一歩踏み出す感覚

 土日を挟んで、次の週の火曜日。先輩は委員会の仕事だとかで1限が終わった休み時間に先輩がやって来た。

「よう」

 5月末に知り合ってから異常に保健室で会う回数が増えたと思ったら、4月は私が登校していなかったし、5月の前半は委員が決まったばかりで、どこの委員会もなかなか動かないようだ。必然的に、5月末あたりから委員会の活動にも慣れ委員の動きが活発になる。宮下先輩と知り合ったのはたまたまそんなはじまりの時期だったのだと冷静に考えたらわかった。

 先輩は、段々と気さくに話しかけてくれるようになっていた。

 私の登下校の時間がズレているせいで、ほとんどの生徒がゆっくりと過ごせる朝と昼休みと放課後の内、私が先輩や天音、友人とゆっくり過ごせるのは昼休みに限られる。それ以外の時間に知り合いに会えるのは、貴重で、少し嬉しかった。

 石田先生に委員会の報告を済ませて、先輩は授業に戻っていく。その前に、先輩は私に「メッセージでも送ったけど」と漫画の感想を話してくれた。このシーンが綺麗だったとか、この展開が面白かったとか。そこまで聞いて、社交辞令じゃなくてきちんと楽しんで貰えたようだと、私は安心した。


 このままじゃだめだと、日に日に思いは強くなる。置いて行かれてしまう感覚が強くなる。保健室から、一歩踏み出したいという欲求も。けれど、まだ、不安だ。

 目を逸らして、怖いものは見ないようにする。置いて行かれる感覚も、踏み出したい感覚も、見ないふりをして、閉じこもる。

 このままじゃだめだと、そんな思いだけが、私には残る。胸を焦がす。



「あ、お弁当忘れた!」

その日の昼休み。私は朝の自分の動きを思い出して、玄関に置きっぱなしにしてきたであろうことに気が付いた。

 最近の私は、夜になるとこのままじゃだめだという不安が強くなり、どうしたら良いかとか、でも怖いとか、堂々巡りな思考を繰り返し、なかなか寝付けないでいた。その影響で今日は寝坊して、慌てて家を出たのだ。

 登校時間は他の子より遅いが、この時間までに、というのは一応決まっている。そのおかげで真面目な私は、教室に行けなくても保健室登校で健康的な生活リズムを崩さずに済んでいる。登校できなかった4月は遅寝遅起きでその生活習慣は夏休みの小学生よりもだらしないものだった。

 仕方ない、購買でパンでも買おう。

 私は財布を持って購買に向かった。

 保健室の出入り口で、私は足を止めた。扉は開いている。一歩踏み出せば、そこはもう廊下だ。購買に行くのなんて、なんてことない。保健室登校になっても、たまにあったことだ。

 けれど、このままじゃだめだ、と最近の私は思いすぎていて、その一歩に大きな意味を見出そうとしてしまっていた。


 ここを踏み出せれば、教室にだって行けるはず。


 それはそうかもしれない。けれど、久々に会うクラスメート、保健室の外で会った生徒はどんな顔をするだろうか。想像が膨らんで、怖くなってしまった。

 さすがは昼休み。購買からは多くの生徒の声がする。声が、どんどん、どんどん、どんどんどんどん大きく聞こえて来て。踏み出しかけた足を、私はそっと戻してしまった。

 保健室と廊下の境を前に、立ち尽くす。

「あれ、立花?」

授業から戻って来たのか、岡山先生が職員室に向かって保健室の前を通りかかった。

「久しぶりだな」

「あ、はい」

保健室の中ならともかく、足を止めた先生と立ち話をする。これではもう、廊下にいるのも同然だ。

「元気そうで良かった。購買か?」

「ええ、まあ」

知り合いが通りかかったらどうしよう。先生だったからまだ良かったものの、気まずいぞ。

 私はそんなことを考えていた。

 体育担当の岡山先生はラグビー部顧問で1年生の何組だったか忘れたが担任を持っている。岡山先生はラグビー経験者で、大柄な先生だ。壁のようだと、今は思う。

 視界のほとんどが岡山先生なので、先生の背後を生徒が通るが、私からは見えない。

 黙ってしまった私を心配しているのか、岡山先生もその場に立ち止まって動かない。ただ、背後を通る生徒に挨拶されたり、挨拶したりしている。

 先生に、どいてくださいって言うのもなあ。

「お、青山! 堀戸! また取材か」

堀戸? 天音が通ったのか。気付かなかった。私は自分でも知らず知らずのうちに、息を潜めた。

「そうです」

知らない男子の声がする。青山、という生徒だろうか。

 青山。顔が見えないので他の生徒かも知れないが、天音から青山虹あおやまこうという先輩の話を聞いたことがあるのを思い出した。美術部の先輩で、コンクールや賞でいつも大賞の天才。運動部で言うところのエースだとか。

