第六十六話 名づけえぬもの(31)
「とりあえず、あたしらは勝った。トルタニア全土の危機を、心ならずも救っちまった。これは、褒められていいことに思う」
ズデンカはそれを華麗に無視して、皆を向いて言った。
「でも、スワスティカの残党は他にもいるでしょ?」
バルトロメウスが静かに問う。
「そりゃいるが、ルナの度には関係ない。そうだろ」
ズデンカは訊いた。
「う、うん! もちろん!」
放心したように立ち尽くしていたルナはビクッとなって振り返った。
「おいおいどうしたよ? すっかり気抜けしちまったかぁ?」
ズデンカは
「まあ、そうだね。あの人にはずっと、虐待されてたから」
「それが言えるようになっただけでも大した進歩だ」
ズデンカは言った。これまでルナは長いことハウザーから受けたことを曖昧にしか語らなかった。それをこうはっきり言葉に出来たのは重要な進歩だ。
「そんなものかな」
ルナは遠くを見やった。
「とりあえず、カミーユらと合流するぞ。そろそろ夜も明けてきた」
気がつけば一晩中戦い続けていたようだ。
朝日が地平線のかなたから顔を見せ、すっかり残骸になったパヴィッチの街並みを照らし出す。
人の死骸もたくさん転がっている。
「だいぶ死んだな」
「本当は死ななくても良かった命なのに」
「まさか、自分のせいでなんて思ってねえよな?」
ズデンカは自分からルナの方を組んで睨み付けた。
「まあ……」
ルナが目を伏せる。
ズデンカはそのほっぺたを弾いた。
「馬鹿」
「ごめん」
ルナが謝った。
「やけに自信がなさそうだな」
ズデンカは言った。
「そりゃ……まあ」
ルナは口籠もる。
「お前は勝った。あたしも勝った。いや、ここにいるヴィトルドも、バルトロメウスも、ジナイーダもカミーユも勝った。そして生き残った。これが答えだろ? うんと言え」
「うん」
ルナは言われたとおりにして、はにかむように微笑んだ。
しかし、その時だ。
カツカツと靴の音がして、瓦礫の向こうから、豊かな橙色の挑発を持つトレンチコート――大戦の時に生まれた新しいファッションだ――の背の低い少女が勢いよく進んできていた。
その手には何か白い塊が握られている。
ズデンカはすぐに何だかわかった。さきほど『名づけえぬもの』の背中に浮かんでいたハウザーの顔だ。石膏板に刻まれたような面持ちだった。
「哀れなこったねえ、ハウザーよ。お前はいつも『対話』とか抜かしてきたけど、ウジ虫に対話はいらねえよ。踏みつぶすだけだ。結局はおめえが踏みつぶされる側に回ったわけだ」
そして無造作に塊を地面に叩き付けると足でぐちゃぐちゃに踏みにじった。
瞬時にズデンカはその少女が普通の存在ではないことに気付いた。
「お前は、誰だ?」
「自己紹介が遅れたな。俺はスワスティカ元宣伝相ジンプリチウス」
もちろん、聞き覚えのある名前だ。大戦時にはスワスティカの国内国外問わず、その影響力は絶大だった。独特の政策を駆使し、総統エッカートの支持率を高めた陰の立て役者だ。
だが、不思議なのは――。
新聞に載る写真のジムプリチウスは男だった。それも、初老の男性だ。
だが眼の前に悠々とした表情で立ち尽くす少女は、同じ名前を名乗っている。
大蟻喰のようにかつての自分から面立ちをすっかり変えた者もいるが、そういうクチなのだろうか?
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