第二話 タイコたたきの夢(5)

 やがて、兵舎の近く、やたら年経た楡の木に、黒い影がぶらぶらと揺れているのがわかった。


 ぶらぶら、ぶーらぶらと。


 静かに、音も立てずに。


 ドラムの響きが、まだ耳の中で木魂していた。


 あいつだった。蝋燭の光を当てて見るまでもなく分かった。ろくに食い物も飲み込めず、痩せきった身体。


 どこから手に入れたのだろう。太い縄を首の周りに巻いて、そいつは死んでいた。

 安らかな死に顔だったとはとても言えないさ。


 俺はしばらく人を呼ばずに、木の幹にへたりこんでいた。


 というか、呼びたくなかった。


 なんで、こんなことになるまで放って置いたんだ。


 怒りが込み上げてきた。


 お前らがイジメ殺したようなもんだろうが。


 なのに、太鼓の音は響いている。なぜだ。どこからだ。

 我慢ならなかった。


 何でこんな風にしたんだ。死ぬしかないなんて。そんなの嫌だ。


「なるほど、君は逃げたんだね」


 太鼓の音は近付いて来た。


「俺が?」


 俺は頭をもたげた。


 そこには丸顔でモノクルを掛け、パイプで煙草を吹かした女――


 お前だ、ルナ・ペルッツ!

「何度も腹を殴られ、お嬢ちゃん呼ばわりされるのがいやだった。そうだね」


 俺じゃない。


 それは俺じゃなくて。


「なら、木に吊されている『彼』の顔を見てごらん」


 いやだ。


 何で見ないといけない。


 お前は。


 なぜ、見せてくるんだ。


「こういうことだったのか」


 黒髪の背の高いメイド――ズデンカが掲げたカンテラの灯りが死体の顔を照らし出す。


 木から吊されているのは、俺だ。


「君は自殺しようとしたんだね。でも、死にきれなかった。だから、逃げ出した」

「分かった口を利くな!」


「でも、それは事実だろ?」

「……」


 言葉が出ない。襟の下が酷く痛む。縄の痕をずっと隠してきた。


「残念ながら君は生きのびてしまった。それは仕方ない。じゃあ、出来ることは二つだ。また死ぬか、また生きるか」


 ペルッツは言った。

 答えられなかったよ。


「今決めなくてもいい、君には時間があるんだ」

「でも、脱走したら銃殺だ」


「そこを何とかして、兵士も辞めさせてあげよう。わたしは願いを一つ叶えられるのだから」

「だが、俺の話は嘘だった!」


 そうだ。何もかも嘘だ。


「俺は逃げた理由を知られるのが嫌だった。だから同僚の話にした。俺は独りぼっちで、でも、下手かも知れないけど、音楽は誰よりも好きだった。話す相手すらいない。自問自答の中で相手を作り出して、そいつを殺すことで」


「脱走した。君は生きようとしたんだ。逃げた方がいいことはたくさんある」


 ルナは落ち着いて言った。


「もう、あんなところに戻りたくない。俺は生きたい」


 涙が頬を伝うのが分かった。でも、なぜかこいつに話を聞いて貰うとすっきりした。


「お前を殺す場所に帰ることはないさ」


ズデンカは腕を組んでいる。


「なんだよ。お前はさっきちゃんと働けって言っただろ」

「あたしも鬼じゃねえよ、クソガキ。話を聞いた後じゃ意見も変わるぜ。つーか、口答えできるぶん、まだ元気ってことだ」


 そうやって頭をごしごし撫でられた。でも、さっきとは違って荒くない。


「つまらない本当より、面白い嘘がいいな。わたしは君の綺譚おはなし、十分面白かったよ」

「別に俺は、話なんて聞かせたかったわけじゃない」

「まあ、いいじゃないか。とりあえず、現実に戻ろう」


 ルナは俺の額に軽く指を置いた。

 

 

  ハンスは涙を流したまま、目を覚ました。

 ルナはパイプを燻らして煙を辺りにまき散らしていた。

 

「願いを叶えてくれるのか」


 ハンスは怖ず怖ずと口にした。


「二言はない。でもね、このホテルにずっといちゃあ話が進まない。直談判と行こう」


 ルナは立ち上がった。


「と言うか、お前は軍医の女のところへ行くんじゃなかったのか?」

「行く場所は変わらないよ。単に冷やかしにいこうと思っていたところに面白い土産話が出来たしね」


「なんだよ土産話って!」


 ズデンカとハンスが同時に言った。

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