第二十九話 幻の下宿人(2)

 肉が焼ける良い匂いが漂ってきた。


 この宿は料理屋も兼ねているのだ。


 ルナたちが先日隣国のラミュで泊まった『霰弾亭』もそうだった。あちらは居酒屋だったが。


 この地方の流行なのだろうかと、ズデンカは思った。


 騒がしい賑やかな声が聞こえてくる。三人は隅の机に腰を下ろした。


「おや、これはこれは、ご高名なルナ・ペルッツさまではありませんか」


 店員が駆け寄ってきた。


「それは実にありがたい。わたしの名前をご存じとは! こちらの言葉に翻訳されてましたかね」


 さきほど、検問所で名前を知らない人ばかりの相手をさせられたせいか、知る人にあって、ルナはご機嫌なようだった。


――現金なやつだ。


 ズデンカは思った。


「はい。最近やっと『第三綺譚集』が出たばかりですが。続刊を待っている身の者としては本当に数年ぶりに渇を癒やした思いがしました」


「それは良かった。でも、こちらの出版社さんから印税の方、ちゃんと頂いていましたっけ……どうも覚えがないなあ」


「金の管理はちゃんとやっとけアホが」


 ズデンカはルナを小突いた。


「う~んと……確か記録してたはずだけど、あー! ミュノーナに置いてきちゃった!」


 ルナは頭を抱えた。金銭の管理が全くなってないのだ。「綺譚おはなし」とやらを記録する手帳は毎度携えてきているのに、肝心の金銭関係の書類は一切持ってきていないとは。


「三ヶ月前、入金されてるぞ。あたしが確認しておいた」


 ズデンカは言った。この手のことは旅先の銀行で確認を取り、克明に記録している。


「ありがとう! 君がやってくれてるって思ってたよ!」


「お前なあ」


 ズデンカは複雑な気持ちになった。お金にルーズなルナをこのまま甘やかしていてもいいものか、不安になってくる一方、頼られるのは悪くなかったからだ。


「改めて、ルナさんってお金持ちなんですね! 旅ばっかりしてるのにお金が入ってくるなんて!」


 カミーユは驚いているようだった。


「ふふん、まあちょっとした成金でしてね」


 ルナは鼻の下を指でこすった。


「そう言えば、お前は前からルナの名前を知ってたか?」


 ズデンカは訊いた。


「いえ、本はあまり読まないので……それでも教育の一環として昔祖母に読まされましたが古典ばっかりで新しいものは一切……」


 カミーユは恥ずかしそうに言った。


 ルナが残念そうな顔になっているのを見てズデンカはニヤリとした。


「お客さま、ところで今日はお泊まりですか?」


 店員は訊いてくる。まだ若い青年だった。


「え、店員さん、宿屋の人でもあっただったんですか?」


 ルナは驚いて訊いた。


「はい、僕はこの宿屋兼料理店の店主で、ヤナーチェクという者です」


「これはこれはご店主さまとは」


 ルナは立ち上がり綺麗な動きで脱帽しながら一礼した。


――格好付けてやがる。


「いえいえ、ご挨拶を頂くような者ではありません。去年親父が死んで、店を引き継いだばっかりで。まだ右も左も分からない中を何とかやってます」


「その割りには繁盛なさってますよ。ご商売上手ですね!」


 ルナはおだてた。


「ありがとうございます! ところで、一つお願いがあるのですが」


 ヤナーチェクは怖ず怖ずと言った。


「何でしょう」


 ルナのモノクルが光った。

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