第三十八話 人魚の嘆き(9)

「ちょっと言い過ぎちゃいましたかね」


 オドラデクがフランツの脇腹を突いた時、部屋の扉が開いて、ファキイルが入ってきた。


 その腋には紙包みが一抱えあるきりで、オドラデクとまるで対蹠的だったので、フランツは噴き出してしまった。


「目立たないように移動したか?」


 フランツはそこを言い忘れたので、気がかりになっていた。


「歩いていったぞ」


 ファキイルは手短に答えた。


「それはよかった」


 ファキイルが差し出す包を開けると、解熱剤の瓶が入っていた。


 オルランドにいた頃愛用していた懐かしいものだ。


「こんなの頼んでないぞ」


「熱を下げる薬を売っている場所を訊いていたら遅くなった」


――ファキイルなりの配慮か。


 フランツはありがたく感じた。


 フランツは解熱剤の蓋を開けて、一顆飲んだ。


 包みの中には他に橄欖オリーヴの缶詰と、切り分けられたパンが入っていた。


 フランツはそれを開けて、皿に橄欖を開けてパンをそれに浸しながら食べた。


「もぐもぐ」


 オドラデクも囓っている。


フランツは止めもしないで自分のパンを食べた。


 注意する気力も湧かないし、食欲もさほどなかったからだ。


 腹はすぐにくちくなった。


「一人で大丈夫だったか?」


 フランツはファキイルに訊いた。


「問題なかった」


 相変わらずファキイルは手短に答える。


「我は子供ではないからな」


 ファキイルなりのユーモアを感じ取りながらフランツは横になった。


 もう、寒気はしない。


「フランツさんが刺青をした時の話をしてくれましたよ」


 オドラデクは自慢げに言った。先に情報を手に入れた者の強みというわけだろう。


「どんな風だったか?」


 ファキイルは表情を変えずに訊いた。


「人魚が墨になってそれを使って彫ったのだそうですよ」


「面白いな」


「何でも、人魚はある人に恋をして、その人を失って嘆きながら死んでいったようなんですよ」


「人魚の友は我にもいたぞ」


「ほんとうか?」


 ガバリと毛布をもたげてフランツは起き上がった。


 訊きたがっていた真実の方から突然目の前に飛び込んでくるとは。


「うむ。確か恋をしたという話を訊いた覚えがある」


「詳しく、詳しく話してくれ」


 フランツは二回繰り返しながら言った。


「あまり覚えていない。だが、北のあたりだったと記憶している。近くに大きな国があって、そこの一族と海に旅した時に出会ったとか」


 ファキイルにしては長めに説明していた。それほど印象に残った事件だったのか。


「それだけじゃなんともだ、他に思い出せないか」


「思い出せない。その時は覚えていたのだが」


 ファキイルは黙ってしまった。


 大体ファキイルは訪れた地域や人の名前をそこまではっきり記憶しているたちではない。過去のことは綺麗さっぱり忘れることにしているようだ。


 今でこそフランツもオドラデクも名前を覚えられているが、百年後も確実に生きているだろうファキイルに覚えられている自信はなかった。


 フランツは不満だった。


「少しわかっただけで良いじゃないですか」


 オドラデクは微笑んだ。


「俺は謎は嫌いだ。全部わかる方がいい」


「贅沢言わない。じゃあ、この件がすんだら北へ行きますか?」


 オドラデクがまた顔を覗き込んできた。


 それをはねのけて、また毛布に潜り込むフランツだった。

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