第9話 癒し効果は抜群でした

 ブラックさんは、この臭いおじさんの、たるんだお腹が許せないらしい。帯をきつく閉め直してもどうにもならないことを悟ると、もう一度ため息をついた。


「まあ……さっさとやることを済ませてしまおうか。おすずちゃん」

「は、はい」


 まだ疑っているのか、おすずちゃんは警戒気味だ。無理もないよね……わたしも実はまだちょっと疑っている。


「このおじさんはね、今まで娘を売ったお金はため込んでいるらしい」

「本当ですか?」

「うん。どうやらおじさん、花街に通っていて、お気に入りがいるみたいだよ。その女を身請けしようと思っていたらしいね」

「そんな……」


 おすずちゃんは呆然としてしまう。


「娘を売った金で、娘を買うって……おバカ過ぎて呆れるよ」


 まったくだ。ブラックさんの言うとおり、呆れてものが言えない。


「でさ、その金で治水工事をしようよ。おすずちゃんはさっさと婿を取ること。花宮家の当主になって、治水工事を先導するんだよ」

「わたしが、ですか?」


 突然の提案に、おすずちゃんは驚いた様子だ。ブラックさんの言葉に、おすずちゃんは少しずつ目が覚めたような面持ちになる。


「もちろん。キミがやらなきゃ誰がやるのさ。婿にできそうな男はいるんだろう?」

「……はい。許嫁がおります」


 いるんだ、いいなずけ!

 わたしとそんなに年も変わらないのに、結婚相手がすでにいることにびっくりした。やっぱり、ここは昔の時代なんだと実感する。


「当分、このおじさんを大人しくさせておくからさ、人の力で頑張ってみてよ」


 ブラックさんの言葉に、おすずちゃんは意を決したように頷いた。


「はい。お任せください」


 凛とした返事を返したおすずちゃんは、当主としての覚悟を決めた大人の顔になっていた。


***


 その日の夜は、おすずちゃんの家に泊めてもらうことになった。


「ゆっくりやすんでくださいね」

「ありがとう」


 客間に通され、おすずちゃんに渡された寝巻きを見下ろした。

 せっかく用意してもらったけれど、今浴衣を脱いだら、自分で着直せる自信がない。これからのことも、色々考えなくちゃいけないけれど、とにかく疲れて何も考えられない。

 汚れた浴衣姿のままぼんやりしていると、襖の向こうから声がした。


「おりんちゃん、まだ起きている?」

「あ……はい」


 すらり、と襖が開く。臭いおじさんではなく、元の姿をしたブラックさんがそこにいた。


「おじさんの身体は?」

「少しの間だけ抜けてきた」

「大丈夫なの?」

「うん、大丈夫だよ」


 本当に大丈夫かなぁ……と思っているうちに、ブラックさんは、わたしの隣に腰を下ろした。


「ねえおりんちゃん、キミはこれからどうするの?」

「え、わたし?」

「うん。色々忙しくなりそうだから、キミも手伝ってあげてよ」

「……そうだね。でも」


 このまま帰れないなら、おすずちゃんのお手伝いするのもいいかもしれない。でも。


「やっぱり、帰りたいなぁ……」


 お母さんやお父さんに会いたい。花梨ちゃんや真帆ちゃんにだって。

 それに……雫さんにも。

 もうこのまま会えないなんて、イヤだ。

 涙がこみ上げてきそうになるのを、ぐっと堪える。


「それよりさ、神様はどうするの? 治水工事が終わったら」

「まだ始まってもいないのに、気が早いなぁ」


 誤魔化すために何気なく聞いただけなのに、ブラックさんは困ったように首をすくめた。


「……まあ、治水工事が終わったら、ボクはお役御免かな。もう神様にすがらなくたって、村の人たちでどうにかするだろうからさ」

「……そっか」

「とはいえおすずちゃんだって、ボクに恩を感じているだろうし。悪いようにはならないさ」


 くくく、と邪気たっぷりに笑う。ああもう、一瞬でも心配して損した。


「……それはそうと、おりんちゃん」

「は、はい」

「キミだって、ここに来て大変だったでしょ?」

「……そうですね」

「少しは甘えてもいいんだよ。ほら、ボクは一応神様だし、癒してあげようか?」


 と言って、両腕を広げる。ええと、これはどういう意味だろうね。


「……エンリョ、シテオキマス」

「えー、遠慮しなくていいのに」


 こんな危険な神様のハグなんて、冗談じゃありません。


「おりんちゃんは頑張り屋さんで、少し意地っ張りで強がりで……でも、たまには力を抜いてもいいし、弱音を吐いたっていいと思うんだ」


 なによ、ブラックのくせに。

 雫さんそっくりな顔で、そんな優しい顔をしないで欲しい。


「でも、頑張り屋で意地っ張りで強がりなキミが来てくれたから、この悪習に終止符を打てたのかもね」

「……あんまり褒められている気がしない」

「そんなことないさ」


 ブラックさんに、頭をよしよしと撫でられる。


「ありがとう、おりんちゃん」


 雫さんみたいな優しい声。うわ、ホントにやめて欲しい。

 そんなことを言われたら、せっかく引っ込んだ涙が……また出そうになるじゃない。


「う……」


 今まで我慢していた気持ちが溢れ出すかのように、堪えていた涙が一気に溢れてしまった。

 ボロボロと零れる涙を、必死に両手で拭っていると、ブラックさんがわたしの手を押さえる。


「ダメだよ、擦ったら」


 だったらハンカチでも貸してくれるのかと思ったら、ブラックさんの胸に引き寄せられた。ぎゅっと抱きしめられて、身動きが取れなくなる。


「ボクを手拭い代わりにしなさい」


 なんでだろう、不思議と安心してしまう。つい甘えるようにブラックさんの肩に顔を擦りつけると、優しく背中をポンポンしてくれた。


「……癒し効果、ばつぐん」

「でしょ?」


 悔しいけど、ホントに癒される……。

 そのせいか、こんなに泣いたのも久しぶりってくらい泣いてしまった。


 しばらくして涙が落ち着いたせいか、少し冷静になってきた。

 小さい子みたいで恥ずかしいし、しかも神様を手拭い代わりにするなんてバチ当たり過ぎるよね……。

 顔を押し当てていたブラックさんの着物が、涙でびっしょり濡れている。


「ごめんね、着物が」


 顔を上げると、ブラックさんの髪がさらりと頬に触れた。くすぐったくて肩をすくめると、ブラックさんの鼻先が、わたしの鼻にちょんとぶつかる。


「少しは落ち着いた?」

「は、はい……」


 至近距離から見つめるブラックさんの目が夜空みたいにきれいで、うっかり引き込まれそうになる。


「お願い、待って!」

「どうして?」


 どうしてって……それは! あと数センチで唇同士が触れそうになっているからです!


「待って、ダメ!」


 必死に胸を押して突っぱねるけど、わたしの力なんて簡単に押し戻されてしまう。


「ダメと言われてもなあ……ボク、キミみたいな元気な娘、お嫁さんに欲しかったんだよね」

「生け贄なんてイヤです!」

「生け贄じゃないよ、お嫁さん」

「同じです!」

「えー違うのになぁ」


 クスクスと笑うブラックさんに抗えない。

 でもダメなものはダメ!

 何がダメって?

 わたしは頭が真っ白になって、思わず叫んだ。


「雫さんじゃないから、ダメ!」



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