオニア系ポリスが反乱を起こしたんだ。これは鎮圧したものの、ダレイオスは報復のためにヘラス全体をも支配下に置こうとした。
テミストクレスはその時「
そして、その四年後にダレイオスがエジプトで病死したんだけど――次に即位したクセルクセスが、前四八○年にまた大遠征を始めてしまった。
それが二回目の「ペルシア戦争」。
ラケダイモン軍三百人がレオニダス王を含めて全員戦死したテルモピレーの戦い、アルテミシオンの海戦、サラミスの海戦、翌年のプラタイアイの戦い。特にサラミスではテミストクレスが神業のような策謀をふるい、おれの主人ファンダレオンが参加して将軍を討ち取ったということだった。
そうやってヘラスが一体となり、圧倒的な戦力差を越えて奇跡のような勝利を収めてから、六年。
今、前四七四年一月(七~八月)、ヘラスの勝利の過去が輝かしい「伝説」になろうとしている時に、おれは、アテナイで奴隷として生きているんだ……――。
これはアテナイの子ら、ペルシア勢を討ち滅ぼして、
みじめな隷従のさだめを、祖国からふせぎえたもの
この詩を詠んだのが誰か、おれは知らない。でも、ペルシアの奴隷にはならずにすんでも戦争そのものがおれを隷従の身にした。そう言うと、ファンダレオンは苦笑して葡萄酒をあおった。
温情家として有名なこの人は、別の奴隷におれに様々なことを教えさせるかたわら、不意に感想を求めてくる。今だって、どう思ったか、と尋ねられたから答えたんだ。
それに、おれはアテナに誓いを立てさせられてる。正直な言動をするように、と。これがファンダレオンのすごいというかわからないところで、奴隷にさえ絶対に媚びへつらいを許さない。
「確かにそうだ。しかし、大局的に見れば、おまえが奴隷になるよりもヘラス全体がペルシアの奴隷になる方が痛いからな。あの戦いで終始余裕を保っていたのは、テミストクレス殿くらいだった。私も不思議に思った。なぜこれほど自信を持っていられるのだろう、と」
伯父上でさえサラミスで勝つまでは不安げだったのだが、とファンダレオンが回想の声音で言った。
その「伯父上」を思うと、ちょっと怖くなる。ファンダレオンは見るからに身分が高そうだったけど、まじにその通りだった。彼は「正義の人」アリステイデスの弟の息子、つまり甥だという。まさかそこまですごいとは想像もつかなくて、始めはどうしようかとびびった。
アリステイデスもテミストクレスと並ぶアテナイ、いやヘラスの英雄だ。当然ファンダレオンと同じアンティオキス族で、温厚で高潔な人柄からテミストクレスを凌ぐ声望があるらしい。まだ会ったことはないが、テミストクレスみたいな格のある人なんだろうな。
ただ、ファンダレオンがアリステイデスの名を口にする時はに必ず、複雑そうなものがあった。
表情の変化が少ない人だし言葉で命じられたわけじゃないけど、だからおれは知らず知らずのうちにアリステイデスの話題を避けるようになっている。人の顔色を敏感に察知することを、それでもおれは覚えていた。
「対等」という与えられた立場と「奴隷」という身分の間を渡るための術を。
それだけの時間が、おれがファンダレオンに買われてから経っていた。そう、一ヶ月もの日々が風のように過ぎたのだった。
一昨年にオリンピア祭が終わったものの、アテナイはやっぱり賑やかで騒がしい。
オリンピアは神々が住んでるというオリュンポス山周辺の神域で、四年に一度、そこにある競技場に全ヘラスから選手が集まって主神ゼウスの前で競い合う。円盤投げなど陸上競技が花形だけど、大会によっては演説や絵画なんかも競われる。この祭は三日間で、その中日が夏至の満月日になるように予定を組まれるから、アテナイでいうと年明け早々になるんだ。で、予定が決まると参加を呼びかける伝令が駆け回り、そうして二ヶ月間に渡って戦争や裁判や死刑執行などが止まる。優勝者にもらえるオリーブの冠はものすごい名誉だし、その名誉は選手が所属するポリスも同じだから騒ぎは半端なものじゃない。それに、ペルシアに勝ってから初めてのオリンピア祭だったものだから、もう次に向かって燃えて頑張っているアテナイ市民もいる。
そんなことをアゴラで見聞きしたせいで、余計に時の女神が吹く笛音に寂しさを感じるんだろう。夕焼け空と茜色に染まってる帯状の雲を見ると、おれは鳥になりたいって言ったラルアの気持ちがわかると思った。
