アテナイの売物・下

ファンダレオンが腰を軽く折り曲げて笑い出していた。おれはぎょっとなって言葉を失ったけど、それでも美貌の主人は笑い続ける。何がどうおかしいのかわからなくて、アレウシアと顔を見合わせてしまった。ファンダレオンの後から笑い始めたテミストクレスに至っては、手まで打っている。

「これはいい」

 ファンダレオンが笑いながら一言漏らした。

 テミストクレスも、そんな彼に二度くらいうなずいてから言った。

「許せと言わずに累は及ぼすな、とは……これは本物だ。わしは気に入ったぞ、この少年」

 あっけにとられてぽかんとしていたおれは、テミストクレスに肩を引かれてはっとなる。

 彼の威厳ある顔は、今は父さんの笑顔のようにとても朗らかになっていた。

「ルシアス、ファンダレオンはそれほど悪い主人ではないぞ。冷たげな顔に合わぬ、例にない温情家として有名なのだからな。その娘とて、ファンダレオンが最後は許すと信じているからこそ飛び出したのだろうからな」

「でも、アレウシアはファンダレオンさまが」

「許さぬと思ったから出てきた、というのか」

 おれの言葉を遮って、テミストクレスは弟子の間違いを諭すように大きく頭を振った。

「だが、ファンダレオンがおまえを許さぬとわかっていれば、おまえを庇った自分もどうされるかわからぬのに出てくるとでも思うか? そうではなかろう。それとも、その女があえて出てくる理由があるのか? 買われたばかりのおまえに」

 理路整然とした言葉に、おれは絶句した。

 アレウシアが、同郷だからとかいう大雑把な理由だけで飛び出すとは思えないし、それ以外の理由なんかあるはずがない。テミストクレスが指摘した通り、おれと彼女はたった今出会ったばかりだった。

 そんなおれに、命まで賭けるはずがない。

 だとしたら、アレウシアが一番したたかということになるけど……見ると、彼女はさらに深く平伏している。テミストクレスが言ったことを認めているんだと、おれは直感した。

 ──迷惑かけてごめんね。だけど本当にありがとう、アレウシア。

 後で言うつもりだったけど待ちきれなくて、おれは心の中で何度も呟いた。

 テミストクレスはおれを気に入ってくれたようだけど、おれにはアレウシアの方が余程すごかった。出会ったばかりの奴のために、たとえ殺されないと察してたってとっさに出られるものじゃない。テミストクレスはアテナイの実力者で豪胆で頭も切れるから、アレウシアが知恵をめぐらせた程度だと言うのかもしれない。けど、身分の重みがある人間にとっては、主人の前に出るなんてどんなことでも死活問題だ。たとえ温厚だっていつどうされるか、おれはたった今その恐怖を味わった。

 だからこそ思わずにはいられない。アレウシアの勇気こそ本物だ、と。いくら感謝しても全然足りない、そんな思いをこめて彼女を見つめると、アレウシアは小さくうなずく。

 もう危ないことはしてくれるな、と言ってるような綺麗な瞳に、おれはうなずき返した。

 それにだ、とテミストクレスが言を継ぐ。

「逆を言えばルシアス、おまえはファンダレオンの人柄を知らぬくせに、出会ったばかりの女奴隷を庇おうとしたのだ。その勇気の強さを認めぬような者を、なぜこのテミストクレスが部下に欲しがるのだ」

 自分自身への自負をも孕んだ豪快な台詞だった。が、テミストクレスにはそれに嫌悪でなくて「当然」と思わせるものがある。それが頭が切れるとかいうものとは別の、この人の「天才」かもしれなかった。

「ルシアス。テミストクレス殿に褒められるとは、本当に五ドラクマでは安かったな」

 仕官めいた話のせいか、ファンダレオンが苦笑混じりに言う。話をそらしてるのかもしれない。でも、さすがにうなずいたりはできないので、おれは曖昧に愛想笑いした。

 テミストクレスも満足そうにファンダレオンの肩を叩く。

「おまえの人を見る目はまったく本物だ、ファンダレオン。将軍どもを見定めるばかりか、奴隷からも輝石を見出す。だからこそ、おまえの力を借りたいのだがな」

 とことんこだわる彼に、ファンダレオンは苦笑をさらに深めて肩をすくめた。

「いかに褒められようと、そればかりは」

 立とうとしたおれに手まで貸してくれた時、冷たく感じていた鋭い目は穏やかな温かみを宿していた。

 これがファンダレオンの本当のまなざしなのかもしれない、と、おれはふと思った。



 二十三歳──それが、五年前にサラミスの海戦で奮戦したというファンダレオンの年齢だった。

 おれより十歳年上だけど、世間から見たら若い。いや、若すぎる。それにしても、今が二十三ということは十八歳でサラミスを戦って、テミストクレスが言うには敵将の首まで取ったということだ。なのに、もう命を懸けるのは一度で充分だなんて突き放してるのは、どうしてなんだろう。

