第6話 ブラックコーヒー
「美形だよね。彼、うちの卒業生だよ。バンドのヴォーカルやってる。あ、これは個人情報か」
そう言っている間に『なかたさん』が戻ってきた。彼は微笑むと、
「桜内先生。一応個人情報ですけれど、そのくらいは構いませんよ。お気になさらないでください」
『なかたさん』はメニューを私の前に出すと、
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
一礼して去って行った。私は思わず溜息をついた。それくらいの美しさだ。
注文を終えて、しばらくすると紅茶が運ばれてきた。本当はケーキも食べてみたかったが、先生に払ってもらうのだからやめておこう、と思って注文しなかった。
紅茶を一口飲んだ後、先生をじっと見ながら、
「で、先生。何でわざと変な人を演じてるの?」
先生は俯いてコーヒーを飲んだ。どうやらブラックだ。好きで飲んでいる顔ではない。ちょっと嫌そう? 何故お金を払ってそんな顔をしてるんだろう。わからないことばかりだ。
「深谷野さん。君、結構鋭いね。今、オレをすごく観察してたけど、何がわかった?」
「そうだな。無理してそれ飲んでるのかなって。それくらいだよ」
「そうか。何でそんなことしてると思う?」
私は首を振って、
「わからないから訊いてるんだよ。何か事情があるってことはわかるけど、それこそ個人情報だろうから突っ込んでいいかもわからない」
先生は黙ってしまった。私も黙って、時々先生を見ていた。本当に普通だ。あの、テンションの高い男は誰だったんだ?
「自分で振っといて、ごめん。今すぐは話せない。だけど、何だか君にはいつか話すかもしれない気がする。何でだろう。誰にも話したことないのに。きっと、君がオレの知っている人に似てるからかな」
「そうなんだ? ま、無理しなくていいよ。いつか話したくなったら話せば。聞くから」
「ああ。そうする。深谷野さん。ありがとう」
「礼を言われることはしてないけど」
先生はまた顔をしかめながらコーヒーを口にした。見ているこちらもつらくなる。
ふいに先生が顔を上げて、言った。
「そう言えば、深谷野さんてこっちに引っ越してきたばっかりなんだってね」
少し打ち解けてきた。言葉が砕けてきている。が、授業の時のようでもない。普通に友人と話す時とか、そんな感じだ。
「そう。母がちょっと調子が悪くて、母の実家に助けてもらってるんだ。見た目は元気そうなんだけど、ま、いろいろあったんだろうと思うんだ」
「そうか」
「今までアパート暮らしだったから、まだあの大きい家に慣れられなくって。先生、この辺の人? 知ってるかな。嶋田っていう洋風建築の家」
「嶋田?」
先生の顔色が変わった気がしたのは気のせいだろうか。いや、そうではないようだ。コーヒーカップを持つ手が震えている。
「先生。えっと」
何か言葉を掛けようとしたが、口からうまく出て来ない。困っていると先生が急に立ち上がった。
「深谷野さん。急にごめん。今日はこれで帰るよ」
「先生?」
先生は伝票をつかむと、振り返ることなく会計をして外へ出て行ってしまった。その姿を目で追っていると、先生のカップを下げに『なかたさん』が来た。一瞬迷ったが、思い切って訊いてみることにした。
「先生は大丈夫なんでしょうか。何か、私、まずいこと言ったのかなって」
「まずい、ですか? 何を言ったんですか?」
「えっと、私が住んでいる家のこと」
「それが、どうまずいんですか?」
「わからない」
薫の言葉に『なかたさん』は、
「わからないなら、気にしなくてもいいと思います」
美しい笑みを浮かべて、そう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます