アテナイの売物・中

「おまえ、トラキアの子だそうね」

 横を歩いていた、水瓶を頭に乗せた奴隷女の一人が不意にこちらを振り向いた。兄貴と同じくらいの年格好をした人だ。麻紐で束ねた長い黒髪は乱れてたけど、文句なしの美人だった。どことなく母さんに似てる。褐色に焼けた肌の色具合なんかが特に懐かしい。

「あ? ああ、そう、トラキアだよ」

「そう。あたしはアレウシア。あたしもトラキアの生まれよ。懐かしかったわ。あたしもあいつに売られたんだもの」

 瞳を細めて、アレウシアが微苦笑した。

「えっ!?」

 おれは息を呑んだ。同郷出身なばかりか、出自まで同じという女奴隷がいるとまではさすがに思わなかった。

「一年前にあいつからファンダレオンさまに買われたのよ。あそこで」

「ファンダレオン……さま?」

 ああ、知らないのね、とアレウシアが一人で納得してから教えてくれた。

「おまえを買ってくださった方のお名前よ。あいつ、あたしで二十五ドラクマくらい得したわ。そう、あの時のあたしはただただ怯えてたから、おまえみたいに食ってかかる余裕がなかった。だから、あいつの悔しがる顔が見れて、本当に気持ちよかったわ」

 嬉しそうに、でも考えてみたら人が悪いかもしれない表情を浮かべる。もちろんあのじじいに同情なんかしないけど、素直に笑い返す気にはなれなかった。

 おれの頭の中で、家族の顔が浮かんで消える。おれがアテナイで裕福な市民に気に入られてじじいの鼻をあかしたところで、我が家の貧乏は増してゆくばかりだろう。それにおれは、家族にとってはそんなに大した額にはならなかった。ファンダレオンが言う価値を思えば、どうしようもないほどの安さじゃないか。

 悔しくて悲しくて、拳を握りしめる。

「けど、おれは、元値は五ドラクマぽっちだったから」

 ようやく名前を知ったおれの主人ファンダレオンの手前、小さく言った。そうね、と、アレウシアの表情が複雑そうに暗くなる。

「ええ、おまえはあたしより少ない額で買われて、あたしよりも多い額で売られかけたんだものね……」

 その表情は同情ではなくおれのこの現実への理解に染まってて、だからおれは、──ほっとなった。

 この人はわかってくれてる、おれの気持ちもおれの悔しさも。金だけが全てじゃないなんて言えるのは、金持ちだけだ。おれや家族は、いや人間は金がなければ生きることもできない。そのために売られることまでなりながら、家族の助けになれなかった無念さをわかり合える相手がいて、おれは自分の行く末に多少の希望を見出した気がした。

 不安がないといえば嘘になる。だけど、こういう仲間がいるのなら、おれはなんとか生きていけるかもしれない。

「人にもまれないように気をつけなさい。これからアゴラはどんどん一杯になっていくんだからね」

 アゴラは昼前が最も混み合って「一杯になる」そうだ。別の女奴隷に注意されて、おれはひしめく人の柱の中で半分もがきながらアレウシアの黒髪を目印に必死についていった。

 だけど、粗末なサンダルが足から外れそうになってしまったところに水瓶を持ったおばあさんにぶつかり、謝りながらもファンダレオンたちと離れる危惧に冷汗をかいた。こんな見知らぬところで迷ったら、ろくなことにならない。聞き取れない強烈な訛りのある言葉で怒鳴り立ててくる相手にむかつきつつ横目で探すと、少し先に人垣に混じったアレウシアの後ろ姿があっさりと見つかった。

 あれ? おれはつい目を瞠った。

 奴隷たちが止まってる。いや違う、ファンダレオンが立ち止まったんだ。彼が止まれば、奴隷もそうしなければならないから。

 ともかくおれが迷子の心配から解放されてほっとなった時、一際大きな声が聞こえた。

「おお、ファンダレオンではないか」

 年の多さが重さとなったような厚い、でもどこか軽々しい響きを感じる男の声がファンダレオンの名を呼んで弾んでいる。どうやらファンダレオンが知人と出会ったらしかった。

 ファンダレオンが何か応じて言ったのだろう、その声が豪快に笑い出した。

「そうか、それは面白い」

 何がだろう? と、おれは知らず聞き耳を立てていた。アゴラの喧噪の真っただ中だから、ファンダレオンの相手のやたらな大声しか聞き取れない。そうしてるうちに、おばあさんがふんっと最後に吐き捨ててやっと去ってくれた。挨拶もおざなりに、おれはようやく奴隷仲間たちのところへ戻った。