そう、ラルアはどうしているだろう。
おれが売られた翌日にはもうじじいの店には立ってなかった。
「ラルアはどこ?」
どこかに買われたのは間違いない。でも、じじいに訊いても、おれを売った時のことが頭に来てるようで、しかめっ面でそっぽを向いて徹底的に無視しやがるんだ。ファンダレオンに頼めばじじいに吐かせるとかしてラルアを捜してくれるかもしれないけど、いくらなんでも奴隷にそこまでしてくれるなんて思えなかった。いくら正直な言動をしろったって。おれが使える従者になれば聞いてくれるかもしれないけど、まだ一人でアゴラを歩くのも不安なざまだし。
そんなおれにできるのはファンダレオンに認めてもらえる従者を目指して頑張ること、ラルアにまた会えるのをアテナに祈ることだった。おれは一日一回はアクロポリスがある方に祈ってる。一度アレウシアに見つかって、ラルアのことを話して、その時はからかわれて困ったけど、でもアレウシアはそれからは何も言わなかった。
離ればなれになった奴隷が再会するなんて、やっぱ難しいよな……アゴラでは見回して捜してるけど、家の中でずっと働くことになってるかもしれないし……最悪、アテナイからいなくなってるかもしれない……。
「今日はいい天気だったよな」
ラルアのことを考えていたおれの横にいる少年が、そう言ってきた。典型的なマケドニア人の顔立ちをしている中で一際目立つ青がかった瞳が、おれはすごく好きだ。
「きっと明日もいい天気なるよ、マーレウス」
空を見たまま、おれは答えた。海の香りを含んだ湿った風が吹く。あの船旅を思い起こしてしまって、おれは思わず顔を背けた。
うなずいて、だけどマーレウスがちょっと迷うように唸った。
「けどさ、たまには雨もな……冷たくて気持ちいいんだよな。ちょっと浴びに出て、怠けるなって親父に怒られたこともあるよ」
「ふうん……」
アテナイでは四月(十~十一月)くらいまでは乾期で、ぱらぱらって小雨ならまあ時々はあった。けど、その時はいつも家の中にいたもんだから、気持ちいいかなんてのは今はわからない。おれは首をかしげてしまった。
「トラキアの雨はそうじゃないのか?」
一応おれは頭を振った。
「おれの村は南のアブデラ寄りでさ。オドリュサイの方が「トラキア」っていうのかもしれない。あっちの方は余りわからないんだ」
「オドリュサイって、トラキア人の国だよな。ルシアスはその国の人じゃないのか?」
「違うよ。父さんはヘレネスだし、トラキアはペルシアとの戦争の時に征服されてるから、オドリュサイはヘラスの敵に近いし」
アブデラの北には、トラキア人のオドリュサイ族が建てた国がある。騎馬民族で強壮だから、トラキアの植民市は貢ぎ物を捧げていた。そう、オドリュサイはペルシアに従わさせられ、動員されてヘラスと戦った。だから、プラタイアイに向かった父さんと悲しげに見送った母さんの間で、どうすればいいかわからなかった記憶がある。おれはヘラスとトラキアのそれぞれに属するのに誇りを持ってたけど、ああして敵味方にわかれた時だけはヘレネスでもトラキア人でもない気がして、たまらなかったな……遠い北の故郷を思い出して鼻が痛くなる。でも、今はもう、みんな元気にやってると信じるしかない。マーレウスに気取られないように、おれは寂しさで歪みかかる顔の肉に力を入れた。
マーレウスはファンダレオンの奴隷の息子で、おれの一歳上の教育係だった。アゴラにアテナイの全てがある、というファンダレオンの考えから、おれは彼の従者に足る常識や教養を身につけるために一日一度はマーレウスと一緒にアゴラに出ていた。
そして、本当にそうだと思う。アゴラには、あらゆる身分の老若男女が様々に集ってポリスをそのままに物語ってる。溢れる物資は豊かさとデロス同盟の盟主としての強さを、明るく活気ある空気は平和を。コパイス湖の鰻でも香水でもなんだってあって、座りこんで論議に花を咲かせる市民たちがそこら中にいる。盗み聞くと楽しいし、値切ろうとする客と売人の駆け引きもまた聞き飽きない。かと思えば、裁判の日取りが公告されている。裁判は、内容によって裁判所法廷がアレオパゴス、アゴラのパラディオンとデルフィニオン、ペイライエウスにあるプレアトスの神域とにわかれ、アレオパゴス以外は、三十歳以上で債務がない市民が籤に当たればなれる陪審員と、五十歳以上の市民五十一人の裁判官が被告を裁く。被告が無生物のこともあるし、重大事件はアルコンが予審したりアゴラで行われたりもするそうだ。アゴラにあるそれぞれの営みから、おれがおれなりに何かを学ぶのを望まれているんだろう。
