第六十六話 名づけえぬもの(22)

「ルナ。もう時間はない」


 ズデンカは言った。ハウザーだっていつ気付くかわからない。


「……」


 ルナは答えない。


――ふざけてんのか。


 ズデンカは腹が立ってきた。


「わたしもいかなきゃって思ってる。でも、正直怖いんだ。君はわたしが死ぬときまで傍にいてくれるっていったよね」


 ルナの声は震えていた。


「ああ」


 ズデンカはルナの目を見て即答した。


「でも……」


 ルナは顔を伏せた。


「あたしの言うことが信じられないのか?」


「信じられないわけじゃない。でも、怖いんだよ」


「あたしは怖くない」


「そりゃ君は死なないから……」


 ルナの声はまた震えた。


「そうだろうな。あたしとお前は違う」


「だよね。じゃあ……」


「だが、違うからこそやってこれただろ? それとも嫌だったか」


「そんなことない。君と旅を出来てすごく楽しかったよ」


「じゃあ破ってこい。お楽しみは続く」


 ズデンカは手を差し出した。


「……」


 ルナが手を伸ばした。ズデンカは強く掴んで引っ張った。


 びりびりびりびりびり。


 糸が切れる音。


 全裸のルナが立ち上がった。


「恥ずかしい」


 ルナは少し顔を赤くした。


「恥ずかしがんなよ。誰も見てねえよな? あ?」


 ズデンカは見上げながらバルタザールに問うた。


「はいはい、もちろんですよ!」


 バルタザールが答えた。


 ズデンカはルナをまた抱きしめた。


 ズデンカはルナの背中を撫でた。暖かい、人間の体温が伝わってきた。これはルナの心の中の風景だと知ってはいても、生々しい感触だった。


「もう独りで迷うな。迷ったらあたしを頼れ」


――あまり行き過ぎるとルナを甘やかすことになるがな。


「うん」


 ルナはこくこくと首を上下させて頷いた。


「おい、バルタザール、これからどうすればいい?」 


「ルナさん、僕の声が聞こえますか……」


「あ、あなたは?」


 ルナはどもりながら訊いた。


「僕はバルタザールと申します。鼠の三賢者の一人です。ルナさんの姿は見えませんから安心して!」


 バルタザールの血がルナの中に入ったことはあえて言わないようだった。


 ズデンカもそれは正しいと思った。


 ルナは大の鼠嫌いなのだから。


「そ、そうですか……」


 やはりルナはまだいつもの調子には戻っていない。


 ズデンカは一抹の不安を感じた。


「今、ズデンカさんはあなたの心のなかに語り掛けています。目覚めたいなら強く願ってください」


「は……はい」


 ルナは目をつぶった。そして何か呟いた。


 次の瞬間だ。ズデンカは元に戻っていた。紫の塊を前にしてだ。


――一体、どれだけ時間が進んでいる?


 周りを見回した。


 ヴィトルドやバルトロメウスの姿も見える。さきほどからあまり進んでいないようだ。


――あとは、ルナだ。何とかやってくれよ。


 ズデンカは祈った。神は信じないから、誰に対して祈ったのかすらよくわからない対象に向かって。


 物凄い音が響いた。ズデンカが押さえ付けていた紫の塊に、亀裂が入ったのだ。やがてそれは広がっていき、パックリと二つに割れた。


 ルナが立っていた。身体中を紫色の液体に染めながら、しかし、足どりはしっかりと、ズデンカに向かって歩いてきた。


「やあ、待たせたね」


 神経質な笑いがルナの口の端に浮かべていた。

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