 気づいたアレウシアがおれの手を引いた。

「どうしたの? はぐれたの、ルシ──」

「ルシアス、ファンダレオン様がお呼びだわ」

 さっき注意してくれた、不思議と上品そうな雰囲気をした中年の女奴隷がやってきて、おれを手招きする。澄んだ青い瞳がとっても綺麗で、でも硬質でなんだか冷たそうだった。

「ファンダレオン……さま、が?」

 人を敬称づけて呼ぶのに慣れてないせいでぎこちないが、今は咎められなかった。

「そう。早くこっちに来るのよ」

 早口に言って、今度は彼女がおれの腕を強く握って引っ張った。かなりの力だ。アレウシアの心配そうな顔に不安になりながら、おれはファンダレオンのそばに出て行かされた。

 その途端、ファンダレオンの隣にいた恰幅のいいいい中年の男が興味深げにおれを見る。

「この者か。売主に泥を塗った少年とは」

 その言葉で、どうやらのぼってた話題がおれのことだったらしいのがわかった。じじいの鼻をへし折ったのがよっぽど気に入られたらしく、会ったついでに話されたらしい。上から下まで、まじまじと好意的な視線が絡みつく。恥ずかしいし他にすることもないから、おれも相手をさりげなく見つめてみた。

 この男には、ゼウスのような普通じゃない格があった。神々を直接見たことなんかないし、見たらセメレみたいに死んでしまうけど、風貌から即座に神が浮かぶんだ。五十歳は優にいってる顔なのに、目つきは獲物を見定めたように油断なく底光ってる。若々しいけど、それでいて老練な狡猾さを感じた。よく長老が身につけてるイオニア風の丈の長い上着が与える威厳ではなく、彼自身が持ってる強さだ。知らず背筋が震えた。おれは、この男が怖くなった。

 この男なら、本当に稲妻を手にしてもおかしくない。神々への畏怖にも似た感情が、おれの身体を半ば金縛りにさえした。

 そんな時、男がまたファンダレオンに豪快に笑った。

「大したものだ。この少年、わしを逆に観察していたぞ」

 ぎくりとなる。確かにそうだったけど、考えてみると、奴隷の身でそんな対等な態度を取っていいはずもなかったかもしれない。

 焦るおれをよそに、ファンダレオンが微笑してうなずいた。褒められるような奴隷は、結局はそいつに目をつけた自分の功というわけなのだろう。

「あの度胸といい、なかなかに抜け目ないと思います。私の従者にしようかと」

 買われた途端に主人の従者──おれにとって、この新しい身分は幸運なんだろうか。

 でも、それはいい、と男が大げさなくらい派手に手を打って賛同した。

「そう、五年前のおまえにそっくりだ、ファンダレオン。おまえも、サラミスでわしの従者だった頃は居並ぶヘラスの将軍どもをこういう目で見ていたな」

「そう、五年も前の事です」

 砂が落ちる音のように素っ気ないファンダレオンの声音だった。

 ふうん。男もファンダレオンもサラミス沖で、それも話からすると将軍たちの中で戦ってたらしい。確かにこの二人は歩兵なんて柄じゃない。見るからに誰かに率いられるよりみんなを率いてゆく人種だ。

 特に、この男の方なんかは人の下に立つのを我慢できるようにも見えなかった。

「だが、若くしてサラミスとプラタイアイでペルシアの将軍の首を取ったおまえの名誉は消えてはいないぞ。なぜ家に引っこむ? 勿体ないではないか」

 息子を宥めるようなとても優しい声で、彼が言う。

「ファンダレオン。おまえならばわしの後継者になれよう、いや、わしが進んで指名するくらいだというのに」

 男は本当に熱心そうだったが、ファンダレオンはその話題が心底から嫌そうだった。

「何度も言っています。──命を懸けるのは一度で充分だと。テミストクレス殿」

 その名前におれの目は愕然と見開き、止まっていた。

 テミストクレス。やっぱりこの人は見た通りただ者じゃなかった。噂でしか聞いたことのない、ヘラスに、そしてアテナイに輝かしい奇跡の勝利をもたらした英雄、その人がここにいる! おれの全身は本物の金縛りにあって、動けなくなってしまった。

 テミストクレスという名はトラキアでも伝説的な名前だ。ペルシアとの戦争にあたって、長年に渡って仲が悪かったラケダイモンと連合を組めたのはひとえにこの人のおかげだと言われていた。ここからずっと南にあるペロポンネソス半島を本拠地にしている、最強の陸軍を持つあのラケダイモン人を。アテナイが平和なのも、全部でなくてもその大部分はこの風格ある中年男の力だった。

 今のこの豊かなアテナイは、この男の命令がそのまま実現した結果だ。この男は口でアテナイを、何万もの人々を動かす……!