主人に対して失礼だろうけど、ファンダレオンは不思議な人だ。
「どういう従者になるか楽しみだ」とさらりと言っただけで、おれに「こういう従者になれ」とは命令しなかった。それに、時には一緒に畑仕事とかをやってくれる。昔は主人も奴隷と一緒に仕事をし、ヘシオドスという人が「労働と日々」というものを書いて働くのは素晴らしいって言ってたけど、豊かになった今では奴隷の仕事をするのは卑しいらしい。
「主人の知識」「奴隷の知識」という言葉がある。市民と奴隷では知るべきことが別で、奴隷は麦の育て方や料理など家内仕事、盾の造り方や笛の吹き方といった技術を知ればいい、市民は奴隷の使い方や政治や学問を学べ、というんだ。実際、奴隷に専門技術を身につけさせて手工業奴隷として稼がせる市民もいる。ちなみにファンダレオンはやっていないから、仕えてる十人全員家内奴隷なんだけど。
でも、ファンダレオンはおれにいろいろ学ばせてくれてる。単に温情家って理由で、自ら叙事詩を教えてまでくれるだろうか。なんか、もっとずっと違う気がする……はっきり何かとはわからないけど、最近はそんなファンダレオンに会えた幸運を神に感謝している。
だって、奴隷に枷をかけて監視してるっていうところもあるんだから。
「ねえ、マーレウス」
「なんだ?」
マーレウスは親子でファンダレオンに仕えてるから、ふと思いついて訊いてみた。
「ファンダレオンは、昔からああいう人だったの?」
ちらりとマーレウスの顔色が変わった。
マーレウスは、おれがファンダレオンを呼び捨てにするごとに険しい表情になる。呼び捨てなんて滅相もないという。それもそうだ、とおれが納得したのは早かったが、マーレウスが納得するには少し時間がかかった。
それでも、マーレウスの顔色は当初よりかはずっとましになっている。けど、だからこそおれはファンダレオンの扱いが破格と思い知った。アテナイでは、鉱山奴隷なんかでさえなければ差があっても奴隷の扱いはそう悪くないことを学んだ。それに、おれだってちゃんとファンダレオンから日当をもらっている。奴隷は虐待がひどければ神々の聖所に逃げられたし、「売ることを求める」権利を行使して他人に売ってもらうこともできるんだ。もっとうまくいけば解放してもらえることもあるし、中には給金で奴隷が裕福になって主人が貧乏という極端な家もある。
だけど、ファンダレオンほどに奴隷を対等に扱う人はいない。だから温情家だなんて有名になってるんだろう。
「ああいう、って?」
「ええと、奴隷に優しい、いや優しいっていうんじゃなくて、同格に接してるっていうか、そういうことだよな……」
おれも言葉が見つからなくて困ってしまった。少なくとも温情家って言葉はふさわしくないと思って、だから続きに詰まる。
だけどマーレウスはわかってくれた。
「あ、なるほど。ああ、昔からそんなところもおありだったよ。今みたいに徹底的にそうなったのは、サラミスに行かれてからだな」
そうか、サラミス沖でペルシアを撃退してからなのか。
けど、それはアテナイの「常識」からすれば変なことだった。
「でもさ、ファンダレオンはその時、十八歳だったんだよね? だったら、どうして出陣できたんだろう」
アテナイでは、男子は六歳頃になるとつきそい奴隷に送り迎えされて教育所に通い出して体育を中心に音楽、読み、書きなどを習い、十八歳で「
もちろんファンダレオンも例外じゃないに決まっている。なのに、それでも出陣して、出られるはずのない戦場に立てた。今はそう知っているから、心に引っかかった。
そういえばサラミスの海戦少し前──市民の多くは避難していたそうだけど──ファンダレオンが成人したその年に、アテナイはペルシアに侵略された。パルテノンが放火されたのもその時だ。そういう非常事態だったからかな。それとも、何か別の理由が?
