女神の糸

流崎詠

第一部

アテナイの売物・上

 人垣の向こうにアクロポリスの岩肌が遠く見える。「最良の僭主」と呼ばれたペイシストラトスが九十年くらい前に建てた、女神アテナを祭るパルテノンの神殿がある丘だ。パルテノンはペルシア軍が占領した時に破壊されて、今は無残な大理石の残骸と化してしまっていた。でも、薄茶色の高い丘自体は透き通るような青い空にとてもよく似合ってる。

 あそこからポリス中を見下ろしたら見晴らしがよくていい気分になれそうだ……って思ったけど、おれはきっと人を見上げるしかできないだろう。小さくため息をついて、おれは南西のパルテノンから目を戻して現実を見た。

 神々の王ゼウスの頭から生まれた処女神アテナが、伯父にあたる海神ポセイドンと争った末に守護することとなったというポリス、アテナイアテネ。そのアゴラ広場は朝早くからすごい賑わいだった。様々な品物を満載した露店がずらりと並んで客の財布を狙っている。

「炭はいらんかあ」

 と、中年の男が声を張りあげれば、

「きれいな花ですよお!」

 と、女の人たちが鮮やかな色とりどりの売り物に溢れた花籠を手に客を呼び止めようとしていたりして、ざわざわとした繁雑な、けれど生き生きとした活気に満ちている。パンや、香水や、オリーブ油や、布やと、とにかく物と人が多いのにはびっくりした。さすがはアッティカ地方、いやヘラスギリシア第一のポリス、アテナイだ。そもそも、アゴラはポリスにしかない。だからアゴラの有無や規模で豊かさがわかる、というけど、おれはこんなにも賑やかなアゴラは知らない。目の前で市民ポリータイの男たちが、荷物持ちの奴隷を連れ歩きつつ談笑している。朝から昼にかけて買い出しに出、買った物を奴隷に預けて家に帰してから自分は議論や裁判を楽しんで、日が暮れたら帰る、というのがアテナイでの中流以上の市民の男が営む一般的な、羨ましい暮らし方だ。

 アテナイには地元民である市民、その家族など自由人、市民の保護者と税金が必要な他ポリスのヘレネスギリシア人で主に商工業を営む在留外人、先の二つが免除される市民待遇外人、外国人に奴隷がいて、土地と家屋は市民じゃないと持てない。女の人は家で奴隷を監督して家事をしてればよくて、「悪い評判もいい評判も立てるな」という。外に出る女の人は遊女やキタラ弾き女だけだそうだけど、貧しければ話は別だ。向こうの井戸で奴隷らしき水汲み女たちがぺちゃくちゃ騒ぎ、露店でおじさんが肉を切り売りしてる。国有奴隷がすぐ近くで人の死体を片づけてるのは勘弁だけど、とにかく見ていて飽きない。

 おれがトラキアのアブデラ港からマケドニア、テッサリア、エウボイアの諸ポリスを経由して船で行くこと相当の朝日と夕日を拝んだ末に、アテナイの南にあるファレロン港に着いたのは、昨日の夜だった。闇の中だから見えなかったが、よりアテナイに近いからとテミストクレスが改修工事をさせたペイライエウスの新港がケフィソス川の向こうにあるという。

 ファレロンで夜を明かし、曙の女神エオスが翼を広げないうちに薄暗いファレロン街道を通ってアテナイに向かった。

 途中、ずいぶんとさびれてる神殿を見つけた。確か、ファレロンにあるデメテル神殿も焼けたままだった。おれの隣を歩く男が、ヘラ女神の神殿だと教えてくれた。この二つの神殿はパルテノンと同じく五年前にペルシアに焼かれ、その恨みを忘れないように絶対に再建しないと決めたんだそうだ。

 すっげえな、と思ってるうちにおれたちはイリソス川を渡った。時期的に水が干上がってたけど。

 やがて、そのペルシアとの戦争で活躍したテミストクレスがラケダイモンスパルタからの停止要請をはぐらかして築いた新しい城壁が見え、門をくぐってとうとうアテナイに入った。

