第三十八話 人魚の嘆き(7)
「何もないなあ。無趣味だね。本もほとんど置いてないとか」
この頃から使い始めていたモノクルを近づけたり遠ざけたりしながら、ルナは言った。
「図書館で借りることが多い」
俺は答えた。
「本は買わないといけないよ。いくらお金を払っても」
「金持ちだから言えるセリフだぞ、それ。再度読み返したい本は少ないんでな」
「ふーん、つまんないの」
そう言われて腹が立ったら熱も上がってくる。
相手にしないことにした。
半身を起こしてベッドの横に置いてあった解熱剤を飲んだ。ちょっと楽になった気がした。
ルナはまだガサゴソと家捜しを続けていた。
「ところで刺青はどんな感じ? 見せてよ」
俺が何度か寝返りを打ったところでいきなりルナはこちらにクイッと顔を持ち上げて言い始めた。
「誰が見せるか」
俺は断った。せっかく下げた熱がまた上がってきそうな勢いだ。
「ふうん、つまんないの」
ルナが男には興味ないのは知ってる。単に芸術的な関心からだろう。
それでも、言われる方はドキッとする。
「まだ腫れも引かないし」
弁解するように付け加えた。
「そうかあ」
ルナの関心はあっという間に移り変わって、部屋をまだしばらく探していたが、やがて思い立ったように立ち上がって出て言ってしまった。
あいつはいつもこうだ。
俺はしばらくの間寝返りを打ち続けたが、眠ってしまった。
そしたら、夢を見たんだ。
寒風吹きすさぶ大海原。
黒々と波打ち、顔に飛沫が飛んでくる。
岩礁に腰掛けた人魚の姿が眼に入る。
人魚は髪を振り乱して、何かを海に向かって叫んでいた。
顔を歪め、声を荒げて。
これは、嘆きの声だ。
涙は真っ赤な血となって、頬を伝い落ち流れていた。
それを見て、俺は総身に鳥肌が立ち、震えが走るのがよくわかった。
「××××××」
人魚は振り返り、悲しそうな顔で何か俺に叫んだ。でも、よく聴き取れなかった。
今に到るまで、それはわからない。
俺は目覚めた。
汗びっしょりだった。お陰か、熱はもう上がらなかった。
五日ぐらい経つとすっかり元気になって自由に動き回れるようになった。
すぐにでも訓練に行きたかったのだが、一週間は待つことにした。
シンサンメイの嫌な顔を拝んでから、普通の生活に戻りたいと思ったのだ。
「やあやあ、待ち侘びたよ」
シンサンメイは肩を揺り動かしながらこちらに歩いてきた。
――他の客はどうした。こいつ、よっぽどの暇人か。
「なんか変なことはなかった?」
シンサンメイが訊く。
「夢を見た。人魚が出てきた」
俺は一応報告することにした。
「うしうし。成功したみたいだね」
シンサンメイは口元を押さえて笑った。
「なんだったんだ、あれは」
「人魚の記憶だよ。大事な人を失った時のだろう。死ぬ前にそう言っていた」
刺青が定着した俺の背中をシンサンメイはパチパチと何度も叩いていた。
人魚の記憶が身体の中に宿ったと考えると薄気味が悪かった。
「人魚の嘆きは、君に力を与えるよ。生きていく力をね」
シンサンメイは意味深な言い方をした。
「具体的にはどうなんだ?」
「言わない方が良いね。というか俺も知らないんだ」
「はあ?」
「俺には加護が与えられる、とだけしか言わなかったからね人魚は。でも、微笑みながら墨になっていったよ」
シンサンメイは思い返すように目を閉じた。
それを見て、俺までしんみりした気分になってしまった。
「君が生きていく中で探しだしてごらん」
そう言われてここまでやってきたが、何も見つけ出せていない。
あの海に向かって嘆く人魚の姿だけがいまだに眼に焼き付いて離れない。
何か心当たりはないか?
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