マーレウスも首をかしげながらも、自分が知っていることを教えてくれた。
「それがさ、ファンダレオン様が従軍を希望したのをテミストクレス様がそのまま許可なさったらしいよ。親戚だから、アリステイデス様は反対なさったそうだけど……」
「それを、ファンダレオンは押し切ったの?」
「テミストクレス様とアリステイデス様がもめたらしいけど、ファンダレオン様がサラミスで活躍なさったからとうとう諦めたって聞いたよ」
おれは目を丸くした。マーレウスの話は初耳で、何より意外だった。「命を懸けるのは一度で充分」なんて言ってたから嫌々かと思ってたのに。そういう事情だから、ファンダレオンはアリステイデスのことは複雑そうに話すのかな。おれの親戚がそうだったら、よくやったと誉めるぐらいだけど。
でも、だったらなんでファンダレオンは伯父のアリステイデスじゃなくて、伯父の政治的な敵手にあたるテミストクレスの従者を希望したんだろう。
そう、慎重で堅実なアリステイデスが政策を持ち出すたびに大胆で派手好きのテミストクレスが片っ端からつぶしたし、その逆もあった。それでアリステイデスが他人に代わりに提案してもらった時もあったという。ファンダレオンの話を聞いていると人間としても正反対だって感じがするから、きっと争うべくして争ってるのかも……そんな相手なのに。
おれは知らないうちに呟いていた。
「わからないなあ……」
「何が?」
「え、ああ、ううん……ファンダレオンって不思議な人だなあって。だって、今はあんなにテミストクレスさまに誘われても無視しっぱなしじゃないか」
これには彼も残念そうにうなずいた。
「そうだよな、どうしてなんだろう。あの方だったら、きっとすごい人になるのにな」
どうやら、親子揃って仕えてるマーレウスにもわからないらしい。手柄や地位が欲しくて参加したんじゃないんだろうか。いや、民会さえ出ようとしないほど、ファンダレオンは徹底的に政治に係わるのを嫌がってる。
だからこそ、考えれば考えるほどわからなくなってしまった。ファンダレオンは、何を思って無理やりに参戦したんだろうか……。
そんなことを考えてたせいで、おれは誰かの背中に突っこんでしまった。
「いてっ──!」
「ルシアスっ」
「ご、ごめんなさいっ!」
相手の悲鳴とマーレウスの声とおれの謝りとがほぼ同時に重なる。ばたばたばたっ、と早実りのぶどうが地面に落ちた。家で酒にでもするんだろうそれを拾おうと慌てて屈みこんだ、その時──おれの鳩尾に、凄まじい蹴りがまともに入った。
「ルシアス!!」
「ぐ……っ!」
目の前が一瞬、暗くなる。気づいた時には地面に倒れていた。頭が痛い以上にすごく重い。マーレウスが血相を変えて何か言い立ててる。顔をあげると、大男が憎々しげにおれを睥睨してた。アッティカ人の面差しで、戦士みたいな屈強な体つきはかすむ目でもよくわかる。どうやら運が悪いことに、おれはこの男にぶつかってしまったらしかった。
「このくそがきが!」
男が怒りに顔を赤くして怒鳴る。不意打ちで蹴りをくれてきたのも彼に違いない。
マーレウスがきっと相手を睨み返した。
「ぶつかっただけじゃないか! それに、ルシアスは謝ってあんたの荷物を拾おうとしたんだ! こんな風に暴力をふるうなんて!」