 そうして、おれはずっとこのアゴラの一角に立っている。おれだけじゃない。隣や後ろには、マケドニアやテッサリアなんかの老若男女十数人が同じく直立不動で人の流れを追っていた。女は下着を、そして男は下着と上着を兼ねるクライナの中でも右手を自由にするために左肩で布を結んだエクソーミスを纏ってる。エクソーミスは奴隷や工匠など働く人が着るものだ。そして、後ろ手に鎖に縛られて、自分が誰かの目に止まるのを待つ──一日中、何もしないでいるよりは働いてる方がまだましだから。

 おれも退屈になってきて、ふと隣を見た。

 細身で上品そうな女の人が、大きくておいしそうな干いちじくを皿に山積みにして売っている。いちじくはアテナイ名産で、なんでも干いちじくは輸出禁止なんだそうだ。貴婦人といった風だが、生活に困ってるんだろうか。買いたかったけど、金がない。売り声が小さいせいかちっとも売れないそのいちじくに、おれは思わず謝っていた。

 ごめんな、おれは今日、……いつになるかわからないけど、誰かの奴隷になる予定なんだ。

 そう、おれもまた、このアゴラで取引される「売物」だった。

 威勢よく「商品」を見て行けと怒鳴るくそじじいに、母さんは騙された。おれを売らないか、と話を吹っかけてきたのがこの、膨れあがった腹をぶだぶだと揺らす強欲なじじいだ。おれは奴の背中を睨みつけた。自分で言うのもくだらないけど、おれは五ドラクマじゃ安いみたいだった。故郷のトラキアから連れられ、船の中で奴の下品な「恋」の相手を散々させられてから、おれは「上等奴隷」として二十ドラクマ、つまり四倍の値で売られようとしている。つまりおれの顔には、それだけの価値が実はあったってわけだろ?

 でも、仕方ないだろうな。

 トラキア人はたくさんの族にわかれてて、子供を奴隷に輸出する風習がある人たちもいるらしいけど、アブデラ近くの村で貧困に喘ぎながら畑仕事をやってた母さんに、奴隷の値段なんかろくにわかるわけがない。それに、これまでは家族が売買されはしなかったから他人事だった。だけど、こうして売られるという時になると、二十ドラクマだったらかなり切り詰めて暮らせたのに、と、悔しい思いを抱えずにいられない。

 四年前にプラタイアイでペルシア軍と戦って、父さんは戦死した。ヘレネスの父さんの言い方を借りれば、おれは「騎馬民族トラキアの血と知恵あるヘレネスの血を受け継ぐ」というわけだ。

 父さんはペルシアの侵略に怒り、怒るままに志願兵として兄貴らと旅立ち、帰ってこなかった。本来なら、女相続人となった母さんは家と土地を守るために誰かと再婚しなきゃいけないんだけど、おれの家の近辺ではほとんどの男がペルシアの侵略などで死んでしまい、親戚もない。父さんについていった三つ上の兄貴が、若さを理由に戦争に参加できなくてそのまま帰ってきたので後を継いではいたけど、成人の十八歳になってなくて神に愛されてるわけでもない兄貴が家長になったからって急に楽になるはずもないから、おれが遠いアテナイにいる。誰か裕福な人が母さんを見初めでもしない限り、楽しい想像はできそうにない。

 そしておれはそんな母さん似で、美の女神アフロディーテに寵愛されたフェニキアの王子アドニス、みたいな美少年なんだそうだ。肌の色は褐色、短い黒髪、身長は同年の奴と比べて高くも低くもないって感じだ。自分の容貌なんか気にしてなかったし、フェニキア人の肌の色は褐色じゃないけど。

 で、兄貴は最初、おれじゃなくて二人の弟を売ろうとした。母さんは後妻で、兄貴は前妻の子だ。つまりおれ以下は腹違いってことになる。別にだからって仲なんか悪くなかったけど、しょうがないさ。このまま家にいたっていつか餓死するかもしれないんだから。

 でも、じじいはおれしか買わない、しかも五ドラクマでなきゃだめだと抜かしてまんまとおれを低値で買った。母さんは、弟たちよりはまだおれの方が生きていけると思ったのか、悲しみと寂しさの中にほっとしたものを浮かべていた。結局、おれはアフロディーテどころかくそな奴に愛されちまったんだ。

 ……アテナイやラケダイモンは戦争に勝って豊かになったんだろうけど、おれの家は息子が売られるまで窮乏した。豊かになるのは安全な場所で軍を指揮していた将軍たち、身分ある元から裕福な人間だけだ。女神アテナの名にかけたっていい。

