第二十九話 幻の下宿人(9)
ヤナーチェクは言葉も発さずに床に崩れ落ち、ヴァーツラフと思しき者の膝を抱きしめていた。
でも、ヴァーツラフの方には感動した様子が少しも感じられない。
しばらく会話のない時間が続いた。
「なんで……君は……悪魔なんかを……」
「僕は呼び出したかったんだ……。この世の全てを知りたかったのに……」
ヴァーツラフはぼんやりした面持ちで呟いていた。
心ここにあらず、といった風で、ヤナーチェクと再会したにもかかわらず、喜んですらいないようだ。
「なぜあいつは」
ズデンカはルナの耳元へ顔を寄せて言った。
「あれはヤナーチェクさんの中にある幻想さ。本物のヴァーツラフさんではないよ。わたしの手帳の記された方が本物なんだ」
「それを呼び出すことは出来ないのか」
ズデンカは心なしか可哀想になってきていた。
「だから、肉屑になるって言ったじゃないか」
「……そうだったな。だが、なんでこんな酷なことを」
「えー、あたりまえじゃないか。わたしは
「願いは、叶ったと言えるか。あれで」
ズデンカは指差した。
「ヴァーツラフくん! ヴァーツラフくん!」
何度も何度も叫ぶヤナーチェク。
「あ、そっかー。ヴァーツラフさんのお陰で、
ルナはあっけらかんと頓珍漢なことを言った。
「やめとけ」
ルナのこう言うところは、ズデンカは本当によくわからない。
「悪魔を呼び出すのは流石に、ね」
ルナはウインクした。
「うーん」
ルナの横で寝返りを打っていたカミーユがうっすらと目を覚ました。
「ルナさん、ズデンカさん、どうした……きゃああああああああ!」
目の前に立っているヤナーチェクとヴァーツラフの姿を見て、叫びをあげるカミーユ。
顔が青ざめてガタガタ震え、恐怖していた。
「いけない」
ルナが手を振るとヴァーツラフの姿は消えた。
カミーユはかつて父親から虐待され、あまり男性が好きではないと言う話は聞いていた。寝室に入ってこられるのは、怖くて仕方がないだろう。
ルナも少し決まり悪そうな顔になっていた。
ズデンカも察してランプの灯りを消した。
「ヤナーチェクさん、部屋を出てくださいませんか」
ルナは丁寧は言った。
「は……はい」
ヤナーチェクは震えながら立ち上がり、よろよろ部屋を出ていった。
「自殺したりしないだろうな」
とズデンカは言いながら、カミーユの横に移動し、その肩を優しく抱き寄せた。昼間のように。
「それはわからない。ヤナーチェクさんが強くなるのを期待するしかないね。仮にも宿屋の経営はうまくいってるんだし、大丈夫だろう」
「お前でもうまくいかないことはあるんだな」
「それ、どう言う意味だよー」
「今まで話をしてくれたやつを……何と言ったらいいのか。ちゃんと、ある方向に導いてやっただろ? 悪い奴なら懲らしめて、みたいな感じでさ。だが今回のお前はヤナーチェクの望むものを与えられなかった」
「わたしは導いたつもりなんてないさ」
ルナは穏やかに答えた。
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