第2章 第16部 第4話

 襖が閉められると、室内の空気はやや温まり始める。というのも、部屋の隅には火鉢が置かれてあり、炭が燃されている。


 遠赤熱を伴った空気が徐々に対流しているのがよく解る。

 

 藤がノートパソコンを開くと、小梅は興味津々である。


 「おや?興味あるんですか?」


 「はい。学業というものを営んだことがないので、学生とはどういったことをするのかと……」

 「そうなんですね。許可が下りない……のですか?」


 「いえ、そうではなく、矢張り若様の事が心配でもありますし、私は祖母の後を継いで、屋敷仕えをするつもりでいますので、そちらの修行を……。ああ、でも私も若様も、別に勉学を怠っているわけではありませんよ?」


 とはいうものの、特別に優秀な家庭教師が常時彼女の教育を行っているようにも思えない。菱家の大人達が彼女の面倒を見ることがあっても、矢張り同年代とのコミュニケーション不足というのは、いかんともしがたい。


 尤も自分とも五つほど年は離れており、小学生で言えば高学年と低学年ほどの差となり、また、その年齢差では共通する学年の世代にはなれないだろう。


 「勉強道具をお持ちなさい。片手間でよろしければ、見て差し上げますよ」


 「え?いいんですか?」


 「構いませんよ。ボクもレポートを書いている間は、此処から動きませんし……。まぁ、そうですねコーヒーくらいは、お願いしたいですが」


 「解りました!」


 小梅はそそくさと動き出す。


 彼女が能力者で、この屋敷の管理を引き継ぐというのなら、修行も欠かせないだろう。尚のこと独学の勉強では、学業に滞りが出る。


 彼女に必要なのは、得意を伸ばすことではなく、幅広い学習で一般教養だ。幅広い知識は、一見無駄に思えても、ある時突然人生のヒントをくれるものだと、藤は思っている。


 世の中に、不必要なものなど一つも無く、それは娯楽に費やしたい時間を得るための、言わば体の良い言い訳だと思っているのだ。


 勿論遊びも若者の本分であり、藤はその当たりも滞りなく拙くと言ったところだ。

 

 小梅はまず、学習の道具をテーブルに置き、その後忙しなくコーヒーを入れるために、台所へと向かうのである。

 

 それから一時間程度が経つ。


 大して有用な時間が取れたわけではないが、それでも僅かな進捗が、時間の余裕を生む。それは小梅にも言える事で、藤に勉学を教わるその時間は、家の者と接するものとは少々異なる新鮮な時間であった。


 彼女は特に勉学を嫌っているわけではなく、矢張り炎弥の身を慮ってのことなのだと、藤は思う。そして炎弥にもそれが必要なのだろう。彼女であれば、小梅の人生を犠牲にしてまで自分の生の糧にする事を、本来嫌うはずだ。


 だが、その好意に甘えざるを得ないのが現状である。なにせお竹も高齢なのだ。


 炎弥とて、男衆にその世話をさせるのは、気が引けるのも当然で、年の近い小梅や、姉代わりの依沢というのは、間違い無く彼女の心のよりどころであるに違いない。

 

 その夜は、すき焼きだった。


 そしてそれは自分が持ち込んだ肉でもある。とはいうものの、それを持たせたのは大地だ。食べ方には特に拘りはない。鍋に肉野菜を放り込み、割り下で煮込み、溶き卵で食べるごくごく一般家庭で食べるやり方だ。

 

 上等な肉なのだから、正式な作法で食べるのが筋でもあろうとも思うのだが、余り気を遣う事の無い、そのごく自然なお竹の対応が、藤を客人としてよりも、熟れた知人を招くようで、藤には妙に好感がもてた。

 

 本当に三人だけの静かな夕食である。このときばかりは、小梅も給仕ではなく、同じ食卓を囲む。

 

 「本当に、家の者が不在で、藤様には申し訳ないことを致しました」

 

 食後改めて、小梅がそんなことを言ってくるのだ。間違い無く彼女は、今日の事は知らないのだろう。そして恐らくこのことを知っているのは、大地とお竹だけだ。


 「いえいえ。おかげでのんびりさせて頂きました。普段は大地の側近のような事ばかりしていますからね」


 そうは言っているものの、彼はそれに嫌気を差しているわけではなく、それを誇りにしている。そんな腑に落ちている表情は、小梅にも十分理解出来る。


 立場は異なるのだろうが、それは自分が炎弥を支えたいと思うのと、変わらない気持ちなのだろうと、理解する。


 「つかぬ事をお伺いするのですが、貴女の同世代の子達はいないのですか?」


 「います。その子達は学校にも通っています」


 このとき小梅は、自分でも大馬鹿者だと思ってるかのような、照れ笑いを見せるのだった。だがそれだけ炎弥を放ってはおけないと、彼女が思っている証拠である。


 しかし、先を見据えるのであれば、今彼女が失っている時間というのは決して小さいとは言えない。


 悪い言い方をすれば炎弥次第なのだと言うことなのだが、そればかりは自分が無責任に口を挟めることではなく、菱家の問題と言える。


 ただ彼女達から言い出せないことも多くあるに違いない。


 「ふむ……」


 すると、藤は一つため息がちに、何かを思い立ったのか、実に軽やかなタイピングで文章を打ち始めるのである。

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