 でなきゃ、おれはここにはいないさ。

 おれが明るく強い冬の陽の下でそんな暗いことを考えていた時、

「おまえはいくらだ」

 と、言ってくる声があった。

 はっと顔をあげると、正面に、おれを検分するように見つめている奴がいた。

 背が高く、かなり身なりのいい若い男だった。長い黒髪を朝の弱風に揺らした彼の顔立ちは、それが当然だと納得しないでいられないほど彫りが深くて美しく、アポロンの神像のように凛々しい。着ている衣は相当上等そうで、薄褐色の肌を引き立てるその白色が鮮やかだ。彼が働かずにいられる身分なのは、後ろに従う四人もの女奴隷が証明してた。市民なら大抵は奴隷の一人二人は持ってるものだけど、この男はアゴラに連れてくるだけでも四人だから、家にはその倍はいるんだろう。

 おれと目が合うと、男がおれの顎をつかんだ。痛かったが声をあげるのはこらえた。冷たいまでに落ち着いたまなざしに、おれは緊張して唾を飲みこむ。

「名前は?」

「……ルシアス」

 真っすぐに見返して答えると、相手は嬉しそうに口元を歪めた。

「売られているのに卑屈ではない、その目が気に入った。売場にも出されたばかりのようだな」

 その通りなので、うなずく。

 そんな時、あのじじいが皺だらけの面にお愛想を張りつけて上機嫌に割りこんできやがった。へこへこした態度は、反抗した「できそこないの売物」を見せしめに海に投げこませた残酷さを見事に隠している。

「これはこれは、相も変わらずお目が高うございますな。これはトラキアの奴隷で、三十ドラクマでいかがですかな、旦那さま」

 つらつらと売口上を述べあげる。ちゃっかり値を上乗せしやがって。

「三十ドラクマか」

 その声には疑問の響きがあった。

 三十ドラクマでは高くないか、という意味なのだろうか。男は馬鹿にするようにせせら笑い、おれの頬に軽く手を当てた。

「安くはないか。私なら、その上に一ムナをつけて売るがな」

 一ムナが百ドラクマだから……計算して、おれはぎょっとなった。百二十ドラクマ。この人はおれを、じじいが吹っかけた値の四倍で売るって言ってるんだ! 法外で想像もつかない単位にただただ驚くだけだ。

 売物を見る目がない、と言われたも同然だったにもかかわらず、奴は頭を何度も下げて自分の息子ほどのお客さまに卑屈に追従した。

「いやあ、まこと重ね重ねお目の高い御方でいらっしゃる。それで、いかがなさいましょう? お買いになりますかな?」

 男は鷹揚にうなずいた。まさに、おれを買うことが大層満足そうな顔で。

「特にこの目が気に入った。一ムナと三十ドラクマだ。ルシアスといったな。おまえにふさわしい値で買おう」

 そう気に入られはしたが、ありがたいとは思わなかった。今そんな高値で買われても、このくそじじいが一ムナ二十五ドラクマも得するだけじゃないか。

 早速おれは、奴の手下どもに肩を押されておれはじじいの隣に行かせられた。ちらとその横面を見ると、儲けたとばかりににたにたと笑っている。

 頭にきて、おれは買い手に言ってやった。

「五ドラクマだよ。だってこのじじい、おれを五ドラクマで買いやがったんだから──」

「だ、……黙れいっ!」

 ひゅん、といういやらしい音を聞いたという瞬間、おれは鞭で背中を打たれた。

 痛みで呼吸が苦しくなって、思わず膝をついてしまう。じゃらり、と手首の鎖が嫌な音を立てた。咳きこんで折り曲げた背中にまたも鞭が飛ぶ。苦鳴をあげるのは我慢したが、肌がひりひりするやら熱いやらで涙が滲んだ。

 でも、涙なんか見せるもんか。顔を庇うふりをして目を拭ったおれの上から、男が冷静に制止した。

「やめろ。この者は最早、私のものだ」

 私のものだ、ときた。

 思わず相手を見上げる。その無表情を目にした瞬間、突然に実感した。奴隷ってのはこういうものなんだ。自分の所有物だと生殺与奪の権利をじじいに主張してるだけで、慈悲なんかじゃない。この男も、おれが後で何かへまをすれば容赦なく暴力をふるうだろう。

