第七十八話 見知らぬ人の鏡(22)
「ぎいっ!」
メアリーが叫んだ。グラフツは嫌らしくも少しづつ胴体に腕を絞め上げさせようとしているようだ。
「今いく!」
フランツは叫んで、前に出ようとした。
「あなたも潰されます。片足ぐらいくれてやり……ぐっ!」
メアリーは口では言うが、顔を激痛で歪めている。
――メアリーの足が失われたら、俺は一生後悔するだろう。
不条理で強迫的な観念が、フランツの頭のなかを占めた。
グラフツの性格ゆえか、すぐには潰してしまおうとしないのが幸いだ。
指が皮膚に食い込まれ、どす黒い血が滲み出していた。
「人間はみんな鏡の世界につれていかなあかん。さああんたも」
どこから取り出したのか、フランツに向けて大きな鏡を向ける。
やはり自分のようで自分ではない、見知らぬ者の顔が映っていた。
こちらを見て笑っている。
だんだん疲労し始めていたフランツは、そちらの方へ引き寄せられた。
しかし、人魚の力はそれを拒否したようだ。突如躍り上がると、一刀のもとに斬り捨てていた。
「まだ粘るか。これ以上近付いて来たら女の足はお終いやぞ!」
さらに力が込められる。メアリーは歯を食いしばって耐えていた。
――何とかしなければならない。
その時。
疾風が、吹いた。
教会からだ。
巻き上がる風のなかにファキイルが立っていた。
長い、長い髪を靡かせて。
「なんや、まだ動けんのかい。だがお前はアモスの胴体を壊せんやろ。過去に生きることしか出来ない遺物はそのまま黙っとれ!」
しかし、風は吹いた。
アモスの胴体は瞬く間に崩れ去った。
胴体を構成していたものは、砂のように粉々になって流されていく。
メアリーは地面に転がる。
「……」
ファキイルは何も言わなかった。
『アモスは誰かを恋しているようだった』
その時、ファキイルのかつての言葉をフランツは思い返していた。
あれは今から思うと、ファキイルの嫉妬だったのではないか。
――後でファキイルの過去を詳しく訊いてみたい。
「おおこわ! なんや、昔の恋人の身体をあっという間に壊してけつかる! こわっこわこわ。もうやってられんわ! 逃げまひょ!」
色を失ったグラフツは足をグルグルと回転させて猛スピードで逃走していった。
そう言うところはオドラデクとそっくりだ。
フランツは失笑してしまった。
とにもかくにも、命の危険は去った。
フランツはほっと息を吐いた。そして、メアリーに駈け寄った。
「大丈夫か」
「これしきで……」
とメアリーは立ち上がろうとしたが、がくりとくずおれる。
「肩を貸してやる」
フランツは背中を向けた。
「血でべったりですよ」
メアリーは笑った。
「そんな元気があるなら、必要ないな」
フランツは肩を退けようとした。
「いえ、すっかり乾いてますからね」
メアリーは伸し掛かってきた。
人肌の温もりは、フランツを動揺させる。
「なんであそこまで戦おうとした。お前は逃げてもよかったんだ」
「そんなこと、言いっこなしですよ。一蓮托生ってやつです」
フランツはメアリーを抱えて歩き出した。
今日一日でファキイルもメアリーも抱えることになってしまった。
どちらも、とても軽かった。
――俺、気持ち悪いな。なんてことを考えてるんだ。
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