第6話 ブラックな雫さん

 もしかして……わたし、タイムスリップしちゃったの?!


 川の向こう岸の景色に目をやると、最近建った高層マンションやごみの焼却所の高い煙突もない。見えるのは田畑と雑木林。家もあるけれど、点々と数えるほどしかない。

 後ろを振り返ると、建物の代わりにあるのは田んぼや畑ばかり。あるはずの住宅街も学校もスーパーも……ない!


 しばらく呆然としていると、雫さん(仮)が、わたしの顔を覗き込む。


「どうしたの? 何か驚くものでもあった?」

「……驚くことばかり、だった」

「そっか。満足したのかな? じゃあ戻ろうか。そろそろ君たちのお迎えが来るからさ」


 わたしを抱えたまま、元来た草むらの中を軽やかに進む。


「お迎えって……誰?」

「だから、花街の売人だよ。さっき言ったじゃないか、儀式は行われていないって。若い娘さんが命を落とすくらいなら、花街で花を売る方がずっといいんじゃない?」


 花街がどういうところかわからない。でも、花を売るって……何となく本当に花を売るってわけじゃないことくらいはわかる。


「つまり、わたしとおすずちゃんは、花街に売られるってことだよね? 人身売買ってことだよね?」

「うん。だからさっきから言ってるじゃない」


 冗談じゃない!


「生け贄になるのもイヤだし、花街に売られるのもイヤに決まってるじゃない!」

「あ、やっぱりイヤなんだ?」

「当たり前だよ!」

「でも、おすずちゃんはイヤがっていなかったよ?」

「多分おすずちゃんは古い慣習を当たり前だと、義務だと思っているんじゃないかなって思う!」

「ああ、なるほどね。おりんちゃん、冴えてるねぇ」

「もう、茶化さないで!」


 こっちは真面目に話しているのに、雫さん(仮)はふざけてばっかりで腹が立つ!


「どっちもイヤに決まってるじゃない!! あの臭いおじさんの小遣い稼ぎになるのもイヤだし、魚のえさになるのも絶対にイヤ! 神様なんだから何とかしてよ!」

「神様なんだから、か」


 雫さん(仮)は、草むらの中で不意に足を止める。

 夕陽で影になって、雫さん(仮)がどんな表情を浮かべているのかわからない。


「……誰も、神様なんてあてにしていなんだし、もうボクなんていないも同然だよ?」


 いつもの軽い口調。なのに諦めているように笑う。


「あの臭いおじさんに言い様に利用されて、悔しくないの?」

「うーん、それは悔しいかな」


 悔しいと言いながらも、雫さん(仮)は悔しい様子はない。困ったように肩をすくめる。


「仕方ないなあ……じゃあ、おすずちゃんも交えて作戦でも練ろうかねぇ」

「……うん!」


 早速、小屋に戻ったわたしたちは、作戦会議を始めることにした。


 小屋に戻ると、おすずちゃんにわたしが思っていることを話した。

 このまま臭いおじさんの小遣い稼ぎになるのも、川に沈められて魚のえさになるのもイヤなこと。おすずちゃんが犠牲になっても、神様の怒りはおさまらないこと。


「だって、ボク。そもそも怒ったりしていないし」


 と雫さん(仮)の言葉に、おすずちゃんは驚いたように目を大きく見開いた。


「ヌシ様はお怒りでは……ないのですか?」

「うん。ボクは一度も怒ったりしていないよ」

「……ならば何故、叔父の行いをとがめないのですか? 川を鎮めてはくださらないのですか……?」


 おすずちゃんが怒っている。静かに怒っている。

 それはそうだろうなって思う。おすずちゃんが五つの頃から毎年のように、龍神様の生け贄として、女の子たちが売り買いされていたのだから。きっとその中には、おすずちゃんの親しい人だっていたに違いない。

 だけど、雫さん(仮)は、どこ吹く風だ。


「でも、ボクは人が願ったことを叶えてきたつもりだよ? たとえば雨を降らせて欲しいとか……まあその結果、川が溢れちゃったりもしたけど」


 くすくすと笑う雫さん(仮)は、まったく悪気もなさそうだ。

 黒い、黒すぎるよ……この雫さん! 雫さん(仮)から、ブラック雫さんに改名だ。


「今度は雨が降らないようにって言うからそうしたら、今度は水田が枯れちゃうとかさぁ。ほら、湧き水だって作ったけど、最近ちゃんと使ってる? 必要ないなら枯らしちゃおうかな」


 多分ブラック雫さんは、ほどほどってことを知らないのかも。つまりやり過ぎ。

 あまりもの雫さんのナチュラルブラックさに、おすずちゃんはとうとう泣き出してしまった。


「ヌシ様……わたしたちをお助けいただけませんか。わたしの命では足りないとは思いますが、なにとぞ、なにとぞ……」

「命? ああ、先代まではさんざんいただいてきたから十分過ぎるくらいだよ。それにボクは生きている娘さんの方がいいなぁ」


 泣き崩れるおすずちゃんをなだめてあげたいけれど、両手を縛られたままでは、ただ見ていることしかできない。

 わたしにできることってないの?

 郷土研究部で培った知識をフル回転……ダメだ、こういう時って本当に頭が全然回らない。


 ふと、さっきブラック雫さんと見た川の風景を思い出す。

 今の鶴ヶ久美川とは全然形が違っていた。


「あ! そうだ! 治水!」


 わたしが突然叫んだものだから、ふたりとも驚いたようにこちらを向いた。


「この川を治水工事するの! そうしたらもう川は氾濫しなくなる!」

「へえ、まるで知っているかのような物言いだね」


 ブラック雫さんの言葉にドキッとする。何もかも見透かすような目でわたしを見ると、ふふふと笑った。


「ふうん。治水ね。この川をどう治水すればいいわけ?」

「それは……」


 しまった、勉強不足だ。治水工事をしてから、鶴ヶ久美川が氾濫することはなくなったという事実は知っているけれど、どんな工事をしたのか……わかんないよ!


「ええと……難しいことはよくわからいけど」


 地図で見た川の形を思い出しながら、しどろもどろに答える。


「川の形が、今はくねっとしているところが真っ直ぐにすれば……ちょうど曲がっているところを、どーんとつなげた感じになれば。あと川幅ももうちょっと広くて……深くかな?」

「治水……確かに。根本を解決しなければ……」


 おすずちゃんは、目が覚めたかのように呟いた。一方ブラック雫さんは、とても楽しそうだ。


「へえ、おりんちゃんってさぁ、とっても面白いね」

「別に面白くは」

「あ、静かにして」


 ブラック雫さんが、わたしの唇に人差し指を押し当てる。

 途端、明るかった周囲が、ふうっと暗くなった。元の真っ暗闇になった直後、ぎぎぎ……と音を立てて重たい戸が開いた。


「なんだ。娘が二人いるぞ」


 ほの暗い灯りで小屋の中が照らされる。


 開け放った戸の向こうから現れたのは、まるで熊のような風貌の、むさ苦しいおじさんだった。

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