「はあ……、まったく生意気なやつでして」

「いや、ますます気に入った。売場でそんな事を言える者はそうそういないからな。さて──ならば、五ドラクマだな。残る一ムナと二十五ドラクマは、ルシアス、おまえの身ではなくおまえの誇りに払おう」

 そう言って男が顎をしゃくると、奴隷の一人がささと進み出てきてドラクマ貨幣を口の中から取り出した。ばら銭を運ぶ時のやり方とはいえ身近で見ると怖い。

 じじいは不機嫌そのままの顔で受け取り、おれを睨みつけてきた。でもおれだって不機嫌だった。誇りなんかに払ってもらってもなんにもならないんだ、と思ったけど、この人自体には関係ないから言うのをやめた。

 でも、別のことをおれは思った。

 これでおれが満足だと疑わないんだ。自分が奴隷の言葉を聞き入れ、情けをかけたのに満足してるから。

 そしてなにより、おれのことなんか自分の心一つで足蹴にできる優位に立ってるから、自分のお情けがおれにとっても価値があると思ってるんだろう。五ドラクマしか払わなかったのにはざまあみろと喜びはした。でも、やっぱり、おれには金持ちだけにできる無意味な満足としか思えなかった。

 そんな考えを噛みしめながら、おれはゆるゆると立ちあがった。じじいの方は見ずに。

 腹がむかむかしてならなかった。

 ちくしょう、一ムナもあったらどんなに──。

 男の意向で鎖を解かれながら、おれは一緒に旅をしてきた仲間たちを見渡した。人種も、言葉も、何もかもが違う、でも一番心細く辛い時間を共にした人達だ。行ってしまうのか、という哀れそうな寂しそうなまなざしにずきりとなった。おれと仲の悪かった奴までそんな目をしている。そうさ、苛ついて感情をぶつけあった時があったって、みんな、どうしようもなく、かけがえのない、いい同道者だった。不安をわかちあって、じいさんが話す言い伝えに笑って身の上話に泣いて、ずっと船旅をしてきた。それも今、本当に終わったんだ。

 みんなに、小さく手を振っていた。

 おれは買われちまった。これからどうなるかわからないけど、みんなも、元気で。今までありがとう。その感謝をたくさんたくさんこめて。

 みんな、一様にうなずいた。感謝すら、涙の津波にさらわれるかと思った。

 そうして、おれは男が連れていた女奴隷の後ろをついて行くことになったが、それでも何度も振り返っていた。それでもたった一人、彼女だけは。

 おれが見た先にいるのは、「売物」仲間の一人で濃い小麦色の肌が綺麗な小柄のテッサリアの少女だった。鳥になりたい、と、いつもいつも寂しそうに呟いてたラルア。人さらいに誘拐された挙句にじじいに売られたというずっと可哀相な身の上で、放っておけなかったんだ。彼女はむせそうになる雑踏に埋もれて見えにくかった。でも、それでもおれは根性でその姿を視界に捉えた。

 ラルアはどこの誰の奴隷になるんだろうか。

 おれの目線に気づいたラルアが、泣きそうな顔で見返してきた。ルシアス、と口の形が呼び返してきた気がする。林檎色の下着がおれに向かって動き、おれのように鞭打たれてしまう。その暴力を止めも庇いもできない今のおれは、歯軋りしながら、自分の運命なんかよりも余程ラルアの方が心配になって神々に祈っていた。

 ──どうか。

 アテナでもアルテミスでもゼウスでも、ラルアを哀れと思ってくれる神さまに、おれは心の中で呟き続けずにいられなかった。

 どうか、奴隷になること以上の不幸せがラルアに降りかかりませんように、と。

 こうして、おれはアテナイの奴隷になった。

 アテナイ暦は夏至から一月、二月、と数え始め、八年に三回第二の六月と呼ばれる閏月を入れつつ、十二ヶ月で一年になる。そして今は十二月(六-七月)、額にうっすらと汗が滲み始めていた暑い朝のことになる。

 この時はアテナイのことも何もわかってなかったんだ。

 漠然とした不安だけで……それだけがおれの道連れだった。

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