夏風邪と汗。

 暑い、熱い、寒い。体が思うように動かない。えらい、しんどい。

 私はすべてのテストを終えると、たまらず保健室に向かった。とてもじゃないが、このままでは、後は帰宅するだけとはいえ、家まで持ちそうにない。


 慣れないことはするもんじゃないな、と思った。

「せんせーい」

もう、声を張る気力も無い。保健室に入って行って、石田先生の顔を見ると、慣れ親しんだ顔に安心した。

「早弥ちゃん!」

「風邪かなあ、ふらふらするから少し休んでから帰りたいんですけど」

「良いよ、熱測って。あまりにもしんどいなら親御さんに迎えに来てもらおう」

「今日、両親とも家にいないんですよね」

「帰宅されるのは?」

「夕方かなあ」

「夕方まで学校で待っても良いし、帰れそうなら帰ろう」

私は先生から体温計を受け取り、熱を測りながらはーいと間延びした返事をした。

熱を測る段階でえらいので、ソファに横になる。

 ピピっと電子音が鳴る。

 数字を見るのも嫌で、そのまま先生に体温計を渡した。

「38度あるね。一人で帰すのは心配だな。親御さんに連絡してくるね」

先生はあまりの熱の高さにか、慌てて保健室を出て行った。

「ふぅ」

私は浅く息をつく。呼吸が荒い。いくらしんどくても、熱があるなんて知りたく無かったな。あるだろうとは思っていたけれど、本当にあると突きつけられると急に弱気になる気がする。

 私は弱気になったせいか、瞼が重くなり、そのまま意識を手放した。


 ――どのくらい経っただろうか。

 ふと目を覚まして、眠っていたことに気づく。

「えっ」

がばっと体を起こそうとして、止められる。

「おいおい、まだ寝てろ。急に動くな」

ソファの端に宮下先輩がいた。

「知恵熱か?」

先輩が笑う。左頬がひんやりする。自動販売機で買ったばかりなのか、冷えたスポーツドリンクのペットボトルが頬に触れていた。熱で潤んだ視界には、濃い青色のパッケージははっきりと映る。視界がちかちかとする中で、鮮やかというよりは少し暗く映る濃い寒色は、目に優しいと感じた。私は少し冷静になって、目を閉じて言う。

「夏風邪と言ってください」

私は先輩に、そう返した。

 視覚情報が多すぎて、熱のある頭では処理しきれない。頭痛がする。少し落ち着いてから、そっと目を開いた。

 意地っ張り、と先輩は笑って、冷えたペットボトルをおでこに移動させてくれた。

「頑張ったな」

私はおでこのペットボトルを持つふりをしながら腕で顔を隠した。

 安曇先生に言われて、先輩に背中を押されて、頑張って期末試験を教室で受けた。テストや学力が保健室登校の原因となった私としては、タイミングとしてはあまり良くない。ただ、クラスメイトと関わる時間、教室にいる時間の少なさでは最適なタイミングだ。天音のアドバイスで、テストに集中して必死なら他のことなんて気にならないし、気にしないことにした。宮下先輩にも苦手な科目を教わりながら、出来ることは精いっぱいやった。石田先生と天音にやりきったなら、あとはどうにでもなれ! と言われ心が軽くなり、無事に月曜からの3日間の試験を教室で受け切った。その反動か、極度の緊張か、熱を出した最終日の放課後が今である。

 教室でテストを受けた。

 自分に押し潰されていたけれど、自分に打ち勝った。学力とか、テストの結果じゃなくて、そこを褒めて貰えたことが嬉しかった。

 私は震える声でありがとうございます、と言った。

「ひどい熱だな」

先輩は優しく笑ってからそう言って、私を称えながら汗を拭いてくれた。熱が高すぎて汗をかいている。いや、ちょっと待て。

「先輩! いいです! そんな、汗なんて拭いて貰わなくても!!」

私は慌てる。先輩は、お前が慌ててるところ珍しいな、なんて言っている。

 いやいや、異性に汗を拭かれるとか、同棲してるカップルでも無い限り恥ずかしすぎる、同棲してたって恥ずかしいのでは!? 経験無さ過ぎて知らんが!

「いや、汗とか、汚いですし」

「汚くない、汚くない」

先輩はからからと笑った。爽やかなスポーツの汗というわけでも、青春の代名詞のような汗でもないのに、どこが汚くないんだ。綺麗なわけないだろうに。

 先輩は、スポーツの汗や、青春の代名詞のきらきらした汗と同じだと言った。

「だって、お前が頑張った汗だからな」

同じだよ、と先輩は言ってくれる。

「……ばか」

私はそう呟いたが、先輩の言葉は無性に嬉しかった。頑張った結果、熱を出してかいた汗。だから頑張った汗だと先輩は言う。

 良いんだろうか、甘えてしまっても。そんな、部活や、スポーツを頑張っている子たちに失礼じゃないだろうか。

「お前は自分を甘やかすのが下手だから」

俺が甘やかしてやる、といたずらっ子のように先輩がにかっと笑う。そして、

「お前が頑張ったんだから、他は何でも良いんだよ」

と言った。私は慌てすぎた反動で今更眩暈がしてきた。もしかしたら先輩の「甘やかし」が甘すぎて、顔に熱が集まったのかもしれない。

「あ……からかいすぎたな、すまん」

やっと汗を拭くのを辞めた先輩に、私は顔を隠していた腕を伸ばして、ぽすっと腹パンしておいた。

 スポーツドリンクはもうぬるくなっていた。

 この際だから甘えてやる。

「先輩、喉乾いた……」

「だろうな」

先輩はそう言って、ペットボトルの新品の固い蓋を開けてくれた。私が体を起こすのを少し手伝ってくれて、起きれるか? これ飲め。そのために買って来たんだ、と声をかけてくれる。

「あ、じゃあ、お金……」

うわ言のように言う私に、先輩は良いよ、と首を振る。私は頭がぼーっとしていて、少し頑固になっていた。受け取ってもらわなきゃ困る。こーういのはしっかりしないと。

「んー。じゃあ、頑張ったご褒美で。奢りだ!」

そう言って、先輩は明るく笑った。

「んじゃ、俺帰るわ」

「あ、はい。ありがとうございます」

「また、来週な」

先輩のいつもの挨拶に、私は少し決意を込めて言う。

「先輩、保健室じゃなくて、教室とか、中庭とか、別の場所で会いましょう」

「お前……」

それは、保健室登校をやめる決意だった。先輩も、口には出さないけれどわかってくれた。

「おう。頑張れ」

先輩は、頑張っている人に頑張れと言うのは禁句だと、わかっている人だ。それでも私にそう言ったのは、私の頑張る、という決意を応援してくれたからだ。


 先輩の背中を見つめながら、私はありがとうございます、と呟いて、また目を閉じた。



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