第二十九話 幻の下宿人(10)

 ――いつもこれだ。


ズデンカは呆れた。いや、呆れもしなかったほどだ。人を掌の上で転がして、自分は関わりないみたいな顔をルナは良くする。それがズデンカには憎らしかった。


「さて、出立しようか」


 ルナは起き上がって着替えを始めた。


「まだ暗いぜ」


 ズデンカは言った。


「でも、もうたっぷり寝たからね」


「宿を出るのか」


「うん」


 ルナは寝間着を脱いでシーツの上に置いた。


「もう大丈夫だからな」


 ズデンカはカミーユの耳元で優しく囁き続けていた。


「カミーユはどう? これから動けそう?」


 気を遣ったのかルナは声を掛ける。


――黙っとけよ。


 かえってカミーユを不安にさせるかもしれないと思ったズデンカは鬱陶しく思った。


「はい……大丈夫です」


 ズデンカの腕の中で縮こまっていたカミーユは突然すっくと背筋を正して言った。


「じゃあ、いこう。あ、着替えはちゃんとしてね」


 そう言うルナはシャツに袖を通さず引っ掛けたままだった。


「やれやれ」


 ズデンカはカミーユから腕を放し、ルナの着替えの手伝いを始めた。


 

深夜の闇の中、跫音を立てないよう注意しながら、三人は一階へ降りた。昼間あれだけ多かった人は、今はすっかりいなくなっていた。


 『霰弾亭』は居酒屋のため、夜通し飲み歩く客がいたが、この店は早めに閉めてしまうようだ。


 がらんとして誰もいない店内の椅子に腰を下ろして、啜り泣いている人影が見つかった。


 ヤナーチェクだ。


「やあやあ、どうでしょう? ヴァーツラフさんと会えてよかったでしょ?」


 ルナがガタガタと音を立てて駆けよっていった。


――無視して出りゃあいいんだ。


 ズデンカは額に手をやった。


「いえ、会わなければよかったんです。僕に大事なことは何も教えてくれなかった」


「単にあなたに教えたくなかったってだけはないでしょうか」


「どういうことだ!」 


 怒りに両腕を震わせて、ヤナーチェクは立ち上がった。


 ズデンカは思わず身体が動きそうになったが寸前で止めた。


 またヤナーチェクはすぐすすり泣き始めていたからだ。


「結局、他人の心はわからない。永遠の謎です。一緒に抱き合って解け消えてしまいたい。そう願った相手だって、離れてみたら永遠に幻想として残る」


 ルナはパイプを吹かしたそうに頬を掻いていた。


 闇の中では服に炎が燃え移ると思ってズデンカが預かっていたのだ。


「……」


 ヤナーチェクは黙った。納得したのか否か。


「しけた幻想に報いあれ」


 ルナはそう囁いて机の上に宿と食事代を置き、ヤナーチェクの傍を離れた。


 久しぶりに聞く決まり文句だった。


「余計なことをしたな」


 ズデンカは先に歩き出すルナに告げた。

 

「さあ、それはわからないよ」


 ルナは答えた。


 ズデンカは横を行くカミーユの歩調に気遣いながら歩いた。


 扉を開けて外へ出る。


 綺麗な月夜だった。しかも満月だ。ルナの顔のごとく、頭上で輝いている。


 光が波のように目の前に溢れていた。


「人は変わるものさ。ヤナーチェクさんだっていつか、ヴァーツラフさんを忘れる」


「そんなに簡単に愛した相手のことは忘れられないだろう。お前には縁のないことかもしれねえがな」


 ズデンカは嘲った。


「失礼な。わたしだって昔は鳴らしたものだよ。今は出会いがないだけさ」


 ルナは笑った。


「月が……綺麗ですね」


 二人の会話を聞いて、だんだん笑顔になりつつあったカミーユがぽつりと口にした。

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