第三十六話 闇の絵巻(2)

 燐光をぽつぽつと発しながら、白い塊は窓ガラスに高速度で近付いてくる。


 まったき闇の中でそこだけが浮き上がっているかのようなのは変な感じだった。


「あれはなんだ?」


 ズデンカは問うた。


「さあ」


 ルナは首を捻った。


「怪しいやつなら撃退するしかない」


 カスパー・ハウザーの顔を一瞬ズデンカは思い出していた。


「できるかな? 君も霊は攻撃できないだろ」


 ルナは出し抜けに言った。


「霊だと? なんでそんなことがわかる?」


「勘だよ。わたしも色々不思議なものを見たり記憶したりしているからわかるんだ。少しばかり蘊蓄を傾ければ、人間の身体の中にアストラル体とか、エーテル体と呼ばれる光が入っているって話、訊いたことない? クンデラを出発直後にわたしたちのところにきたヴラディミールさんははっきりした姿をしてたけど、だいたいはあんな風に宙を漂ってる頃が多いらしい」


「なんかで読んだ気もするが……」


「死んだり、何かの拍子で人体からこの光が外へ漏れることがある。生きている人間は稀にそれを観測できる。まあ、神智学っていうやつさ。知らなくてもいい無駄知識だけどね」


「オカルトなんぞどうでもいい。だがあれは今あたしの目の前に現れているんだ」


 ズデンカは光を指差した。もう硝子の車窓のすれすれまで近付いて来ていた。


 髪の長い少女の姿をしているようにも見える。


 『野菊の別れ』の最後のページを閉じて、涙に濡れた目を上げたカミーユは、それを見詰めることになった。


「あ、インゲボルグ!」


 と呟いていた。


「おいおい、そこまで小説の世界に入り込んでしまったのか? だいたい、文字だけの本でなんで顔がわかるんだ?」


「あ、いえ、少女小説には挿絵もあって……」


 呆気にとられていたカミーユは急いでページをめくって、挿絵を示した。


 確かにそこに描かれている少女の姿は、闇の絵巻に浮かび出た白い塊と似ているような気がした。


「だが、インゲボルグは小説の中に出てくるやつだろう? なんで霊になってあらわれるんだよ」


「わかりません。でも作者の前書きによれば、この小説は実話を元にしているらしいです。インゲボルグのモデルは作者の友達らしくて」


「そういや、インゲボルグは最後どうなるんだ」


「亡くなるんです。大好きだったペーターとは会えないまま。何十年も経ってそのお墓には新しい野菊が一杯植えられていたってところで終わります」


「なるほど、その話が事実とするなら、亡くなった女性がいたってことになるね」


「でも、この本はルナさんの所持品ですから、オルランド公国で出版されていて、同地が舞台となっているんです。ネルダでもヴィトカツイでもありません」


「霊だって移動するさ。それにこの季節――春の半ばは霊にとって重要なイベントがある」


 ルナはピンと人差し指を立てて説明し始めた。


「年に一回、アララト山脈で霊たちが集会を開くことになっているんだけど、遠くだからいけないものたちもいる。各地の大きな山の頂では小さな集会が開かれる慣わしになってるんだよ」


「そんなことがあるんだなあ」


 ズデンカは驚いた。


「『ゴルダヴァ地誌』をよく読んでごらん。それに類される逸話が載ってるから」


 ルナはズデンカは横に立て掛けていた本を差して言った。


「なんだよ、お前読んでいたのか」


 ズデンカは気分を害した。


「とっくの昔にね」


 ルナはウインクする。

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