第2話 雫さん(仮)
「りん! こんなところにいたのか!!」
おじさんの怒声が、頭の上から落ちてきた。強く掴まれた肩が痛くてたまらない。振り返り、肩越しに見えたのは見知らぬ強面のおじさんだった。
おじさんの格好は着物で、着物といっても着古してよれっとしたもので、普段着っぽい着物というのだろうか。
「どうやって逃げ出したんだ……まったく!」
おじさんの深いシワが刻まれた眉間に、さらにシワが寄る。ぶつぶつと文句を言いながら、わたしの腕をギリギリとねじり上げた。
「いたいっ!」
「大人しくしていろ!」
手にしていた縄で、わたしの両手を背中にまわして縛り上げる。
状態が飲み込めない。みんなはどこにいったの? 雫さんは? このおじさんは誰? もしかして誘拐犯?!
「離して! 変態! 人さらい!」
思い切り叫んだ直後「大人しくしていろ!」と怒鳴ると、今度は首に掛けていた手拭いで、わたしの口元を覆った。
「く……!」
臭い! 汗の臭いと、おじさんの臭いで滅茶苦茶臭い!
あまりの臭さに吐き気がこみ上げてきた。でもこの状態で吐いたら……うん、結構わたしが悲惨だ。
絶対に吐くもんか。一生懸命吐き気を堪えていたら、あれよあれよという間に、狭い小屋に放り込まれてしまった。
「大人しくしていろ」
観音開きの戸が閉まる音と、ガチャガチャと鍵を閉める音。おじさんの気配が遠のくと、辺りは急に静かになった。
外はまだ明るかったけれど、この小屋の中は灯りひとつなく真っ暗だ。両手は縛られているし、浴衣だから動きにくいし、臭いし……は慣れてしまった。
一体何がどうなったったのか、さっぱりわからない。わたしの肩をつかんだのは、あのおじさん? でも、廃神社には誰もいなかったはず。
あのおじさんが川の神様の生け贄になった幽霊……ではなさそう。汗臭い幽霊なんて聞いたことがない。
寝転がったまま考えていると、闇のどこかから低い笑い声がした。
うそ……?! 幽霊!
恐ろしさのあまり声が出ない。目を開けているのか閉じているのかわからない暗闇の中で、わたしはぎゅっとまぶたを閉じた。
「今宵の花嫁はふたりか。ずいぶん大盤振る舞いだな」
若い男の人の声は、聞き覚えのある声だった。
「もうお前で何人目かな」
乾いた笑い声。そうだ、雫さんの声だ。
雫さん! と声を上げたものの、口をふさがれているから「ふふぇほはん!」になってしまった。
意味不明な声を上げたわたしが可笑しいのか、雫さんはまた笑う。
「活きが良さそうな子だね……花嫁に選ばれたなんてお気の毒様だ。でもね、ここに来た娘は花街に行くのだとさ。綺麗な着物を着て、上手く行けば
雫さんは何を言っているの? どういう意味? お嫁さんとか、花魁とか。意味がわからない。
「神の贄になって死ぬのと、死ぬまで檻の中で生きるのは、どちらがましかなぁ」
くくく、と意地の悪い笑い声。雫さんはこんな風に笑ったりしない。この声は誰だろう……と考えていると、今度はまた別の声が、闇の中から聴こえてきた。
「ヌシ様、いい加減になさいませ」
今度は女の子の声。鈴を振るような声の主は、静かに怒っているようだった。
「よかったね、花宮の娘。おりん……だったかな? ひとりでは寂しかろうと道連れを探してきてくれて。優しい叔父上だ」
「……茶化さないでください」
おりん……?
もしかしたら、雫さんの『おりんちゃん』って、この子のこと?
じゃあ、やっぱりこの人は雫さん?
でも普段とは様子が違う雫さんを、やっぱり雫さんとは思えない。とりあえず雫さん(仮)としておこう。
「ねえ、せっかくだからお仲間がどんな子なのか見てみたくない?」
「少しは黙っていてください。ヌシ様の声は、只人には聞こえないのです」
「とうとう気が触れたと思われたくないってことかな?」
おりんと呼ばれた女の子が、何か言いたそうなのを堪えているのが伝わってくる。
けらけらと笑う雫さん(仮)と、おりんという女の子の間に、険悪な空気が漂っていのが肌で感じる。
「まあまあ」
暗闇の仲で、ぱちりと指を鳴らすような音がした。途端、ぱっと小屋の中が明るくなる。
小屋は案外狭くて、思っていたよりも近い位置に二人がいた。
壁にもたれるように座っているのは、わたしと年の近い女の子。なんとこの子も手足を縄で縛られていた。おりんちゃんも、床に転がったわたしを痛ましそうに見つめていた。
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