 呆然となったおれは思わず声を出していた。

「あ……」

「ん? どうした少年、いや、名前は何だ?」

 テミストクレスのまなざしが再びおれに向く。おれはルシアスと一言名乗った、──気が、かすかにした。けど、ちゃんと答えたのかわからない。この人がテミストクレスと知った瞬間に呪いをかけられてしまったかのようだった。テミストクレスが何事かを言ってきたみたいだけど、おれの耳は聞くことを忘れてきっていた。ヘラスの英雄がいる、それが全てだった。

 ゼウスの息子でぶどうと快楽の神ディオニュソスの巫女のような陶酔気分でいた時、

「ルシアス!」

 と、ファンダレオンが叱責してきて、おれは飛びあがった。新しい主を恐る恐る振り仰ぐと、彼が語気鋭く言い連ねた。

「テミストクレス殿を無視するのか。おまえは『魂のある道具』だろう。耳と口がなければまさに道具と同じではないか」

 魂のある道具、という傲慢な言葉に、おれはかなりむっときた。

「おれは奴隷でも道具じゃない! 人間の身分まであのじじいに売ったんじゃないんだ! なんだよ、おれはテミストクレス──さまに会ったから驚いただけだっ!」

 一気に怒鳴ってから、おれはしまったと我に返った。奴隷売りのじじいの鼻をあかしたのは喜んでも、自分がそうされるのをファンダレオンが喜ぶはずがない。

 まして、ここはアゴラのまっただ中で英雄テミストクレスがいる。テミストクレスも唖然とした風になっていた。自分が言ったことが間違ってるとは思わないけど、普通、奴隷が主人に反抗するのは許されない。口を手で押さえたが、出てしまった非難が消えることはもうなかった。

 どうしよう、と、おれは無表情でいるファンダレオンに文字通り怯えて後ずさる。この場で殺されても、きっとおかしくはない。

 そんな時だった、アレウシアが小走りにおれの前に出てきたのは。

 おれが思わずアレウシア、と呟きかけた瞬間、彼女の平手がおれの頬を見舞っていた。

「ルシアスっ! なんてこと言うの、おまえを買ってくださったファンダレオンさまに!!」

 首元をつかまれて息が苦しくなったうえ、アレウシアに何度も何度も力強くひっぱたかれた。なにしろ、おれを打つ腕が唸りをあげて振り下ろされるのだ。痛さにたまらず目を閉じた。と、乱暴に突き押されて、おれは姿勢を崩してがくりと両膝をつく。砂利が膝に食いこんでまた痛い。だけど動けなかった。

 アレウシアがおれの首根っこを手で押さえつけたから。けど、おれは横目で見て知った。彼女が張り詰めきった表情で、隣でファンダレオンに平伏してるのを。

 食い入るようにファンダレオンを仰いで、アレウシアが必死に叫んだ。

「お許しください! この子は奴隷になったばかりです! まだわかってないんです! どうか、どうかお許しくださいませ……!!」

 膝の痛みに呻きたくなるのをこらえながら、おれは理解した──アレウシアは、おれを庇ってくれてるんだ。

 でも、その断末魔みたいな横顔を見るうちに、おれは苦しくなった。

 庇ってくれたのはおれが同郷だから? それとも奴隷仲間だから? そんな理由でアレウシアまでファンダレオンの不興を買う必要なんか、どこにもないのに。彼女が母さんに似てる偶然があって胸が一気に痛くなる。そして、不用意に言い返してしまった自分に腹が立った。

 アレウシアが、さらに深くひれ伏す。

「どうか、ファンダレオンさまっ!」

「ア、レウシア」

「黙りなさい、ルシアス!」

 血相を変えてアレウシアが怒鳴りつけてくる。このうえおれが何かしたら、という恐怖からか彼女の表情は引き歪んでいた。でも、おれはその命懸けの好意におとなしく守られている気はさらさらなかった。

 アレウシアに累を及ぼしたらいけない。おれのために傷つけたら、だめだ。おれは慎重に言葉を選びながらそっと言った。

「おれが悪いんだ、アレウシア」

「ルシアスっ」

 アレウシアの手が緩んだ一瞬に、おれは顔をあげてファンダレオンを見据えた。

 感情の読めない顔。でも刺々しい視線がおれの全身に突き刺さる。が、今はアレウシアを巻きこむ以上に怖いものなんかなかった。

「ファンダレオンさま、すみません」

 おれは感情を抑えに抑え、とっさに用意した言葉を辿るようにゆっくり吐き出した。

「おれが悪いんです。アレウシアは関係ありません。アレウシアには何もしないでく……」

 言い終えようという瞬間、凄まじい哄笑が湧き起こった。

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