 反対ならともかく手柄まで立てたのに……。

 テミストクレスと別れてから、ファンダレオンは露店で食べ物ばかり幾品か買い求め、サンダルの修理を靴屋に頼んだ。そして、どうもそれだけで家へ帰るつもりのようだった。

 それも、城壁外に。裕福な市民なら自分の所有地の家と市内の家と二つ持ってるのに。

「何か言いたげだな、ルシアス」

 前を歩いていておれの表情を見られるわけがないのに、ファンダレオンはそう訊いてきた。振り向かずに。なんでもない、って言える雰囲気じゃない鋭さが背中にあったから、おれは仕方なく恐る恐る従った。

「このまま、帰るんですか?」

「そうだ。私の家はアロペケ区にある」

 それがどうしたかといいたげな、あっけない即答だった。これから運動場で汗を流したり人と談笑したりしないのかな。おれは目が点になってから、好奇心というか、そんな気持ちを押さえきれなくてファンダレオンに再度声をかけていた。

「市内の家はないんですか?」

 わずかに彼の目が見開いた。

「よく知っているな。公事が面倒だし、いい運動になるから私の家は一つきりだ。他は?」

「……どこかに、寄らないんですか?」

「別に。見た限りでは親しい知己もいないのでな、少し早いが帰って昼食を取る」

 またも一直線に言い切るファンダレオンだけど、本当にいいのかな。さっきテミストクレスから食事に誘われてたのをにべもなく断ってしまったのは、あんたなんじゃないか? それとも、親しいと思ってるのはテミストクレスの方だけ、なんだろうか。

 でもアロペケ区ってどこだろう、と思わず呟くとファンダレオンが不意に尋ねてきた。

「クレイステネスを知っているか?」

「ペイシストラトスの後に出てきた──」

「名門アルクマイオン家出身で、三十年ほど前の『改革者』だ。非合法手段で政権についた者、つまり僭主の政治の善し悪しはその僭主自身の資質が全てだ。独裁政治なのだからな。ぺイシストラトスは『最良の僭主』とまで呼ばれたが、息子どもが父に似ない無能者だった。彼らはやがて暗殺され、後に登場したのがクレイステネスだ。クレイステネスをどう思う、ルシアス」

 そんな質問をぶつられても困る。

 生まれて十三年しか経たないおれに名前しか知らない人について訊かないで欲しい、そう言えたらいいのに。でも、さすがにやばいだろうから、おれは無難を心がけて答えた。

「すごい人じゃ、ないんですか?」

「確かにな。新しい、つまり、今のような政治制度を整え、アッティカを三分割した」

「三つ?」

「内陸部、都市部、海岸部にな。クレイステネスは次にそれぞれを十に分けた。『三分の一』と呼ばれるものだ。そしてこれを一つずつ、先の三分割から組み合わせたものを『一部族』とした」

 つまり、内陸、都市、海岸から『三分の一』を一つずつかけ合わせたってことなのだ。

「ええっと、そうすると、部族は十あるんだ」

 指折り数えて計算すると、ファンダレオンはうなずいた。

「そのうちの一つがアンティオキス族。アンティオキスはヘラクレスの息子で、私たちは彼の子孫なのだそうだ。中央市庁舎の前に件の十部族の銅像が立っているから、そのうち見るといい。そして、アテナイのすぐ東北にあるアロペケ区はアンティオキス族に所属するのだ」

 なるほど、そういうわけなんだ。でも、おれがすごい人じゃないのかと訊いた時にファンダレオンの顔に浮かんだ翳りは、一体どういう意味だろう。でも、尋ねようとする間もなくファンダレオンの言葉が続いた。

「ところでルシアス。今さら敬語を使われても気色悪い。対等な口をきけ」

 どこか楽しそうだった。こういう風にされると、この人がおれを気に入っているのかどうなのかわからなくなる。素直にうなずくのも不安で、おれは頭を振っていた。

「ですけど」

「構わない。聞かぬなら売り返してもよいのだぞ、あの商人に」

 別に売り返されるのはどうでもいい。ただ、あんなじじいに海に投げこまれるなんてのはごめんだった。ファンダレオンの後ろ姿に向かって反射的に、再び首を左右に振る。

 ……月夜、静かな海に落とされた少年は、船の中にいた奴隷予定の人の中では一番の友達だった。父の後妻に無理やり売られたのだという。中継の港に着くごとに脱走しようとしては失敗して、折檻を受けていた。でも、見せしめとして彼が海に投げこまれた本当の理由を、おれは知ってる。じじいの求愛を手ひどく断ったからだ。あの時、あいつと一緒に奴に呼ばれてたおれは一部始終を覚えてる。

 そして、奴は逆上してあいつを殺した。手足を縛りつけ、船員に命じて闇より深い暗い海に落とさせて。目の前での友の最期に泣くおれの背中を後ろからおもむろに抱いて、じじいはとても優しい声で告げた。

 あいつのようにはなりたくないだろう、と。

 ただただ奴の残酷さに恐怖してたおれは、結局その夜に、あいつの死の衝撃で感覚がなくなった身体を弄ばれた。恐怖はいつしか憎悪になったけど、平気でなんかいられるはずがなかった。

 あの、生きるためにであっても身体を投げ出すしかなかった忌まわしい記憶そのままの場所になんか、おれはもう戻れない。一度、こうして離れた今になっては──。

 だからファンダレオンの命令には従わなければならないけど、それが「対等になれ」じゃ戸惑うばかりだった。もしかしたら、ファンダレオンはおれを試してるのか?

 答えに困ったおれは、そこでいいと思われる方法を考えついた。

「でも名前は? 主人を呼び捨てには……」

「おまえを奴隷の枠に括って『おまえ』でなくしては、意味がない。私は生きた人形を買ったつもりはないのだ」

 もっともらしく首をかしげると、ファンダレオンが間を置かずにそう言い放った。どうやら本気で対等に立場を持とうというのらしい。

 けど、いかにも見下した物言いに、おれは今回も口を滑らせてしまった。

「『道具』を買ったからですか?」

 隣のアレウシアが怯えたように肩を大きく震わせた。焦ったのはもう言ってからだ。ファンダレオンが初めておれに振り返った。

「そう言えば、必ず反応を返すと思ってな」

 商人に食ってかかった気性だからな、とおかしそうに笑われた。焦っていたおれは、今度はその余裕の言葉に呆然となった。全てお見通しだったわけらしい。たったあれだけのやり取りで性格は把握ずみだなんて、ファンダレオンにはきっと敵わないと脱力した。あの時も、おれがまんまと食ってかかったものだからあんなに大笑いしたのに違いない。

「そう、ファンダレオンでいい。『様』などと呼べば、鉱山奴隷としてやろうか」

 鉱山は当然国有だから、国有奴隷が採掘することになる。でも、中にはいるんだ。自分の奴隷を鉱山に貸し出してもうけてる奴が。

 ファンダレオンは冗談混じりだったが、おれはその一言で半ば震えあがった。船内では「鉱山奴隷だけはなりたくない」という話題が一日に三度は出たからだ。家内奴隷や商工業をさせられる手工業奴隷はまだましだが鉱山奴隷だけは違う、とマケドニア出身の中年男が言ってた。彼の怖がりようは本物だった。だから、ろくな場所じゃないに違いない。

「とと、とんでもない!」

 ぶるぶると頭を振ると、ファンダレオンの瞳がおかしそうに細まった。

「ほう。誰かから聞いたのか」

「え、ええ、ちょっと……」

「別に責めるつもりはない。──そうだ」

 いきなり、彼がぽつりと言った。

「えっ?」

「ひどい場所だ。ああしなければアテナイはアテナイではあれないのかと尋ねたことがある。答えは単純明快だった。『野蛮で反抗的な奴隷どもを働かせるにはああするしかないのだ』」

「野蛮……」

 そりゃあヘラスはすごい力を持ってるけど野蛮とまで言われる筋合いはないぞ、とおれはむっとした。

「ヘレネスからはそう見える習慣などは、逆を言えば彼らの文化なのだろう。ただ、ヘレネスは自分たちを誇る余りに他族を比べ、見下す対象としてしか見なくなっているきらいがある。それだけの、それだけに決定的な意識があるからこそ、平気で奴隷を酷使できるのだろう」

 同情とは思えない悲しげな台詞と瞳の色も、一瞬のことだった。

「ともかく、そういうことだ。わかったな、ルシアス」

「はい、……ファンダレオン」

 とっさに答えると、ファンダレオンは口元に笑みを浮かべた。穏やかな満足の表情に、おれは不意に不思議になった。

 ファンダレオンはどこか違う。容姿とか性格とかじゃなく、この人の考え方とかが。奴隷に名前を呼び捨てにさせるなんて……それともアテナイ人はみんなこうなんだろうか。いいや、テミストクレスが「類のない温情家」と言ってるくらいだから、そうでもないみたいだ。奴隷に優しいのと奴隷と対等に接するのとは、やっぱり決定的に違うと思うから。

 だから、おれにとってファンダレオンは、今や文字通り生きた「謎」だった。大戦争を経験し、生きてきた時間もおれとは十年も違うんだから、それこそおれが理解できないのは当たり前かもしれない。

 でも、おれが奇妙に思うのはそれだけじゃなかった。そう、なによりテミストクレスがあれほどまで高く評価してるのに、その誘いを断る顔は不機嫌なばかりかとても冷ややかだった。

 すべてを、突き放すように。

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