 天音が一緒なら、十中八九青山虹先輩で間違いないだろう。

 足音からして、青山先輩と天音は職員室に入っていったようだ。

「あ、青山に連絡があるんだった! ちょっと待て青山!」

悪い、立花、それじゃあな! そう言って岡山先生は慌ただしく青山先輩の後を追う。職員室に早足で向かう先生の脇から、プリントがすり抜けた。

「あ! 岡山先生待って」

落としましたよ、と言いながら私はプリントを拾った。一歩踏み出して、私の正面を舞ったプリントを1枚拾う。

「あ」

その時、自分の足元とプリントに視線を落とす。自分の右足、上靴を履いたその下に、保健室とは違う色の床。廊下の色だ。薄いクリーム色。

「はは」

私は笑ってしまった。

「ん?」

声が届いたのか、数歩先で岡山先生が振り向く。私の手元を見て、プリントを落としたことに気づいたようだ。

「あ、悪い。立花、ありがとな」

私はプリントを持って立ち上がって、先生に2歩、歩み寄った。

「はい、どうぞ」

先生はありがとう、と言ってプリントを受け取り、すぐに青山先輩を追う。

 もう私は廊下を2歩も歩いてしまった。なんてことない事だった。廊下に出てしまえば、そう思う。岡山先生で隠れていたとはいえ、天音は私に気づかなかった。そんな、私のことを意識している生徒ばかりなわけがない。そんな当たり前のことに気づく。気が楽になった。

 私はそのまま購買に行った。そういえば前に先輩が食べてた焼きそばパン、おいしそうだったな。そう思って今日のお昼は焼きそばパンに決めた。

 今度は逆に、保健室に戻るのが怖くなった。安心できる校内唯一の場所に、戻りたい。けれど、苦労して廊下に出たのに、保健室に戻ってしまったら、出れなくなってしまうのではないだろうか。保健室の机でお昼を食べるしかないのに、私は躊躇っていた。

 そうだ、この保健室の外にいる間に、先輩にメッセージを送っておこう。私は焼きそばパンを握り、思いついた。先輩にメッセージを送り、メッセージの返信が来ることで、私は多少の外との繋がりを感じられた。その感覚にすがった。

 先輩に送る文面が浮かばなくて、結局日本史で次のテスト範囲の分からない部分を質問する内容を送った。自分でも、なんてことないとうか、くだらないというか、直接言えば良いのにとか、とにかく先輩に送る文面じゃないだろうと思うけれど、とりあえず保健室の外に出れるようにという願掛けみたいなものだから、まあ良いかと思った。先輩にメッセージを送りたかっただけだ。そう言うことにしておこう。

「あれ? 早弥?」

天音の声がした。振り返ると、職員室から出てきたところのようだ。

「天音……」

「購買?」

私の手元を見て天音が言う。

「うん」

「天音、青山先輩は?」

「あれ? 見てたの?」

天音はそう言いながら、未提出の課題があると青山先輩は岡山先生に捕まったので1人で出て来たと教えてくれた。

「天音、お昼一緒に食べる?」

「えっ」

私から誘うのは珍しいと自分でも思う。

「丁度私財布持ってるから、じゃあ購買でお昼買ってくるよ」

天音はそういうや否や、購買に行って、おにぎりを二つ買ってきた。

 私はただ、一人だと本当に保健室に「逆戻り」する気がして、誰かを誘いたかっただけだった。我ながら、自分勝手で、ずるいな、と思う。

「青山先輩と一緒に食べようと思ってたんだけど」

おにぎりを見せながら、天音は私にそう言った。

「え、ごめん!」

「いやいや、課題出してない先輩が悪いんだよー」

思わず謝ると、天音はそう言って笑った。

「折角だからさ、中庭で食べない?」

「え?」

私はそのまま、天音に半ば強引に連れられ、中庭にやって来た。もう梅雨入りしているのに、今日は晴れていて良かった。

「ここ、青山先輩がよくスケッチしてて、お気に入りの場所らしいから今日ここで一緒にお昼食べようって話してたんだけど。あの人授業そっちのけで成績も気にせず絵描いてるからさ」

たまにあるんだ、こういうこと、と天音は笑った。どうやら先生に捕まって青山先輩と天音の約束が果たされないのはしょっちゅうのようだ。

「でもここ、今アジサイが綺麗だから、ここで昼食べたくてさ。一人は寂しいから早弥がいて良かったよ」

天音はそう言ってくれた。


 私は、この感覚を忘れないように必死だった。些細なきっかけで、先生が落としたプリントで、保健室から一歩踏み出せたこと。今、アジサイが綺麗なこと。天音と話すのはやっぱり楽しいこと。成績を気にしない天才な先輩のこと。それを馬鹿にしていない、仲良さげに、誇らしげに、面白おかしく話す天音のこと。


 私は、自分の意識を、保健室の外に向けようとしていた。


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