いくら前方不注意だからって、確かにおれだって悪気があったんじゃなかった。マーレウスの言分に心から同感だったが、二十歳くらいのそいつは馬鹿にするように息を吐いた。
「どうだか。拾うふりしてかすめ取ろうとでもしてたんじゃないのかよ」
おれを助け起こすマーレウスに、相手が悪意をこめて言い切る。真偽を訊くどころか完全に決めつけてる口調だった。
「なんだと!?」
「おれはおまえに言ってんじゃない、そのがきに訊いてんだよ」
ぶつかった怒りからか、この男はおれを窃盗未遂と疑っているらしい。マーレウスがぐっと唸った。相手に正しいからじゃなくて凶暴な迫力に圧されたんだろうけど、周囲の人だかりにはおれたちが不利と映るだろう。
おれは痛む腹を抱えながら、なんとか身体を支えた。
アッティカ人とはいえ服装からみて奴隷みたいだ。こんな風に考えるようになってしまったのが辛いが、何を言っても構わない相手なのは幸いだった。
「おれはそんなことしてないよ」
「そりゃあ、失敗すりゃそう言うよな」
男が大げさに肩をすくめて嘲笑った。おれを泥棒と思いこんでるから、おれに対して曲がった見方しかしてくれない。さすがにむっときて、おれは一発ぶつけることにした。
「あんた、もしかしてばかじゃない?」
ファンダレオンのように静かに、ゆっくりと突っかける。もしかしなくてもばかだと思ったが、ここは厭味だ。政治も裁判も弁論が物を言うアテナイだ、言葉が通用しないなら打ち負かすしかない。
面白いくらいにあっさりと、その男の眉がすごい角度に吊りあがった。
「なにいーっ!?」
「ルシアスっ」
「あんたも奴隷なんだから、ぶどうくらい数を確認して買ってるんだろ! こんなことになってからぶどうが足りなくなったら、どんな間抜けだって一発で思い当たるさ! ぶつかったからってしつこくふっかけるなんて、年下相手にみっともないと思わないのかよ!!」
ざわ、と人垣が一度盛りあがってから、しんとなった。男が黙る。出会った時から問題があったおれに、ファンダレオンが効果的な舌の使い方を教えてくれた。最初に相手の神経を逆撫で、次いで一気に押し切れと。
だけど、向こうは黙った代わりに拳を出してきた。
殴り飛ばされながら、頬に走る激痛の中で自分の誤りをおれは悟った。あれはファンダレオンのような品位ある喋りでこそ通じるんであって、激しく言葉を叩きつけた時はかえって火に油を注ぐだけ……勝ち誇った奴の声もマーレウスたちの悲鳴も、どんどん遠くなる。
地面に倒れた時、がつんという音と一緒に火花が見えた。
──このまま気を失ったら無責任だよな。
薄れゆく意識で皮肉に思った瞬間、おれの感覚は引き戻された。
轟くような十数の喚声がおれの耳を打つ。
「何が起こったのだ、おまえたち」
こんな通りで、と柔らかな男の声が問うた。
目を開けたおれは、うっすらとだが一応は見たのだった。ぎょっと驚いた奴隷の男の顔と、人垣から満を持したみたいに悠々と現れた中年の貴人を。
マーレウスが息を呑む。誰なのか知ってるからできる表情だった。
これまでの鋭気を消すばかりか狼狽も露に、男がおろおろと慌て出した。
「ア、アリステイデス様……」
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